2006年08月07日(月) |
いつか、こんな家に住みたいぜ! |
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本日の日記は、大手町のビジネスホテルに滞在してるという理由から「大手町全裸ナイト」という題名にしようかと思ったのですが、それではあまりにも品がないということでやっぱりやめてこのような内容にしました。品がないもののお好きな方は、以前に書いた「幕張全裸ナイト」をお読みください。
東京都台東区谷中、JR日暮里駅から徒歩3分のところに台東区立朝倉彫塑館というところがある。東京美術学校(今の東京芸大)の教授だった朝倉文夫氏(昭和39年没)の私邸を公開してるのである。鉄筋コンクリート造りのアトリエに丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの住居で構成され、中庭には自然の湧き水を利用した日本庭園がある。中庭の庭園を囲んでロの字型に建物が配置されている。庭園はその面積の半ばが池になっていて、ひんやりとした湧き水で満たされている。
東京で37度を記録したという今日のような暑い日も、その水辺の窓際にいると風が爽やかに感じられてそれほど暑苦しくない。館内には朝倉氏の数々の彫塑作品が展示されているが、この建物自体が芸術作品である。オレは安藤忠雄の馬鹿建築は嫌いだが、この朝倉彫塑館みたいなすぐれた和風建築にはあこがれる。
高温多湿の日本で、冷房に頼らずに涼しく過ごすにはどうすればいいのか。その見事な工夫がこの建物の随所にある。屋上庭園には太い大きな木が植えられている。そんな時代に屋上緑化なんてことを考えていた人がいたということにもオレは驚かされる。この朝倉彫塑館の建物が現在の形になったのは昭和10年頃のことだという。あの東京大空襲の時、この谷中の地域は無事だったのだろうか。オレはその不思議を思った。
水辺に涼を求めるという点では、立原道造の生前に設計した「ヒアシンス・ハウス」も同様である。わずか五坪の建坪しかないヒアシンス・ハウスは、残されたスケッチを元にさいたま市にある別所沼のほとりに2004年建設された。詩人の夢はそうして継承され形を持ったのである。立原道造が結核で死ぬことなく建築家として現代に生きていれば、どんな家を建てただろうか。彼の詩をこよなく愛するオレは、その詩の精神が建築でどんなふうに表現され得ただろうかと思うのだ。
いつから日本の家は空調に頼らなければ快適な温度が得られないようになってしまったのか。ふすまや障子、畳という文化がなぜ今の家から急激に姿を消していったのか。そこで失われるのは具体的な形としての日本家屋だけでなく、日本人のかつて愛した生活様式すべてではないのかとオレは危惧してしまうのだ。
オレがあこがれる生活は、朝倉彫塑館のように日本庭園のある家で、ネットをしたり本を読んだり、夏はかき氷を食べて蚊帳の中で眠り、冬は掘りごたつに入ってノートパソコンでインターネットをし、ベッドではなくて布団に眠るというものだ。株式投資でゼニを貯めてるのもひとえにその生活を実現したいからに他ならない。どれだけのゼニがあれば朝倉彫塑館のような家を建てることができるのか。おそらく金銭の問題ではないだろう。しかし、そこにはオレの理想とするものが詰まっているのである。
自然の風を心地よく感じる生活、流れる水の音がいつも聞こえる生活、そしてその入れ物である家のすべてが機能的で無駄がないことだ。よけいなものは必要ないかわりに必要なものはすべてそろっている。そんな住居が理想なのだ。立原道造がヒアシンスハウスを設計したとき、「自分一人分のアトリエはこんなもので十分」と考えていたはずである。日本には「起きて半畳寝て一畳」という古い言葉がある。数十室あるようなでかい家に住んでいても、人間ひとりが占拠する場所は、せいぜい半畳から一畳程度のものだということである。茶道にしても華道にしても、日本的美の世界の根底に流れるものはそうした「足ることを知る」美しさではなかっただろうか。
オレが安藤忠雄の馬鹿建築が嫌いなのは常に「いったいこの空間には何の意味があるんだ」「なんのためにこんな廊下や壁があるんだ」と思わされるからである。そこには機能美がないのである。すぐれた機能や性質を持つものはそれ自体美しさを備えていることが多い。例えば姫路城や松本城の美しさがそうである。戦闘という目的のために建てられた城はすぐれた機能美を見せている。形だけがお城の大阪城みたいなクソ建築とは全く違う。オレが株式投資で莫大なゼニを手にして、夢を叶えるためにはあとどれくらいの時間を必要とするのだろうか。どんなに時間がかかっても、死ぬまでには実現したいのである。そのためには、八百長のような株価操作をする連中はなんとしても撲滅したい。日本の株式市場が正常に機能し続けることをオレは願っている。投資をギャンブルにはしたくないのである。
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