2009年01月30日(金) |
書評『旅する力(深夜特急ノート)』〜沢木耕太郎 |
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最後に一人旅をしたのはいつだっただろうか。1988年の夏、オレはシンガポール航空でフランクフルト往復の南回りのチケットを手にヨーロッパ放浪の旅に出た。その旅の記録をオレは 「白夜特急編」というタイトルで自分のWEBサイトに置いてある。中学生の頃から自転車で遠くに出かけるのが好きで、夏休みや春休みはユースホステルに泊まって九州や信州をサイクリングした。大学生になってからはサイクリング部に所属し、その傍ら一人で長期の旅に出ることが多かった。就職してからも教師という長期の休みが取れる仕事だったので相変わらず旅を続けた。そうして国内ばかりを旅していた自分が、海外放浪を思いたったのは沢木耕太郎氏の著書、「深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)」を読んで影響を受けたことが大きい。沢木氏が26歳でその旅に出たように、オレは27歳の時にヨーロッパ放浪の旅に出た。
それから20年経った。その頃よりもはるかに円高になり、海外旅行はしやすくなった。ところが一人旅をする若者は昔に比べて減っているという。国内のユースホステルの利用者も昔に比べて激減したらしい。かつて、礼文島の桃岩荘に代表されたような安宿で見知らぬ旅人たちとの交流を求めるような旅のスタイルは廃れ、今の若者は旅をしなくなったと言われる。国鉄の時代には「均一周遊券」(後にワイド周遊券)という切符があって指定された区間内・期間内なら乗り放題だった。学生時代のオレはそれをフルに活用して旅をしていたことを思い出す。北海道を旅するのに、自転車と鉄道を組み合わせて回ることができた。天北線も標津線も当時はまだ廃止されていなかった。
沢木氏の著書「旅する力」の中では、「深夜特急」の旅をはじめるまでのさまざまなエピソードが描かれる。「深夜特急」ファンの私は、その一つ一つをたまらなく愛しいものとして味わった。紀行文でありながら単なる観光ガイドではなく、自分が見たものを通じて自分の内面を見つめるそのスタイルは、オレが自分の紀行文である「白夜特急」でそのまま拝借したものである。
今のオレにはもうかつての体力はない。27歳の自分だったからあの旅ができたのだと言えるし、沢木氏が「深夜特急」の旅をしたのも26歳だったから可能だったのだろう。ただ、オレがその本の中に感じる物足りなさはそのストイックな部分なのだ。海外旅行をして知り合った美女とめくるめくような甘美な時を手に入れることを夢見て、かつてのオレは旅立ったのではなかったのか。
旅にはハプニングがつきまとう。ザルツブルグからウィーンに向かうときにオレは間違えて反対方向の列車に乗ってしまった。最初に停まった駅で降りて引き返そうとしたらまたまたトラブルがあって列車に乗り遅れた。その結果地元の人々が乗っている乗り合いバスでザルツブルグまで戻ることとなった。見慣れない東洋人をバスの他の乗客はみんなじろじろみていた。そこにまだ20歳くらいかと思われる美しいシスター姿の女性が乗ってきた。何の気まぐれか、彼女は視線が合ったオレの隣に座ったのである。彼女と意志を疎通するためには自分のドイツ語能力はあまりにも貧弱であり、いきなり「Ich liebe dich 」と告白するわけにもいかず(一目惚れに近い状態だったが)、オレは持ち物の中で奇跡的に残っていた不二家のミルキーを彼女にあげた。バスを降りてから、名前も聞かなかったことを激しく後悔した。
オレが旅で学んだのは、美しい景色を眺めることよりも、名所旧跡に行くことよりも、自分が知らない国の人々の日常を眺めること。そこに暮らす人々と語り合うことの方がずっと楽しくて意味のあることだということだ。そんな当たり前の発見を、沢木氏もまたその著書の中で書いているのである。
オレは「深夜特急」の読者として旅立った。しかし、もしもオレの方が先に生まれていたら、そして同じように海外放浪をしたいと思っていたならどうなっていただろうかと思うのである。沢木氏よりも先にオレが「深夜特急」を書いていた可能性だってあるのだ。読んでいてオレはそこに自分と同類の匂いをかいだ。オレがしたかったのはこんな旅だと思った。大学生の時にオレが海外放浪の面白さを知っていれば、もしかするとそのまま日本に帰ってこなかったかも知れないような気がするのである。
いつかたっぷりの自由な時間を手に入れたら、またオレは海外放浪の旅に出てみたい。そんな気持ちを新たにさせてくれるような読書体験だった。海外への旅を考えている人に、そしてまだ旅をしたことがない人に、これは是非読んで欲しいと思う一冊である。
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