2005年10月21日(金) |
きみはシム・ウナ(沈銀河)を知ってるか? |
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オレが韓国映画、「8月のクリスマス」を見たのは確か1999年の夏だったと思う。出張の帰りに新宿の映画館でこの作品を観ていることになる。映画とは、静かな映像だけで表現するものである。そこには饒舌な説明は必要ないし登場人物は何も語らなくてもいい。その後ろ姿や表情でも十分に悲しみは表現できる。「8月のクリスマス」とは、そんな映画だった。
映画はこんなストーリーである。(ネタバレすまん)
街の片隅で写真館を営む青年、ジョンウオン。いろんな客の注文にやさしく応えながら、彼は誠実に仕事をこなしていた。そこに駐車違反の取り締まりをしていた若い女性、タリムがやってくる。彼女はそれから毎日のようにその写真館に顔を出すようになる。ジョンウオンは、彼女と他愛のない会話をするひとときが、いつしかこのうえもない幸福感に満たされる時間であることに気が付く。しかし、彼にはもう残された時間がない。彼は病院に通い、薬を飲み続ける。彼は不治の病でもう先が長くないのだ。そんな自分の秘密を彼は語ることなく、ある日救急車で運ばれていく。
主を失った写真館を、タリムは何度も何度も訪れる。しかし、いつもその扉は閉じたままだ。一方的に自分の前から消えたジョンウオンのことを、彼女は誤解し、冷たい恋人への怒りから写真館のショーウィンドーに彼女は石を投げつけ、ガラスが割れる。病院から戻ったジョンウオンは、割れたガラスとタリムからの手紙に気づく。そして、彼女への手紙を書き、そして自分の最期の写真を写す。しかし、手紙は投函することなくそのまましまわれる。最期の写真は、そのまま葬儀の写真となる。ジョンウオンは何も告げないままこの世を去る。
季節は冬になって、雪が積もっている。タリムは店に自分の写真が飾られているのを発見して笑顔を見せる。最後にジョンウオンのモノローグが重なる。それは出されなかった恋人への手紙に書かれた言葉だったのだろう。「ぼくの記憶にある写真のように、愛もいつかは思い出に終わると思っていました。でも君だけは思い出ではありません。愛を胸に秘めたまま旅立たせてくれた君に“ありがとう”の言葉を残します。」そして、スクリーンの幕は降りる。
オレたちは人と出会うときに、「いつかは死ぬ」なんてことは思いもしないだろう。未来という時間が約束されていることを前提に愛し合うし約束をする。結婚したりもする。自分が明日突然死んでしまうなんてことは思いもしないだろうし、そんな準備をしている人はほとんどいない。敬虔なカトリック信者は常に遺書を身につけているそうだが、だからといって彼らが本当に「いつ死んでもいい」という気持ちでいるかはわからない。そして、誰だって死にたくはない。
映画「8月のクリスマス」は、全編静かな悲しみに貫かれながらも、でもそれは「お涙頂戴」式のメロドラマではない、まるで小津安次郎の映画を見たような、そんな不思議な感想をオレは持ったのだ。死を前にした主人公ジョンウオンは、だからといって何か特別なことをするわけでもない。いつものように日常を過ごしている。いつものように米を研いで、街で材料を買ってきては料理を作る、そんな毎日だ。その日常が静かに映画の中で映し出される。その日常の中で、人は自分の愛情をどんな不器用な方法で伝えるのか。あるいは「隠し通す」のか。そんな視点から見れば、この作品の中には多くの発見がある。しかし、それ以上に注目したいのは、「語りすぎないこと」がもたらす静謐な余韻なのだ。タリムが扉にはさんだ手紙にはいったい何が書かれていたのか。オレはその手紙の中身を読んでいるジョンウオンの表情から理解するしかない。
死んで満足な人間などいない。ジョンウオンも時に布団にくるまって嗚咽する。彼の父親にもそれを慰める術はない。しかし、それも一時である。彼は自分が死んだ後のために、ビデオのリモコンの操作方法を紙に記し、写真を現像する機械の操作方法をまとめて書き残す。そんな「残されたものたち」への気遣いが淡々と描かれる。
そんなすてきな映画なのだが、きわめてミーハーでもあるオレは、タリムを演じた女優、シム・ウナ(沈銀河)の、交通巡視員の制服姿にまた魅せられてしまったことも否定できない。そんなかわいい女がそばにいれば、自分なら手を出さずにはいられなかっただろう。たとえ死期が迫ってるのだとしても。いやそれならなおさら今生の思い出に抱いただろう。
そのシム・ウナが結婚してしまう。2000年に最後の映画に出てから引退してしまった彼女は、結婚して普通の男性の妻になることを選んだのだ。オレはネットでその結婚相手の写真を見た。やけに顔の面積のデカいオッサンだった。40歳の大学教授だという。なんということだ。結婚式はきわめて質素なもので、招待者からの祝儀も一切受け取らず、芸能関係者もほとんど呼ばれなかったという。彼女はこれからもしかすると韓国の原節子と呼ばれるのだろうか。オレにはそんな気がするのである。
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