2006年09月19日(火) |
かつて、そこには風呂屋があった・・・ |
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暴言日記セレクション、お勧めリンクの2つを更新致しました。
オレがまだ物心ついたばかりの幼い子どもだった頃、オレの家族が住んでいた長屋にはもちろん内風呂はなく、母に連れられて徒歩5分ほどの風呂屋に出かけた。母に連れられてだからもちろん女湯に入ったわけである。残念なことにその頃に見た女湯の光景はほとんど覚えていない。オレはかなり記憶力には自信があるのだが、そういう肝心なことを覚えていないことが残念なのである。
少し大きくなると(たぶん小学校低学年くらいだと思うが)、学年が一つ上の兄と二人で男湯に入るようになった。テレビでウルトラマンや巨人の星をやっていたころだ。子供の風呂代は確か30円くらいだったと思う。男湯にはなぜか女の子も入っていた。たぶんお父さんに連れてこられたからだろう。同じクラスの女の子も入っていたのだが、そんなにびっくりした記憶もない。それが至極普通の日常だったからである。今、男湯に娘を連れて入る父親はいるのだろうか。
その頃からだろうか、バスオールと呼ばれたユニットバスのお化けみたいなやつが普及し始めて、そいつを設置すれば簡単に内風呂を作ることができた。そういうわけで我が家にも風呂が登場することになった。たぶん小学校の高学年くらいだったと思う。それで風呂屋との縁はしばらく切れてしまうことになった。中学3年のときに我が家は引っ越して長屋から念願の一戸建てに移るわけだが、もちろんそこには最初から風呂があるわけで、大学生になるまで長いこと風呂屋には行かなかったことになる。
大学の四年間住んでいたアパートのそばには複数の風呂屋があって、二日か三日に一度通っていた。さすがに毎日通うには風呂代がもったいなかったからである。2時間ほどで実家に帰れたこともあり、週に2度は家庭教師のアルバイトで実家に帰って泊まっていたからそのときに風呂に入っていた。だから銭湯に行くのは実際は週に一、二度くらいだったが、それでも4年近く通っていたことになる。今でもあの地蔵湯や高原温泉はあるのだろうか。今は学生用のアパートでも風呂がついてるのが当たり前だからもう銭湯に行く人はほとんどいないだろう。そう、銭湯という文化が存続できたのは、風呂が付いていない家に住む多くの人がその周囲に居住している必要があったのだ。
オレが中学3年の時に転校してきた時、同じクラスに風呂屋の息子がいた。多少色気づいていたオレは、彼が風呂屋の子と知ってかなりうらやましかったことを思い出す。きっと風呂屋には秘密の覗き穴などがあって、そこからばっちり女湯や女湯の脱衣室が監視できるのだと想像していたからである。その風呂屋の近くには市営住宅が広がっていて、もちろんその市営住宅には風呂がついていなかった。住民はその風呂屋を利用するしかなかったのである。
ところが平屋建ての市営住宅はいつのまにか高層住宅に建て替えられ、もちろん風呂がついてることになった。それから何年経ったのだろうか。その風呂屋はなぜかそこに存続していたのである。もちろんオレも入りに行く必要がないから行ったことがなかったが、その前はよくクルマで通過するので「まだやってるんだな」と思っていた。しかし、とっくにビジネスとしては成立しなくなっていたはずである。なぜ市営住宅がなくなってからも10年近くその風呂屋は存在し続けたのだろうか。高齢者が多い住民たちは相変わらずその風呂屋を利用し続けたのだろうか。いや、そんなことはないだろう。
今日、自転車でその風呂屋の前を通ったとき、オレは風景が一変しているのに気づいた。そこにあるべき建物はもうどこにもなかった。真新しく黒々と舗装された駐車場に白線が引かれて、21台分の駐車スペースが整然と区画されていた。その奥にはやはり真新しい家が建っていて、その家の表札は、風呂屋の息子である彼の苗字だった。何もかもすっかりなくなってしまったのだ。
かつてそこには風呂屋があった。同じ曜日の同じ時間帯には必ず同じ客がいた。風呂上がりにフルーツ牛乳を飲むときには必ず腰に手を当てて直立不動の姿勢で飲むのが作法だった。プラッシーも売られていた。そう、風呂屋に置いてある飲み物はなぜか駄菓子屋に並ぶ飲み物とは違ったのだ。瓶に入ったリンゴジュースも懐かしかった。親と一緒に行ったときは必ず飲み物をねだったものだ。京都に住んでいた学生の時も風呂上がりによくリンゴジュースやプラッシーを飲んだことを思い出す。ブロック崩しのゲーム機もあって、風呂上がりのハダカのままの兄ちゃんがフリチンで遊んでいたことを思い出す。
かつてそこには風呂屋があった。存在したのは風呂屋だけではなく、そこに集まる多くの人々と、そこにだけ存在する文化があった。入浴時には他の客に迷惑を掛けないようにするためのさまざまな守るべきマナーがあった。風呂屋がなくなるということは、そんなすべてのものが同時に消え去るということである。風呂屋の文化を記憶にとどめるオレたちのような世代が死んでしまえば、もう永遠に失われるということなのだ。
かつてそこには風呂屋があった。オレは駐車場になってしまったその場所に立ちつくしながら、なぜその風呂屋が廃業する前に一度でも入りに来なかったのかと深く後悔したのである。
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