2005年12月14日(水) |
学習塾刺殺事件における逆恨みの論理 |
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逆恨みをするヤツは苦手だ。特にオレのように完全無欠の人間は人から逆恨みされることが多い。容姿も学歴もゼニもオレにはある。オレにないのは自由だけだ。自由こそもっとも価値あるものだとオレは思うのだが、世間一般の人は容姿や学歴やゼニの方こそ価値があると勘違いしている人が多い。そういうわけでオレは逆恨み攻撃の的にされるのである。
悔しかったらオレのようにカッコよくなってみやがれと言いたいのだが、そういうヤカラというのは努力して自らの価値を高めることではなくて、逆恨みした相手の価値を傷つけ貶めることで満足するから困ったものである。強姦罪で捕まった馬鹿が、「自分が捕まったのは訴えた女のせいだ」と逆恨みして、出所してから相手を殺しに行くというのはその逆恨みの典型だが、そこまではいかなくてもそんなむちゃくちゃなヤツがこの世には少なからずいるのである。
じゃあどうすれば安全かというと、逆恨みされないように目立たず小さくなって生きるしかないのである。なんと情けないことだろうか。と言いつつ、オレも昔はけっこう逆恨みっぽい感情を持っていたりしたのである。オレは高校生の時にある二つ年下の女の子に片想いしていたのだが、共通一次試験を控えた10月に見事に振られ、そのまま失意の一ヶ月過ごして、18歳にして人生を捨てた気分になって医学部から文学部へと志望を変更する。オレが文学部みたいなやくざな世界に進むことになったのはすべてオレを振ったあの女が悪いのだとオレは一時期思っていたくらいである。しかし、もしも医学部へ進んでいたらどうだろう。オレのようにすぐに激怒して相手を罵倒する性格の人間がそんな忍耐力を必要とする職業が勤まるだろうか。絶対に無理だ。
振られた2年後にオレはその女の子に「やっぱりキミが好きだ」と手紙を書いて二度も振られる羽目になるのだが、その後のオレは「逆恨み」ではなく、「いつかおまえが逆立ちしたって手が届かないようないい男になってやるぜ」「おまえよりもずっといい女を何人も恋人にしてやるぜ」という決心に気持ちを昇華できたのだからそれはそれでまあよかったのだろう。
さて、長々と逆恨みのことを書いたのは他でもないあの学習塾での刺殺事件を起こした萩野裕という男のことだ。彼は自分が勤務する塾の正社員になりたくて応募していたのだが、それがかなわない理由を自分の指導に従わない女子生徒がいるからだと逆恨みし、いつしかその女子生徒の存在が彼のアイデンテティーを揺るがすほどの大きなものになっていった。不倶戴天という状態である。そんなときはあきらめて自分がその塾を辞めるなり他の職業に転職するなりすればいいのだが(まだ23だ。いくらでもやりなおせる。)、相手を殺すという形でこの世から消し去ることで、自己のアイデンティティーを守りきろうとした。
そこで最初の逆恨みの論理に戻るのだが、つまり、嫉妬心の強いヘタレにとって、自分の持たない長所をいっぱい持ってる人間がこの世に存在することは、自分がいかにちっぽけで価値のない人間であるかを思い知らされることにつながるために、存在そのものが気にくわないのである。だから必死でその存在を消し去ろうとするのである。そう言えば納得してもらえるだろうか。
人間の価値とはすべてが一本の物差しの上に存在してるのではなく、さまざまな価値基準の物差しがパラレルに存在し、そのおかげで誰もが自分のアイデンティティーを大切に出来るわけだし、「乳房の大きさ」という物差しで低位に置かれていても、「性格の良さ」という物差しで上位にいることで自尊心が満たされていればそれでいいのだ。(むろん両方とも上位にいるのならもっとすばらしいことかも知れないが)
それにしてもあの萩野という男、そうやって自分が気にくわない小学生の女の子を消し去って自己のアイデンティティーを守ったわけだが、そうして人を殺したということでおまえの存在そのものを社会が認めないで抹殺、退場させようとしていることに思いが至らなかったという点でやはりこの自己中心男(報道によればかなり家庭内暴力もひどかったらしい。自分の親に手をあげる人間でまともなヤツはオレの知る限り一人もいない)はもはや生かしておく価値はない。おそらく彼には、自分を正社員として雇ってくれなかった塾への恨みの気持ちは強かっただろう。そうやって事件を起こすことで評判を落とし、ダメージを与えることができるなら少しでも気持ちが晴れる。これもまた逆恨みの論理である。逆恨みをするタイプの人間には注意した方がいい。まっとうな人間はそんなのには決して近寄らないことだ。どんな言いがかりをつけられるかわからないからだ。
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