2007年12月16日(日) |
変なヤツに銃を持たせるな! |
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佐世保の乱射事件の犯人は無職だった。オレはいつも「無職」にろくなヤツはいないと主張しているのだが、今回もまたその通りだったのである。働けるのに働かず、資産が有れば別だがそんなものもなく他人に寄生し、家族にも迷惑をかけているというとんでもないヤツ、そして近所の人たちから「怪しいヤツ」「いつか何か起こしそうなヤツ」と思われていた人間にどうして銃を持たせたのか? 二人の人命が失われた今回の事件だが、その責任はこんなヤツに銃を所持することを認めた長崎県公安委員会と、市民からの「街中で銃を持って歩いてる」という通報に対しても全く動かなかった警察の怠慢にある。少なくとも警察は自分たちの「不作為」が事件の原因の一つであったことを認識し、被害者からの賠償に誠実に応じるべきだろう。
この平和な日本でなぜ銃の所持が必要なのか。狩猟などという野蛮な趣味がなぜ認められているのか。オレはそれが納得いかないのである。北海道で熊を撃つとかいう特別な理由でない限りこんな制度は廃止してくれ。どうしても銃を所持してハンティングを楽しみたいのならば、連帯保証人を20人集めて、もしも人を傷つけた場合は全員で賠償に当たりますという保証ができるものにだけ所持を認めろ。そうすればこんな事件は起きなくなるだろう。
銃所持許可に疑問の声、散弾銃は26万丁 乱射事件2007年12月15日22時48分
長崎県佐世保市の銃乱射事件で、8人を殺傷した馬込政義容疑者(37)は02年7月〜今年9月に順次、散弾銃3丁と空気銃1丁の所持について同県公安委員会から許可を受けていた。県警は「適正な許可だ」と説明しているが、この許可には、事件前から近隣住民が疑問の声を上げていた。犯罪の道具にもなる銃の許可のあり方は、改めて議論を呼びそうだ。
「銃は面接や銃の検査をした上で適正に許可されている」「本来の適正な目的外で犯罪に使われており、残念」。15日昼、県警佐世保署の幹部たちは馬込政義容疑者への銃の所持許可について、取材にそう語った。
馬込容疑者の近所に住む男性は数年前、「(馬込容疑者が)銃を持っているのは危ないのでは」と交番に訴えたが、取り合われなかったという。男性は馬込容疑者が銃を持って近所を歩き回るのを見たことがあった。
県警は銃所持許可手続きで馬込容疑者の面接をした際は、「(様子が)おかしいという報告はなかった」としている。
猟銃や空気銃を所持するには、講習会や筆記試験などを受ける必要がある。その上で警察署の審査を経て、都道府県公安委員会から許可される。
用途は狩猟、有害鳥獣駆除、標的射撃に限られる。許可の有効期間は許可日から3回目の誕生日が経過するまで。引き続き所持するには更新を申請し、許可を得る必要がある。申請には医師の診断書などの提出が要る。
警察庁によると、06年末現在で所持の許可を受けているのは、散弾銃約26万4000丁、ライフル銃約4万1000丁、空気銃約3万4000丁。散弾銃の数は、減少傾向にある。猟銃による発砲事件は昨年は前年比10件減の3件で、死者はゼロ、けが人は5人だった。
ところが、今年は1〜6月ですでに7件発生。5月には鹿児島市で金融業の男が弟を散弾銃で射殺する事件があった。
銃所持の許可をめぐっては、警察の審査の違法性が争われる訴訟も起きている。宇都宮市で02年、主婦2人が散弾銃で殺傷された事件で、遺族らが「栃木県警は主婦の1人と犯人とのトラブルを認識しながら、不十分な調査しかせずに許可した」として、県などに賠償を求めて提訴。今年5月の宇都宮地裁判決は県警の責任を全面的に認めた(県は控訴)。 94年に米国で射殺された福岡県出身の砂田敬さん(当時22)の父で、NGO「ストップ・ガン・キャラバン隊」代表の向壱さん(61)は、今回の事件に「公安委には市民の安全・安心が喫緊の課題だという危機感が感じられない」と憤る。
「公安委員会は銃所持者を公表し、周囲が監視できるようにするとともに、銃の管理状況を抜き打ちでチェックするなどの対策をすべきだ」
恐ろしいことに26万丁もの散弾銃が野放しになってるのである。それだけあればきっと持ち主の中にはろくでないヤツもいるはずだ。
ただ、ここであれこれ言ってもはじまらない。このような犯罪をどうすればなくせるかということを考えないといけない。そこでオレに名案が一つある。これは究極の案である。これを導入すればもう二度とこのような犯罪は起きないだろう。それはすべての銃に人間感知センサーを搭載させるのである。もしも標的の中に人間が存在する状態で引き金を引けば、その瞬間に銃が自爆して引き金を引いた方が死ぬという仕組みにすればいい。そうすれば絶対にこのような犯罪は起きない。ただ自殺は可能である。自分に向けて撃てば自爆してくれるのだから。まあ死にたい人が自分で死ぬのはここでは問題ではない。無辜の市民が無差別に殺されることが問題なのだ。いますぐに銃器を製造してるメーカーはこの人間感知センサーの開発に力を入れ、完成したら順次すでに出回ってる銃と交換させ、交換に応じない人からは強制的に取り上げてしまえばいい。
そういう装置の開発には時間とお金がかかるから無理・・・ということならどうすればいいのか。その場合は変なヤツが銃を持つことの可能性を前提にして、銃の所持者全員から税金をとるか、掛け捨ての保険に加入させておいて、犠牲者が出た場合にその保険金から補償金を拠出するという方法だ。26万丁に対して一丁あたり年に1万円とれば、この基金を26億円用意することができる。年間に銃犯罪による犠牲者が出ればこの基金からその補償金が払われるようにするというのはどうか。もちろん撃った馬鹿は死刑だが、死んでしまえば賠償がとれないことがあるのでこのようにその原資を用意させるのである。
今回の事件でオレが一番納得いかないのは、この事件の加害者の不審な行動に対して近隣住民が通報していたにも関わらず、警察が放置したことだ。この危険な男を放置するということは佐世保というのはよほど犯罪が多くて警察が忙しく、こんな男一人に取り合っていられないという状況だったのかも知れない。もしかして米兵の犯罪が多かったのだろうか。
銃を人に向けるような人間に情状酌量の余地は全くない。殺意を他人に向けることができるという時点で、そんな危険な人間を市民社会に置くわけにはいかない。死刑以外はありえない。そういう意味で今回の事件の容疑者がおそらく自殺していたという決着は残念ではあったが、意味不明な言動を繰り返されてよけいに不快な思いをさせられるよりはマシだったかも知れない。しかし、よりによって教会を死に場所に選んだとはどういうことだ。これだけの事件を起こしながらもまだおまえは神に救いを求めていたのか。救われないことをしたのはおまえだろう。とっとと地獄に堕ちやがれ。
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