2008年08月05日(火) |
どうか、その子を殺さないでください |
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子どもや配偶者を道連れにして集団自殺することを日本では「無理心中」と呼ぶ。新聞にはそのような見出しが並ぶ。そうしたニュースを連続して読んだ。そしてオレはなんともやりきれない気分になった。どうして子どもたちまで巻き添えにするのかと。どうして大人だけで勝手に死んでいってくれないのかと。
大阪・池田市の民家に一家4人の変死体、無理心中か
4日午後1時45分ごろ、大阪府池田市伏尾台2、会社員谷川篤史さん(36)方で、一家4人が死亡しているのを、通報で駆けつけた池田署員が見つけた。
4人の遺体には刺し傷などがあり、室内に凶器とみられる血の付いた包丁3本があった。玄関が施錠され、物色の形跡もないことなどから、同署は、無理心中の可能性が高いとみて調べている。
発表では、4人は谷川さんと妻の美穂子さん(32)、長男で同市立伏尾台小4年の祐樹君(10)、二男で幼稚園児の響ちゃん(5)。(2008年8月4日20時17分 読売新聞)
無理心中で飛び降り?国道高架下に女性と子ども計3人の遺体
3日午後0時30分ごろ、金沢市今町の国道8号の高架下で、同市、無職女性(36)と小学2年生の長女(7)、保育園児の二女(1)が倒れているのを金沢東署員が見つけた。
3人はすでに死亡していた。
発表によると、現場の約10メートル上の国道上に、女性が運転していたとみられる軽乗用車が止めてあった。車内から遺書が見つかったことや、女性のけがの状況などから、同署は、女性が無理心中を図り、国道から飛び降りたとみている。
女性は病気で苦しんでいたという。2日は、子ども2人と女性の実家にいたが、同日夕から行方が分からなくなり、3日朝に会社員の夫が捜索願いを出していた。(2008年8月3日21時19分 読売新聞)
大人には死にたくなるような事情が確かに存在したのだろう。追いつめられて、もはや打開策もなく、あるいは病気の苦しみに耐えられず、死ぬという選択肢しか選べなかったという場合もあるだろう。しかし、子どもは違う。どんなにその人生が貧しく、恵まれず、愛情に乏しいものであったとしても、死ぬよりは生きている方がずっといいとオレは思う。なぜなら死ぬことはその時点で人生のあらゆる可能性を否定することだからだ。人は生きている限りなんにでもなりうる存在なのであり、その生命を奪う行為はその人間にとっての将来の可能性すべてを奪い取る行為であるからこそ許されないのだ。
オレは自殺を否定しない。もちろん自分の身の回りの人が死のうとしていれば必死で止めるだろうし、そのために自分ができる限りのことをするだろう。しかし、その一方で人には自分の死ぬ時を自分で決定する権利もあるのじゃないかと思うのだ。熟考して最後に至った結論が「死」であったとき、その死は否定されるものではない。乃木将軍の殉死や近衛文麿氏の自殺をオレは心のどこかで肯定している。
大人たちが自殺することをオレは止めはしない。あなたたちにもきっとよんどころない事情があるのだろう。そしてこの世はあまりにもそうした事情に対して冷たいのだろう。しかしオレは子どもだけは守ってくれと頼みたいのである。あなたの子どもはあなたの所有物ではない。一個の人格を持ち、無限の可能性を持った稀有の存在なのだ。この世にその代わりとなる存在はないのだ。あなたがそうして殺してしまえば、永久にその存在は失われてしまうのだ。その罪の重さがあなたにはわかるのか。
幼くして自分の親に自殺されることはショックだろう。でもそれは殺されてしまうことよりははるかにマシなことだとオレは思うのだ。こんな苦しい日々ならいっそ殺してくれた方が良かったと思うことは、自分が手に入れたかけがえのない生に対する冒涜だ。人生は一度きりしかない。その一度の人生はよりよく生きようとする不断の努力によって誰もが輝かせることができるはずだ。親がいなければ絶対に不幸になるかというと、そんなことはない。
どうか、幼な子の命を奪わないでくれ。あなたが手に掛けて殺そうとするとき、あなたはわが子の目を見つめることができるか。必死で生きようとしている子どもの叫びがあなたには聞こえるのか。
日本のどこかで不慮の事故で命を落とす子どもたちがいる。ため池で転落死したり、突如増水した川に飲み込まれて流されたり、暴走してきたトラックにはねられたり、そうした子どもたちの中で、自分が死ぬことを受け入れていた子どもなど一人も居ないはずだ。みんな理不尽に襲ってきたその運命に驚き、必死で抵抗し、それでも命が尽きたのである。その無念さがわかるだろうか。そこで断ち切られてしまう可能性がどれほどかけがえのない大切なものなのか、今その手で我が子を殺そうとしているあなたにはわかるのか。
どうか、必死で生きようとしている我が子を殺そうとした行為の罪深さに気がついてくれ。自分が死のうとしたことの愚かさにも気がついてくれるならなおいいのだが。我々が宿命的に所有している一回の限定された生を奪い取る行為は、生そのものの意味に対する冒涜である。いかにその生の現実が苦悩に満ちた困難なものであったとしても、一回性ゆえにその生は輝くべきはずのものではないのか。自分が手にいれた生と全く同じ生を共有する人は誰もいない。自分が生きている生はかけがえのないただ一つの生である。だからこそ、人はその生をよりよく生きるための努力を欠かせてはいけないのである。人を殺すことがこの世でもっとも大きな罪である理由は、その行為によって奪われるものが今生きているという事実だけではなく、将来もその命が存在し、よりよく生きようとする可能性までも奪ってしまうからである。殺人というのは未来に対する一種のテロ行為なのだ。あなたが我が子を殺そうとしていることはこんなにも罪深いことなのだ。
どうか、殺さないでくれ。原爆投下直後の広島で、我が子をかばって爆風の盾となりながら全身にガラスが刺さって血まみれになって死んだ母親をあなたは知ってるか。東京大空襲の猛火の中でどんなに多くの母親が子どもを強く抱いたまま焼けこげた死体となったことだろうか。たとえあなたが死んでも命をかけて守らなければならない対象が我が子ではないのか。それをどうして殺すのか。オレはその理不尽さを訴える。このような悲劇が二度と繰り返されないようにとここで書かずにはいられない。
追記:人生の一回性については、「100万回生きたねこ・試論」の中で触れています。ぜひごらんになってください。
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