2011年03月21日(月) |
「先生、絶対帰ってきて!」 |
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東日本大震災の津波に呑み込まれて多くの方が行方不明となった。その中には、誰かを助けようとして自ら津波の迫る海岸へと向かった人たちも数多くいた。陸前高田市の高田高校の教師、小野寺素子さんもその一人だった。学校にいた生徒を高台に避難させてから、自ら顧問を務める水泳部の生徒たちを助けようとして車で向かう途中に津波に巻き込まれたのである。朝日新聞の記事を引用しよう。
先生、帰ってきて 29歳高校教諭、生徒捜して津波に 2011年3月18日15時4分
高田高校の小野寺素子さん=岩手県立高田高校提供
先生、絶対帰ってきて――。東日本大震災で行方の分からなくなった岩手県陸前高田市の県立高田高校教師、小野寺(旧姓・毛利)素子さん(29)を、夫や同僚教師、生徒たちが案じている。「自分よりも、他人のことを真っ先に考える先生」と慕われてきた。顧問を務める水泳部の生徒を助けにいき、津波に巻き込まれたとみられる。再び教壇に立つ日をみんなが信じている。
11日午後、津波警報が市内に鳴り響くと、校内で部活動をしていた生徒257人は、学校裏手の高台にあるグラウンドへ避難した。そこに約10人の水泳部員の姿はなかった。冬場は学校から500メートルほど離れた屋内プールで練習していたからだ。
小野寺さんは、学校にいた生徒を避難させると、自分の車に乗ってプールをめざした。同僚の教員に「水泳部員を捜しにいく」と話していたという。
プールは海岸沿いにあった。小野寺さんが向かって間もなく、大津波が堤防を乗り越え、街をのみ込んだ。プールも近くの建物もすべて流された。水泳部員の大半と小野寺さんは行方が分からなくなった。
「自分のことは常に後回しだった。彼女らしいと言えば、彼女らしいです」。夫で、隣町の県立大船渡高校教師、浩詩さん(43)は話す。
3年前、高田高校で同僚として出会った。明るく、生徒にも同僚にも信頼されていた。水泳部の生徒が、家に遊びに来ることもあった。何より、人を思いやる気持ちにひかれた。昨年3月に結婚。披露宴での水泳部員のスピーチで「男子生徒をがっかりさせましたよ」と冷やかされた。
津波があった日も、いつも通りの朝だった。前日も仕事で遅かったのに、弁当を作ってくれた。いつも、「無理して作らなくていいよ」と言っても、「料理ぐらいさせて」と笑顔で返された。服や宝飾品など何かが欲しいとねだられたこともない。
浩詩さんは津波の翌日から、避難所や病院を駆け回った。安否につながる情報が何もないまま、補給のあてのないガソリンが尽きかけている。今月28日で、結婚から1年になる。「最高の妻なんです。帰ってきたら、『心配かけさせやがって』と怒ってやるんです」。笑顔と涙がまじり合いながら話した。
工藤良裕校長(54)は先月、小野寺さんから「妊娠するかもしれないので、来年度は担任を当てないでほしい」と打ち明けられていた。「彼女の希望をかなえてあげるつもり。だから、ちゃんと帰ってきて欲しい」(井上裕一)
大津波は多くの人を呑み込んで荒れ狂った。逃げ遅れた人や家の中にいた人、車に乗っている人まで容赦なく巻き込んで家ごと流し去った。その濁流に呑み込まれて流されても奇跡的に助かった人もいる。そんなふうに「心配させてごめんね」と素子先生が帰ってくることを、オレも高田高校の生徒たちと一緒に祈りたい。
一度は安全なところに避難していながら、残された家族や友人の安否を気遣って家や職場に戻り津波に巻き込まれた人がどれほど多かっただろうか。多くの人が「自分だけが助かればそれでいい」と思わなかったことが悲劇をさらに拡大したのである。住民たちに避難を広報車で呼びかけていてそのまま津波に巻き込まれた人がいた。津波を知らなかった中国人研修生を高台に避難させて自分は犠牲になった日本人がいた。
津波は自然の恐ろしさをまざまざと見せつけたが、我々はこの悲劇の中で同時に多くの美しい心の存在もまた知らされたのである。誰かを守ろうとして命をなげうつことは人間ができる最も崇高な行為である。
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