2007年01月31日(水) |
その存在は、誰も知らない |
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映画「誰も知らない」を覚えてるだろうか。母親に捨てられた子どもたちが、自分たちだけで暮らす物語である。母親が出生届を出していないため兄妹は誰も学校には行ってなかった。親の都合で子どもを学校に行かせないなんて、戦前ならまだあったかも知れないが、およそ現代では考えられないことだった。学校に通わないで過ごす一日を子どもたちはどのように生活していたのだろうか。映画は実際に起きた事件を元にして作られたのだが、出生届を出さずに20年放置するような親がここにもいた。
「学校通わす金ない」親が出生届けず無戸籍で20年
1月30日15時37分配信 読売新聞
埼玉県鳩ヶ谷市の無職男(20)が、埼玉県警武南署に未成年者略取容疑などで逮捕されるまで、戸籍がなかったことが30日わかった。
両親が「戸籍を取っても、学校に行かせる金がない」などと出生届を出していなかったためといい、男は義務教育を受けずに成長した。男は逮捕後の2006年10月、戸籍を取得したが、法務省は「聞いたことがない事案」と話している。
同署によると、男は06年6月25日、鳩ヶ谷市の路上で、女児(当時4歳)に声を掛けて、スーパーのトイレに連れ込み、下着を脱がせて盗んだなどとして、同10月、未成年者略取と窃盗容疑などで逮捕された。男は現在、公判中。
男は、同署の取り調べの際、名前や住所、生年月日は答えた。しかし、戸籍の所在地は知らなかったため、同署が母親に確認すると、戸籍がないことが判明した。
小学校・中学校の9年間は義務教育である。この「義務」というコトバは外国からこの概念を輸入するときに置き換えられたものであり、直訳すれば「強制教育」と呼ぶべきものであった。社会人として必要な知識や教養、道徳を強制的に身につけさせるというのが西洋でのとらえ方である。日本ではそれを「義務」という中途半端な誤訳をしたために「親が子を学校に通わせる義務」「国家が子どもを教育する義務」という二つの義務の概念に乖離することになる。
教育の義務は親にあるのか学校にあるのか。オレは双方にあると思っている。つまり国には好ましい公教育の環境を整備する義務があり、親には子どもを学校にきちっと通わせる義務があるということなのだ。その義務を放棄した情けない親が今回取り上げる事件の20歳無職男の両親である。いくらゼニがないといっても、学校に通えなかった子がその後どんな人生を送ることになるのか想像できなかったのか。学校に通わないことでどんな不利益が発生するか、そのために将来の可能性がどんなに狭まるか、そもそも一度も学校に通わなかった人間が満足に就職したり出来るのか。だったらこの若者は自分の人生をどんなふうに築いていけばよいのか。この男性の両親の行為は一種の「育児放棄(ネグレクト)」であり、失ったものの大きさを思えば取り返しがつかない過ちである。わが子になんとこの馬鹿親たちは詫びるのか。
子は親を選べない。自分の携帯電話代は払ってもわが子の給食費を払ってくれないクソ親の子に生まれてくることは悲劇だが、出生届も出してくれない親に比べればまだ学校に行けるだけマシなのかも知れない。いや、そんなひどい親でも20年間食べさせて、育ててくれたのだからそれほど悪い親ではないのかも知れない。この世の中にはわずか3歳で親に虐待されて殺されてしまう子がいるからだ。そんなみじめな人生を得るために生まれてきたのか。人は生まれたときには無限の可能性を秘めている。ところがこの世にはそのすべてを奪ってしまう親だっているのだ。なんてことだ。それだったらいっそすべての子どもを親から引き離して国家が責任を持って育てるという仕組みにすればよいのか。それ以外にこのような悲劇から子どもを守る方法はないのか。
中島みゆきは「誕生」(ここをクリックすると歌詞が読めます)という曲の中でこのように歌った。
Remenber 生まれたときだれでも言われた筈
耳をすまして思い出して最初に聞いたwelcome
誰もが祝福されて生まれてきたはずなのに、なぜこのような悲劇がなくならないのだろうか。どうすれば誰もがこの世に生を受けたことの喜びを享受できるようになるのか。
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