江草 乗の言いたい放題
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2006年08月10日(木) 夏の昼下がりのスクーター        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan

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 ガソリンがとんでもない値段に高騰したので、この夏はクルマに乗らないことに決めて家の近所の移動はスクーターにしている。スクーターの利点は狭い路地でも平気で入っていけることである。そんな暑い夏の昼下がり、オレはスクーターで自分が中学生の頃まで過ごした家の周辺を久しぶりに走ってみた。

 小学校でクラスメイトだった友人の家には立派な表札が掛かり、その家の当主は当然のことながら自分と同級生だった友人の名前に代わっていた。まだここに住んでいるんだと嬉しくなった。しかし、どの路地もやたら狭い。こんな路地をクルマが通れるのだろうかと思うほどの道ばかりである。軽自動車でも通れないような狭い道もある。

 子どもの頃はそこはもっと広い道だと思っていたはずだ。大人になってから眺める街は、すべてがミニサイズになってるように思えた。家から最寄り駅までもこんなに近かったのかと驚く。自分が15歳まで過ごした家はもう跡形もない。以前に来たときはその家の部分が更地になっていて、こんな狭いところで家族5人が暮らしていたのかと驚いたが、今はすでに真新しい家がその更地だったところに建てられていた。

 そこからクルマの通れない狭い路地を抜けると、昔通っていた小学校が目の前に出現した。小学生の頃、学校まで50mほどの所に住んでいたオレは、小学校3年までは給食がなかったので昼食を食べにいつも家に帰っていた。両親が共働きだったので家には誰もいない。オレはお釜の中の冷えたごはんをよそってお茶漬けにしたり、冷蔵庫にある卵焼きをおかずにしたり、鉄板焼きそばという名の袋麺の焼きそばを作って食べたりしていた。小学校の低学年の時から自分であり合わせのモノで何か作って食べたりしていたのだ。

 卸売市場に仕入れに行く両親は朝5時には家を出ていて、弁当を作る余裕など我が家にはなかった。ただ、そんな忙しい母も遠足の時だけはお弁当を作ってくれて、そのお弁当がとにかく嬉しかったことを覚えている。卵焼きとかまぼことタコさんウインナーくらいしか入っていないお弁当だったのだが。

 かつて過ごした家の周辺の、狭い路地が迷路のようになっていてクルマで入るのがためらわれるようなそんな一角は子どもの頃から少しも進化していなかった。おそらく今から50年経ってもこの場所はそれほど変化することなく、朽ち果てる家もあればそのまま存続する家もあるのだろう。現にそのときにかなり古いお屋敷だと思っていた家の多くはそのままの状態で残っていた。塀も白壁の蔵もそのままにしっかりと存在していた。その頃既に朽ち果てかけていた古い長屋も30年近い月日を経てまだ存在していた。あんなに狭くて日の当たらない長屋にいったいどういう人たちが今は住んでいるのだろうか。

 オレが子どもの頃、学校が終わって友達の家に遊びに行くと、必ず家にはお母さんがいた。だから両親が働いてるのは自分のように特に貧乏な一部の家だけだとオレは思っていた。せいぜい二間しかないような狭い家に上がり込んで遊んだことを思い出す。級友たちは長屋や文化住宅と呼ばれた借家住まいが当たり前で、一戸建ての家に住むのは数少ないブルジョワの子だけだった。もちろんオレの住んでいる地区が貧民街みたいな状況だったせいでもあるが。でもどの家でもお母さんはちゃんと家にいたのだ。当時「カギっ子」(母親が家にいないので自宅のカギを持ってる子)というコトバがあったが、それはまだ例外的な存在だったのだ。そしてオレの家にはそもそもカギを掛ける習慣すらなかった。盗られるような金目のものなど家のどこにも存在しなかった。

 あれから30年近い月日が流れた。高度経済成長は日本をそれなりに豊かにして労働者にマイホームを与えたが、住宅ローンの返済という重荷を庶民に背負わせ、そのためにお母さんはパートに出ることになり、進出してきた大型スーパーはその職場となり、商店街にあったいろんな個人商店は客をスーパーに奪われて壊滅した。クラスメイトには電器屋の子もいれば和菓子屋の子も豆腐屋の子も風呂屋の子もいた。風呂屋の子は時々番台に座っていた。今はすっかりゴーストタウンのようになった商店街にはかろうじてパーマ屋や喫茶店が残っていたが、かつてそこに存在した店のほとんどはもうシャッターをおろすか、普通の家に建て直されていた。これはおそらく日本中で見られる光景なんだろう。

 オレたちはこの30年でいったい何を得て何を失ったのだろうか。かつて我々の国の持っていたひとつの文化が消え去ったことは確かなのである。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に見られたような光景はかつての日本ではどこにでもあった日常だったのだ。スクーターでかつての商店街を走り抜けながら、オレはそんなことを思って妙に悲しかったのである。


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