2010年07月01日(木) |
ヤクザとカタギの違いについての考察 |
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人がヤクザになるか、それともカタギの衆として生き続けるかというのは究極の選択である。そして、一度ヤクザになるという選択をした以上、その選択には覚悟が必要だ。もしもあなたが現世での安定と保身を望むならば決してカタギの身分を失ってはいけない。社会福祉という概念はカタギの方々にとって用意された救済システムであり、ヤクザを選ぶということはそうしたものに頼らずに自分の身は自己責任でなんとかするという覚悟が必要なのである。覚悟がないなら決してヤクザになどなってはならない。
暴力団の組員だけがヤクザなのではない。この世にはヤクザな仕事というのがたくさんある。たとえば「作家」「物書き」というのはヤクザな仕事だとオレは思っている。そういう職業を選択するということは覚悟が必要だ。書けなくなったら野垂れ死にしてもいいという覚悟があってはじめて作家という職業を選ぶことが許される。そこまでの覚悟がないならばカタギのまま、普通のサラリーマンで人生を終えればいい。ヤクザな仕事というのはハイリスクでありながら、リターンはあるかどうかわからない仕事なのである。
野球選手やプロゴルファーというのもヤクザな仕事である。昔、慶応大学に左腕の志村というすばらしい投手が居たが、彼は誘いをすべて断ってプロ野球ではなくてサラリーマンの道を選んだ。ヤクザではなく、カタギの仕事を選んだのである。ヤクザになってリスクを冒すよりも、安定した高収入をカタギの仕事で得られるならその方がいい。エリートサラリーマンになればいずれ年収1000万もらえるのは確実だが、プロ野球選手になればそれは確実ではない。芸能界というのもヤクザな世界である。少なくともオレには芸能人の多くがカタギには見えない。
いったんヤクザを選んだのに、ヤクザをやめたから生活保護をくれと甘えたことを言ってるヤツがいる。ふざけるなとオレはこの男を怒鳴りつけたくなる。読売新聞の記事を引用しよう。
生活保護却下された男性「組員でない」と主張
宮崎県警が暴力団員と認定していることを理由に、宮崎市に生活保護の受給申請を却下された同市の男性(59)が、「自分は暴力団員でない」として、市を相手取り、却下処分の取り消しを求めた訴訟の第1回口頭弁論が28日、宮崎地裁(足立正佳裁判長)であった。市は請求の棄却を求めた。
男性は1月、持病が悪化するなどして働けなくなったとして、生活保護を申請した。男性は体調を崩した数年前から市に申請を相談しており、過去に暴力団組員だったが、現在は脱退していると説明。「脱退届」や、二度と暴力団活動を行わないことを誓う誓約書を提出した。
厚生労働省は2006年3月、病気などの急迫した時以外は、暴力団員に生活保護を適用しないとする通知を自治体に出している。今回の申請を受けて、市が県警に男性について照会したところ、県警は2月、「暴力団員と認定している」と回答、市は申請を却下した。
男性の代理人弁護士らによると、男性は無料宿泊所で生活していたが、腎臓病が悪化して入院しており、入院期間に限定された生活保護を受給。しかし、退院後は打ち切られる見通しという。
男性側は「市は警察の情報をうのみにし、偏った判断をしている」と主張。市の代理人弁護士は「暴力団員であるかどうかは県警の認定に頼らざるを得ない」と話している。
県警組織犯罪対策課は「個別の事案には答えられないが、組員であるか否かは、様々な要素を総合的に判断して決める」としている。(2010年6月29日17時40分 読売新聞)
「病気になったから生活保護をくれ」という申請が認められるかだが、オレは最初に「野垂れ死にする覚悟」を書いている。少なくともアウトローの世界で生きる決心をした以上、カタギの衆の世界にある救済システムを利用する資格はなくなるのだ。この方はそのことをわかっていなかったのだろうか。
ヤクザの世界では、カタギの衆にとって禁止されている多くのことが日常になる。賭博や麻薬、管理売春、脱税などの法律に違反した行為や、賄賂、さまざまな不正などもヤクザの世界のシステムの一つである。もちろんそれらの多くは法律に違反することだから検挙されるというリスクを負う。しかし、すべて検挙されるわけではない。警察はヤクザの存在を黙認しているからある程度までそのシノギを許している。麻薬や覚醒剤の売買はヤクザのシノギの一つだが、警察が取り締まるのはカタギの衆にまで覚醒剤を売りさばこうとする行為であり、流通がヤクザの中で完結している場合は介入してこないのが普通である。
