オレが母親から最初に買ってもらった絵本は「さるかに合戦」だった。3歳の頃の話である。その絵本にまつわる記憶はなく、すべて母親や周囲の人から聞いた話ばかりなんだが、すぐに文字を覚えてしまったオレはその絵本を大きな声で朗読し、それを見たオレと同い年の娘を持つ近所のおばちゃんはあわてて娘に字を教えたらしい。そして、わが子の発達段階を基準に考えてるそのおばちゃんにしてみれば3歳のクソガキが文字を読むということはとうてい考えられず、それは文字を読んでいるのではなくて物語を覚えてるから朗読することができるのだと思いこみ、オレに全然違う文字を見せて読めるかどうか試したそうだ。むろんオレはひらがなを全部覚えていたからスラスラと読んだらしい。
ひらがなと言えばオレは母に、「このをという字は何?」と訊いた場面をなぜか覚えている。その時オレの母は「これはなになにをというときのをやで」と答えてくれて、不思議なことにそんな単純な説明でオレは格助詞の「を」を理解したのである。その「さるかに合戦」という絵本をオレはことのほか気に入って、遊ぶときもいつも持っていた。でも遊ぶときは両手を使うわけで本が持てない。そんなときオレは本のはしっこを口にくわえて両手を使っていたらしい。また、母におんぶしてもらってるときにも「さるかに合戦読む!」と言ってきかなかったらしい。それでオレは母のうなじのところに本の背をあてて背中で本を読んでいた。骨のところに本があたって痛かったと母は言う。痛いのを我慢してオレのわがままを許してくれた母の愛情を思う。
遊ぶときも遊ばないときもいつも一緒、そんな激しい扱いをされたら粗末な絵本はきっとばらばらになってしまっただろう。貧しかったオレの家は何冊も買う余裕はなく、2年保育の幼稚園に入るまでにオレが買ってもらった絵本はその一冊だけだったらしい。幼稚園に入ったオレは、本がたくさんあることに大喜びしていつも読んでいたらしい。幼稚園の本棚の前で本を選んでいた記憶はかすかにある。
物心ついたばかりの頃に同じ絵本を繰り返し繰り返し読むことでオレは何を身につけたのだろうか。
大人になったオレは子どもの頃よりもはるかにたくさんの絵本を読むことになった。子どもに与える本を選ぶという口実でさらに多くの絵本を読んだ。相手が子どもだからとつまらない絵本を与えると、つまらない感受性しか身につけられないという気がする。オレが3歳だった頃から今に至るまで、40年を超える歳月の間にすばらしい多くの作品が世に出た。新しい絵本を読んでいてオレが思うのは、もしも自分が最初に出会うのがその本だったとしたら、自分はどんな子どもに育っただろうかということだ。
物心ついたばかりの頃に出会って、寝ても覚めても繰り返し何度も読む絵本は、その子どもの人格形成に大きな意味を持つ。そしてオレは考える。別にその子ども自身がまだ字を読めなくても、お母さんが読み聞かせしてやればちゃんと子どもはその作品世界を楽しめるだと。たとえ相手が3歳の幼児であっても、「100万回生きたねこ」はきっと子どもなりに理解できるはず。オレはこの絵本をもしも最初に与えられていたら、今みたいな暴言野郎ではない心優しい穏やかな紳士に育っていたのにと残念に思う。いや、そんなことを考えるのは余裕のない生活の中で「さるかに合戦」を買ってくれた母に対して失礼なことである。母はもしかしたら「さるかに合戦」を通じてオレに「悪と敢然と戦うことの大切さ」を教えたかったのかも知れない。
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