2007年07月17日(火) |
ヘタレ試論(なぜヘタレはヘタレなのか) |
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オレはコンプレックスの強い人間が嫌いだ。自分に対する自信のなさを屈折した他者への憎悪や悪意に変換してしまうようなヘタレとは付き合いたくない。そんなヤツらと積極的に関わり合いたいとは思わない。しかしこの世には学歴や容姿や出自や家柄に対してコンプレックスを持ってる人間がとにかく多いのである。
たとえばオレは背が低い。そのことはオレの重要な属性の一つである。もしかしたらこれまでにオレが片想いした相手でオレのことを振った女性の中には、それが最大の理由であった場合もあったかも知れない。確かにオレは自分よりも背が高い女性のことを好きになったことが何度もある。しかし、そういう理由でオレを選ばない女などこっちから願い下げである。オレは小さい自分のことを、これからの地球環境問題に適合した省エネ型個体だととらえている。体重も軽いために消費するエネルギーも少ない。これからの人類はこうあるべきだと思っている。考えたらデカイやつの方が迷惑であり、存在するだけで多くのCO2を排出するわけで、オレは税金の体重別課税を強く主張したいと常々思っているくらいだ。介護するときも身体のデカイやつは大変である。社会的コストがかかるのである。だから税金を高くすることには合理的理由がある。税金が高いと嘆くならダイエットに励めばいいのである。努力によって節税は十分可能だ。
受験もしなかった大学のことを「合格確実といわれたけど受けなかったんだ」とほざくような大ボラ吹きとは付き合いたくない。「司法試験合格確実だったけど受けなかったんだ」と語る馬鹿がいればそれだけでオレはそいつをヘタレと断定する。受験というのは合格するにせよしないにせよ、受けなかったら何もはじまらないのである。受験勉強をしたことないヤツが「そんなものに意味はないよ」と語っていればオレはそいつをヘタレだと断定する。意味があったかどうかはやってみたものにしかわからないはずだ。勝負に参加しなかった者にどうしてその意味について発言する資格があるんだ。
オレは18歳の時、大学受験というステージで戦うプレイヤーの一人だった。オレのライバルは全国の有名進学校や大手予備校で鍛えられたエリートたちであり、オレはそんな手強い相手と戦うために本屋で問題集を立ち読みしてはその場で解きまくり、寝る時間以外はたいてい勉強していた。そうして必死で勉強してきたことはオレの誇りであり、少なくともオレの重要な属性の一つになっているとオレは思っている。今の自分を支えるさまざまな知識や教養の根底になるものはあの頃に築かれたのだと思っている。受験勉強した英語も数学も、自分の人生に無駄だったものなど一つもなかったはずである。「こんなことをやってて何になるんだ」とほざいてやらないヤツは、たいてい負け犬でありヘタレである。文句は死ぬ気で勉強してから言ってくれ。本当に死ぬ気で勉強すれば、今度はそうしてがんばった時間を否定する気など二度と起きないはずである。「100万回生きたねこ」が何度も生まれ変わるのは、主体的に生きられなかった前世を否定しているからである。自己の努力を認め、自己の行為を価値あることととらえることがすなわち自己肯定である。
生まれたときに既に持っている属性、つまり容姿や家柄は変えられない。しかしそれが人生のすべてを決定してしまうだろうか。決してそうではない。すぐれた容姿や家柄を持って生まれてきても人生を思い通りにできるとは限らない。たとえば安倍晋三はみんなにうらやましがられるような家柄だが、お世辞にも頭がいいとは言えない。それは彼のあまりにもお馬鹿な発言や政治行動を見ればわかる。こんなヤツでも総理大臣になれる。あんなヘタレでも日本の頂点に立てるのである。オレはそれをすごいことだと思う。ヘタレの中のヘタレ、ある意味彼はヘタレの星である。もうそうなるとヘタレとは言えないのかも知れない。しかしオレは安倍晋三をうらやましいとは思わない。もしもオレが安倍晋三と暴言コラムニスト江草乗のいずれかを生まれるときに選択できるとすれば、オレは迷わず江草乗を選ぶ。
クルマで道を走れば至る所にパチンコ屋がある。こんなに大量のパチンコ屋が繁盛しているということは、そこでゼニを浪費するヘタレが多いということである。オレは「趣味はパチンコ」などとほざくヤツは基本的にヘタレだと思う。そんな情けないことを趣味にするなよとオレは嘆く。なぜ人生の貴重な時間をそんなことに使うのだ。なぜそんなギャンブルにのめり込むんだ。なぜ赤ちゃんをクルマに置いたままで熱中するんだ。そんなヘタレが大量に日本に存在することは悪夢以外の何モノでもない。もしもオレが日本の独裁者となれば即日パチンコを非合法化し、すべての店を廃業させるだろう。それによって生活保護受給者は激減するだろう。しかし今やパチンコという産業は日本経済の必要悪となって、警察や暴力団と一体となって社会にしっかりと根付いている。もしもオレが政治家となってパチンコ非合法化を強く訴えたとすれば、おそらく邪魔者として殺されるだろう。
ヘタレゆえに貧困に落ち込んでいく者がいることは自己責任である。しかし、ヘタレのために社会が支払っていいる多大なコストを思うと、どうやってこの困った連中を撲滅すればいいのかとオレは悩む。なぜこの世には大量のヘタレが存在するのか。それは教育の問題なのか。それとも生まれながらのヘタレ、遺伝的にヘタレにしかなれない者が存在するのだろうか。
どうすれば人はヘタレにならずに済むのか。最初に定義したごとくにヘタレとは「自分に対する自信のなさを屈折した他者への憎悪や悪意に変換してしまうような人間」であると考えるならば、すべての人が自分の価値を理解し、自己に対して肯定的になることによってヘタレにならずに生きることができるのだと言えよう。もちろん自己を肯定するということはヘタレであることに開き直ることではない。価値のない自分をそのままあきらめるということでもない。よりよく生きたい、明日の自分を今日の自分よりも向上させたいと願う意志を持ち、それを実際の行動に移すことが出来る人は決してヘタレではない。向上心を失った人間、向上心を語っても行動できない人間、向上心を持ってる人間に悪意を持つ人間、心の中が他者への嫉妬と悪意ばかりの人間、それがヘタレだ。
ヘタレはヘタレでない人間のことが嫌いだ。この世の中がみんなヘタレばかりだといいのだと考えていて、自分たちの仲間を増殖させようとして勢力拡大の活動に余念がない。オレはそうしたヘタレどもと戦い、そしてヘタレ撲滅のための論陣を張り続ける。それがこの暴言コラムの狙いであり、オレの最終的に意図することである。オレの暴言コラムを読んで反発したくなるあなたはもしかしてオレの指摘が図星だから反発したくなるのではないか。オレがここで「ヘタレ」と罵ったときに恥ずかしく思うのはあなたがその「ヘタレ」そのものだからではないのか。だったらなぜ「ヘタレ」であることを恥じ、明日からの自己を変えようとは思わないのか。オレはそれを強く訴えたいのだ。
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