ヤクザとお友達になったりつきあったりする必要があるのは、ヤクザな仕事をしている人たちである。そう、この世には暴力団組員以外にもヤクザなお仕事があるのだ。作家やスポーツ選手がそうである。そして相撲取りも、歌手も、政治家も、みーんなヤクザなお仕事なのである。CDが売れなくなったら歌手は生活保護を受けられるのか。落選したら政治家は生活保護を受けられるのか。否である。そういうリスクの多い仕事を選んだ以上、そんな逃げ道を作るのは卑怯なのだ。そんなことを許してはならないのだ。失敗したら飢え死にしてもいいという覚悟が必要だ。それがヤクザという生き方なのである。それがヤクザの美学なのである。
相撲取りがヤクザである以上、賭博をしているのは日常茶飯事なのであり、全くおかしくない行為なのだ。サラリーマンが野球賭博で50万や100万を賭けるのは許されないが、ヤクザはそれが許される。相撲取りになるということ自体がハイリスクの選択であり、その中で幕内力士にまで昇進できるのはほんの一握りである。そんなヤクザな世界で日々真剣勝負をしている方々がカラダを張って自分の稼いだゼニで賭博をして、どこがいけないのか。カタギの生活をしているぬるい連中がそれを批判する資格はない。もともと住む世界が違うのである。同じ価値観やルールを押しつけることは間違っているのだ。
法律がすべての人に同じように適用されてると思ったら大間違いである。犯罪をしても政治家の場合はお目こぼしになっている場合がきっと多いだろう。芸能人もそうだ。たまに酒井法子のようにつかまる人もいるが、あれは運が悪かっただけである。多くの芸能人は麻薬や覚醒剤を見つからないように巧妙に入手している。そして巧妙に脱税している。ヤクザな世界に身を置いてるからこそそれができるのだ。芸能人に麻薬や覚醒剤を供給している広域暴力団が存在しているのは確実だが、警察はそこまで捜査の手を伸ばすことはない。お目こぼしすることが昔からお約束になっているのだろう。
ヤクザにはさまざまなシノギがある。賭場を開帳してシノギにしている者もいれば、管理売春をシノギにしているものもいる。企業の恐喝をシノギにしている輩もいる。最近は仕手株の取引で稼ぐヤクザもいる。もちろん失敗して組に損をさせれば、責任をとらされて大阪湾に死体となって浮かぶかも知れない。それがヤクザの世界の掟なのだ。
政治家にもさまざまなシノギがある。談合のとりまとめや公共工事の口利きなどである。政治家はそのシノギによって大きな収入を得るわけだが、そこにあえて突っ込まないのが警察のお約束なのである。たまにニュースになってるのはそういうシノギ全体のほんの一部であり、小沢一郎なんてそうしたシノギをどれだけ持ってるかわからない。クリーンなわけがないのだ。田中角栄の系譜を引き継いでいる政治家がそのやり方をそのまま踏襲しているのは当たり前のことである。そういう非合法の収入源がある人たちをカタギとは決して呼べない。政治家をヤクザに分類できるのはこういう理由があるからである。
ヤクザな生き方などできない市民には、ヤクザの生き方についてとやかく言う資格はない。だからオレは今騒ぎになっている大相撲の賭博問題に関して「あほか!」と思うだけである。ヤクザが賭博をやってようと別にかまわないじゃないか。カタギの衆に迷惑さえかけなかったら、ヤクザが何をしようと自由だ。相撲取りが賭博をしていたことで、何かカタギの衆に迷惑が掛かったことがあっただろうか? 否である。どうしてこんなに大騒ぎしないといけないのか。
朝青龍は誰が見てもヤクザな人であった。独特のヤクザオーラを放っていた。彼の品格を問題視し、ついに追放してしまった相撲界にそもそも品格などあったのだろうか。ヤクザな人たちに無理矢理「品格」などというものを押しつけて、カタギの世界の価値観を押しけたことは間違いだったのである。カタギの衆は普通はケンカなどしないが、ヤクザがケンカするのは日常茶飯事である。朝青龍はもっとも品格あるヤクザだった。それに比べれば大嶽親方も琴光喜もはるかに小物である。役者が違いすぎる。
この世はカタギとヤクザの絶妙なバランスの上に成り立っている。全員がヤクザなんて世の中はめちゃくちゃになってしまうだろうが、全員がカタギなんて世の中も共産主義的で全然面白くないのである。ヤクザとカタギは違うのである。
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