2007年01月30日(火) |
給食費を払ってもらえない悲しみについて |
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全国の小・中学生の1%、約10万人が給食費を払っていないという。オレはこの実態にあきれるのだが、それは払わない親の罪であり子のせいではない。「払ってないから喰うな」と言われることが決してないことに親は甘えてるのであり、そんな自分勝手な人間が実際のところ増えているのである。
この1%という数字は、払ってない親たちから見れば「なんだ、こんなに大勢いるじゃん」という免罪符にしかならず、自分がその1%の情けない親であるという事実は無視してるのである。そこでオレは考える。なぜ世間一般の親はこんなにダメになってしまったのだろうか。かつて親というのは自分が飢えていても子には必死で喰わせるものではなかったのか。
その昔、飢餓に悩むアフリカの乳児のためにアメリカの慈善団体が粉ミルクを支援したことがあった。ところが貧しい母親たちは援助されたミルクを赤ん坊に飲まさずに高値で売り飛ばしたり、溶かす分量を減らして水増しした薄いミルクを与えたり、哺乳瓶をよく洗わずに雑菌まみれにしてしまったり(きれいな水がないからこれは仕方がないのだが)して、栄養失調や胃腸障害で多くの赤ん坊を死なせてしまうという悲劇につながった。
オレは思うのである。わが子を愛し、守り育てようと言う本能は必ずしも人間に先天的に備わってるものではない。それはある程度の豊かさがあってはじめて発揮されるものではないのかと。
その豊かさというのは必ずしも物質的な豊かさだけとは言えない。高級車を乗り回し、携帯電話の料金に月に何万も使うのに給食費を払わない親がいたとして、その子はいったい何を思うのだろうか。「そんなまずいものにお金なんか払わなくていいのよ」と親が開き直ったとして、子はその論理を受け入れるのだろうか。それとも恥ずかしく思って自分の小遣いで払おうとするのだろうか。
三浦綾子の小説「氷点」では、母親(継母)がヒロインの陽子の給食費を払ってくれず、陽子がそのお金を稼ぐために牛乳配達のアルバイトをするというくだりがある。親が払ってくれないのなら自分で払うという健気な気持ちを持つ子供も大勢いるだろう。しかし、そんな子供に対して「じゃあ親の代わりにおまえが払えよ」と言う教師はいない。そんな残酷なコトバを誰も告げることは出来ないのだ。
親同様に開き直れる馬鹿ならまだマシだ。親が払えるのに払ってくれないというその恥ずかしさを抱えて、食べることに罪悪感を感じつつそれでもお腹が空くから食べないわけにはいかない子どもたちもいるだろう。もしも自分の親が給食費を払ってくれないと知ったらどうするだろうか。オレはきっとその日から給食を食べないだろう。担任の先生に「お金を払ってないから給食はいりません」と宣言して、その時間は食べずに耐えるだろう。オレは乞食じゃない。お金を払ってないものを受け取るわけにはいかない。それが人間としてのプライドだ。カネは払わないけどしっかり食べるというのはそういう恥ずかしいことなんだ。誰かの善意に甘えて生きるということなのだ。オレはそういう生き方をしたくないだけだ。そんな単純な論理だ。
でも実際のところどうなのだろう。日本では親に給食費を払ってもらえない子どもが10万人もいる。もちろん生活に困窮していて本当に払えない親もいるだろうが、一戸建ての家に住んで住宅ローンを払い、高級車を乗り回して子は進学塾に行かせ、結果的に給食費のところに回す余裕のなくなった親もいるだろう。義務教育だから給食費も無償にせよとほざく親たちよ。どうか自分の子を見てくれ。そういう卑怯な生き方を親から学んだ子がどんな情けない人間になっていくのか。その事実に気づいてくれ。
子はしょせん親程度の情けない人間にしかなれない。それがわかっているならせめて子の前ではちゃんと誇り高い立派な人間でいるようにがんばってくれ。間違っても給食費を踏み倒してることを開き直るような恥ずかしい生き方を子に教えないでくれ。自分の親がクソ親だと知ったときに子がどれだけ悲しく思うか。どんなクソ親でも子は逃げられないんだ。時にはそんなクソ親に虐待されて殺されても子は従容としてその運命に従うしかないんだ。なんて悲しいことだろう。
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