2011年02月04日(金) |
大相撲が八百長でもいいじゃないか |
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オレは気になって「八百長」というコトバの語源を調べてみた。明治時代の八百屋の店主であった長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であったという。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらいたい商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていたのがそもそもの語源で、このように実力では上回る側が「わざと負ける」場合に「八百屋の長兵衛」から「八百長」というコトバが誕生したわけで、もともと「八百長」と相撲との関わりは深かったのである。
相撲がもしも「スポーツ」ならば、フェアプレーの精神で公正に行われなければならない。しかし、あれが果たしてスポーツと言えるだろうか。不健康に巨大化した醜い肉体の男たちが、まわしというほとんど全裸に近い衣装でケツを丸出しにして戦う儀式がそもそもスポーツと呼ぶのにふさわしいだろうか。あれは日本の伝統芸能であり、ショーである。競技者はそれぞれ「部屋」と呼ばれる小さな集団に所属しているが、同じような相手と年中対戦しているわけでみんな顔なじみであり、場所が終われば一緒に酒を飲んだり麻雀をしたり野球賭博をしたりするオトモダチである。そんなオトモダチの間でどうして真剣勝負が成り立つだろうか。
いつも親しくしているオトモダチが7勝7敗である。千秋楽に勝ち越したいと思ってるそのオトモダチに星を譲ってやるというのは思いやりからくる行動であり美徳である。もちろんその借りは別の時に返してもらえる。借りを作ったままというわけにもいかない。そんなことをどうしていちいち目くじら立てて問題にするのか。別にかまわないじゃないか。「和を以って貴しと為す」というのが日本文化なのである。
カド番を経験して弱かったはずの大関が急に強くなって連続優勝し、横綱で終わったという例をオレは何度か見た。もちろん大関で終わるか横綱になれるかという違いは大きいわけで、そのため八百長を仕組んでまでもという力士がいてもおかしくない。星一つを100万円で勝って、2場所連続優勝するために3000万円近く使ったとしても、横綱になれば十分に取り戻せる。一度横綱になれば二度と降格することもない。これまでのそうした事例に八百長が介在したとなかったのかどうかを検証する術はない。すべて過去の話である。しかし、大相撲が伝統芸能であり、興行のために横綱という看板を必要としていたことを考えれば「八百長ででも横綱を出したい」という作為が成立する背景は十分に考えられる。それが事実だからこそ過去の八百長疑惑では必死でもみ消そうとして出版社を訴えたりしてきたのではないだろうか。
プロレスにはシナリオがあって、決められたシナリオ通りにレスラーたちは戦ってるという。いかにそのシナリオ通りに技を掛け、場外乱闘し、しかも致命的なケガはしないように戦うのか、彼らは鍛えられているのである。大相撲がなぜそういうものとして認知されなかったのだろうか。どちらもゼニをとって観客に見せるという点ではただの興行であり、チケットの販売を巡ってヤクザと密接な関わりを持つことも事実であるし、そのヤクザと賭博なんかでズブズブの関係になっていたとして誰が責められるだろうか。昔からの体質の中に存在したものを、後から決めたルールを適用して問題にする必要があるのかとオレは言いたいのである。大相撲に八百長が存在してどこが悪いのかと。
オレはかつて相撲が好きだった。オレが子どもの頃のヒーローは玉の海だった。北の富士や大鵬といった名横綱たちとの死闘がなつかしいぜ。彼が27歳で急逝した時、オレはものすごいショックを受けたことを覚えている。
しかし、相撲の世界を支えているのは横綱になれるような天才力士だけではない。幕下から序ノ口に至るまでの多くの力士が相撲で食べていかないといけないのである。高収入が約束された幕内力士がその地位を維持するために必死になるのもよくわかるし、勝ったり負けたりを繰り返しつつ番付を現状維持するだけの大勢の力士が存在しなかったらそもそも相撲という興行が成り立たない。だからオレは、星の融通という形の八百長はこの世界に存在する一種の必要悪みたいなものだと受け止めていたのである。そんなことにいちいち目くじら立てなくてもいいじゃないかと。
もしも東京五輪で採用されたのが柔道ではなくて相撲だったとしたら、今の大相撲は全く違った方向に進んでしまい、世界で人気のあるスポーツとして認知されただろう。アフリカや中国の力持ちたちが技を競い合う中で、世界最強の男を決める真の格闘技世界一戦になったと思うのである。しかし、相撲はそんな形には進まなかった。スポーツではなくて伝統芸能としての道を選んだから今の不人気がある。
外国人労働者を導入することによってなんとか今の相撲興行は支えられているが、今回の八百長発覚事件でかなりのダメージを受けるのは確実だ。そうなると果たして入場料収入だけでやっていけるのかと思うのである。相撲が赤字産業になった場合、もはや政府の補助金無しではやっていけなくなるだろう。歌舞伎や能のように古典芸能として保存されるようになるのかも知れない。文部科学省の庇護のもとで細々と生き残るしかないかも知れないのだ。赤字になって高収入が保証されなくなれば外国人力士たちはみんな帰国するか、プロレスや総合格闘技に移籍するだろう。
大相撲が八百長でもいいじゃないか。仲間の間で星を融通し合うその結びつきがなぜいけないのか。オレは今回名前が出てしまった力士たちに寛大な処分が下ることを願っている。彼らはただその世界のしきたりに従っただけであり、間違ったことをしているという意識は何もなかったはずだ。多小の八百長があるかも知れないと思いつつ、目くじら立てずに見て楽しむのが大人の観客である。千秋楽に7勝7敗の力士の8割以上が勝つことなんて、確率論的に考えてもおかしすぎるじゃないか。相撲とはもともとそんなものであり、きわめて日本的なものである。
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