2009年01月19日(月) |
高校は義務教育ではありません! |
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高校は義務教育ではない。だから高校では勉強しない者は単位が取れないし、卒業できないのは当たり前だとオレは思っていた。中学までは勉強しなくても年齢が来れば卒業できるが(本当はそれにもオレは反対だ。小学生レベルや幼稚園レベルのやつは社会に出して欲しくないからだ。)高校には留年や落第がある。そんな厳しい世界であるということを理解せずに安易な気持ちで入学し、入ってみてからバイトや非行にあけくれて卒業できなくなってもそれは自己責任である。
もうずいぶん前のことだが、オレの住む最寄り駅で署名運動をしている方たちがいた。なんでも高校全入を求める署名だった。
「高校を義務化したら、知的障害の方も入学できますから!」
と、まるでそれがとってもすばらしいことのようにその方は語っていたので。オレはそこでかなり怒った。当時のオレはまだ公立高校に勤務していたのである。
「入っても勉強しない者はどうするんですか?義務教育にしたら誰でも入れるから勉強しない者も入ってきますよ」
オレのその質問に対して、相手はすごく驚いた表情だった。ようするに何も考えていなかったのである。そんなことをすれば、現場の教育がめちゃくちゃに破壊されることなどちっとも理解していないのだ。大阪府の公立高校の中には卒業までに生徒が2割、3割と辞めてしまう学校が現実に存在する。そんな状況で義務化したらどうなるのか。義務教育にするということは、全く勉強しない生徒にも卒業を保証してやらなければならなくなるのである。高校が「勉強して単位を取得した者にだけ卒業を認める」場所ではなくなってしまうのである。そうなると高校の教育現場はますます荒廃するだろう。学級崩壊も進むだろうし、予備校みたいな高校しか生き残れないということになってしまうのである。
高校の教科書はかなり難しいとオレは思っている。少なくとも高校レベルの数学や理科を日本中の高校がちゃんと授業できるとは思えない。小学生レベルの算数もおぼつかない生徒しか入学してこないような高校もあるという。分数の計算を理解できない生徒に高校数学なんか無意味である。そういう意味では今の高校進学率も高すぎるくらいだ。オレは大学を増やしすぎたことを批判したが、同様に今の高校の状況にも大きな問題があると思っている。大学生の学力低下の前には明らかに高校生の学力低下が存在するからだ。
社会が障害者に対して門戸を開くのは結構なことだ。しかし、こんな主張をする方々にオレは賛同できない。それは平等を通り越して「不公平」というものである。アサヒコムの記事を引用しよう。
知的障害者も普通高へ 2009年01月16日
●配慮を求め要望書
知的障害者が県立の普通高校へ入学できやすくするよう特別の配慮を求める要望書を15日、知的障害者の家族会が県教委に提出した。入試の問題を知的障害者でも解けるように一部変更するなどの特別措置を求めている。
要望したのは「愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会」 (白石勇代表) 。県教委によると、知的障害者も県立の普通高校を受験できるが、現在は入試の筆記試験の得点への配慮はしていない。ただし、知的障害者の受験者は「特別措置願」 を提出し、別室での受験や中学校の教師が介助者として入試に同席することなどは出来る。
しかし、同会は「知的障害者に中学時代の仲間がいる地元の普通高校へ通わせてあげたい」 として、入試の際は、筆記試験の内容を記述式から選択式にしたり、課題を与えられて書く作文に自分の受験に対する思いを書いてもよいようにしたりするなどの特別措置を求めている。
白石代表は「生徒たちは懸命に努力しているが、健常者と同じテストでは点を取れない。点数以外の部分も評価してほしい」 と訴えている。
これに対し、県教委は「これまで、知的障害者にだけ筆記試験の内容を変えるのは公平性の確保につながらないと判断して認めてこなかった。今後は高校長と協議して判断したい」 (高校教育課) としている。(鈴木洋和)
入学しても授業内容を理解できず「お客さん」となって教室で授業時間を過ごさなければならないことは知的障害を持つ方たちにとって「苦痛」ではないのか?こうして一部の生徒を特別使いすることの方が差別につながるのではないのか。もしも入学を認めれば、他の生徒と同じように試験をして単位認定して・・・ということが不可能になるわけである。点数が足りずに留年する生徒が出たとして「どうしてぼくたちは留年することになったのに、成績が悪くても進級できる人たちがいるのですか?」と訴えればどう答えるのか。公平性の原則が守られなくなってしまうのだ。
障害を持つ方に対して社会が一定の配慮を示すことは大切なことである。しかし、平等を推し進めるということが行き過ぎると、それは既存のさまざまなルールを破壊することになる。そしてこの世は決して平等な社会ではない。それは障害者であるか健常者であるかということとは無関係である。たとえばすべての人に結婚する権利があるという主張が認められたら、結婚相手が見つからない人にも全員結婚相手を保証しないといけなくなってしまうじゃないか。たとえば「障害者でも恋愛をする権利がある」という主張は確かに正論だ。しかし、恋愛というのはそもそも勉強やスポーツと違って努力の結果必ず手に入るものでもないし、周囲が与えられるようなものでもない。知的障害者の高校入学の問題も同様である。入学試験を受ける機会は保証してもいい。しかし、その試験で不合格になる健常者がいる一方で、やさしくしてもらった試験問題で合格する知的障害者がいるという不平等を果たして社会は容認できるだろうか。不合格になった受験生がその不公平を許せるのだろうか。オレはそんなことを考えてしまうのである。
高校は義務教育じゃない。そこは高校生活を楽しみつつも大学受験や将来の進路のために勉強をするための場所である。それぞれの高校の示す基準に達しなかった場合には容赦なく留年させられるものであるとオレは思っている。出席日数、定期試験の得点、そうした基準を満たしているからこそ卒業証明書が授与され、大学を受験することが認められるのだ。オレには知的障害を持つ方たちを差別する意図はない。ただ、高校入学させよという運動をする方々は平等の意味をはき違えてるのではないかと思うのである。
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