2005年08月15日(月) |
8月15日〜終戦60年の日に思う |
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昭和20年の8月15日、その日を私の伯父は上海で迎えた。街には「暴に報ゆるに恩を以てせよ」と記され、日本兵に対する暴行などは不思議となかったと伯父は語っている。昨日まで自国を侵略していた敵国に対して、どうしてこのような寛大な接し方だったのだろうか。そして、この偉大な国家がどうして今は反日運動の嵐が吹き荒れるODAクレクレ乞食になってしまったのか、不思議で仕方がないのである。
アメリカ人に広島・長崎のことを語ると彼らから返ってくる言葉は「リメンバー・パールハーバー」である。つまり、あんな卑怯なだまし討ちを仕掛けてきた連中にはこれくらいの仕返しは必要なんだというとらえ方なのだ。中国残留孤児の悲劇も、日本本土への空襲により多くの一般市民が死んだことも「戦争を仕掛けた国が受けた罰」であると考える人たちがいる。どうしてこれほど多くの無辜の民が死なないといけなかったのか。あの戦争は一体何だったのだろうかとオレは自問自答する。
少なくとも第二次大戦以降は国際法が完全に踏みにじられ続けたことは確かだ。一般市民に対する無差別攻撃はその後の戦争の定番となった。ベトナム戦争における北爆、イラク戦争における市民の巻き添え死、ボスニア戦争に於ける民族浄化という名の集団レイプなどはその流れをそのまま受け継いでいるだけである。そして、日本人は「侵略戦争を起こした国」であるという引け目を覚えるあまり、その愚劣な行為に対して正面から非難できなかった。
もちろん市民レベルではベトナム戦争に反対する人(べ平連)もいたが当時の首相だった佐藤栄作は熱烈にベトナム戦争を支持し、その栄誉を讃えてノーベル平和賞を与えられるというイカサマ劇もあった。平和憲法を持つ国家であるはずの日本の政治指導者が、なぜ米軍による戦争を常に支持してきたのか。オレはどうしても納得できないのである。そして、9・11のテロ以外に他国からの攻撃を全く受けたことのない米国民の多くが、自国の侵略戦争を熱烈に支持していることには空恐ろしささえ覚えるのだ。
終戦の一日前である8月14日、オレの父はその日の大阪大空襲を丁稚奉公先で体験した。作家の小田実もその日は京橋で街が燃えるのを見ていたという。数発の一トン爆弾が京橋駅を直撃し、逃げ遅れた数百人の人ががれきに埋まったまま亡くなった。JR環状線京橋駅南西にあった日本最大の軍需工場である陸軍砲兵工廠にも大量の爆弾が投下され、全く原形をとどめないほどに破壊された。オレがまだ子供の頃、大阪環状線からそのがれきの山が見えた。いつのまにかそこはOBPと呼ばれ、オフィスビルが建ち並ぶ近代的な一角となったのだが・・・。
父はその日のことをこう語る。「明日で戦争が終わるから最後に余った爆弾全部落としやがったんや」そんな気まぐれな浪費のためにどれほど多くの命が奪われたことだろうか。
自国を守るためには憲法改正も再軍備も必要だと語る人がいる。あの戦争で尊い命を落とした数多くの若者は、自分の犠牲によって何かが変わると思っていたのだろうか。特攻隊として出撃した若者達は、自分の命と引き換えに故郷の両親や美しい山河を守れるのだと信じていたのかも知れない。それから60年を経て、戦争を実際に体験した世代ももう高齢者ばかりである。いつか本当の戦争を語れる人は誰もいなくなる。核兵器はその最たるモノだが、兵器や軍事力はただ存在を誇示するだけで十分。実際に使ってしまえばただの人殺しの道具だ。太平洋戦争開戦時、空母機動部隊を展開できる海軍力を持つ国家は世界に日本とアメリカの二国しかなかった。その力をなぜ日本は外交の駆け引きに使えなかったのか。新しいオモチャを手にした子供のようにどうしてもそれを使いたかったのか。そんな危険なもの使えばおたがい無事じゃ済まないことなどわかっていたはずなのに。
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