2005年01月17日(月) |
震災から10年〜誰がこんなことを望んだか? |
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1月17日はあの阪神大震災からちょうど10年目の日である。明け方近くに激しい揺れで目を覚ましたオレは、そのまま家が崩れてしまうのかという恐怖を味わいながら暗闇の中で揺れが収まるのを待った。かなり大きな地震とは思ったが、我が家では運良くたいした被害もなかったのでいつものように出勤した。神戸の街が燃えているのを知ったのは出勤して職場のテレビでニュースを見た時であった。そこには高速道路が崩落した現場も映し出されていた。
倒壊した家の下敷きになったところへ火の手が迫ってきて、多くの人命が失われたという。「オレはもういいからおまえ達だけでも逃げろ」と、心優しい人が次々と犠牲になった。目の前の家族を救えなかったという痛みをどれほど多くの人が味わっただろう。愛する者の無事を祈りながら死んでいった多くの崇高な魂があったことを、我々は決して忘れてはならない。
あれから10年、震災でがれきの山になった土地は区画整理されて再開発のビルが立ち並び、見た目には復興はかなり進んだのかも知れない。しかし、こんな無機質の街になることを誰が望んだだろうか。かつてそこには無秩序ながらも庶民の生活があった。今は家賃のバカ高い無駄なビルが建ち並び、再開発のための多くの借金は神戸市の財政をさらに悪化させた。壊れたマンションの多くはさらに豪華な高層マンションに生まれ変わった。がれきの山になった我が家を前にした絶望から、多くの人が住み慣れた土地をゼニに換えて去っていった。欲しかったのはそんなゼニではなくて、いつもと変わらぬ日常だったはずなのに。
なぜ震災復興の方針が「元通りにする」ではなかったのだろうか。全く同じ生活を取り戻すことを、雑然としたあの長田市場のにぎわいを取り戻すことを、なぜ目標にしなかったのか。どうして「前よりももっと豪華な建物」「整然としたきれいな街並み」をわざわざ求めたのか。
第二次大戦で破壊されたポーランドの都市、グダニスクやワルシャワは再建される時、できるだけもとあった形そのままを目指したという。もとあった壁のひび割れまで再現されたという。なぜ神戸ではそれができなかったのか。
再開発によって住み慣れた街を追われ、復興住宅でひっそりと暮らすお年寄りの孤独死は年間に70人を超えるという。死亡してから1年8ヶ月経ってやっと発見された人もいるのだ。誰がこんなことを望んだか。復興住宅という名の独房をあてがい、収入がなければ生活保護というゼニを与え、ただ死ぬのを待つのが行政なのか。
震災は確かに多くの財産と人命を奪っていった。しかし、人々の心の中から希望だけは奪い取らなかったはずだ。その最後の「希望」を無惨に打ち砕いたのは、震災復興で一儲けしてやろうと企んだゼネコンや官僚、そして甘い汁を吸おうとした連中だ。かつてその街には生活があった。何十年にもわたって築かれてきた名もない庶民の共有する歴史があった。その多くを無惨にも奪い去って破壊し尽くしたのは、決して震災ではない。そのことを我々は決して忘れてはならない。
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