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| 2004年04月28日(水) ■ |
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| 一球一生、一打一生 |
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偶然手にした冊子は、父の愛読書だ。ためになる言葉には赤線が引いてある。パラパラとめくっていると目にとまる記事があった。酒井雄哉氏のインタビューがそれ。酒井雄哉氏は、大阿闍梨の称号を持つ天台宗の僧如である。大阿闍梨の存在は以前読んだ瀬戸内寂聴氏の佛教入門書で知っていた。もっとも厳しいとされる苦行・千日回峰行を二度達成された方だが、こんなことを話していた。『苦しいと思って行をやっているわけではありません。そこに何かを見出そうとしているわけでもない。』すばらしい言葉なのに、父の傍線の気配はなかった。もったいない。
千日回峰行は、一日に何十�舛瞭擦鯤發い燭蝓¬欧蕕此�体を横たえることなく、飲まず食わずで堂にこもったりする、命を落とす僧もいる苦しい修行(あるこ表現の限界)。間食すら絶つことの出来ない私だから、「なるほど」と感銘することすらはばかられてならないのだけど、すっと荷物が降りたような気がした。厳しい行をする人は、必ずしも苦しいものだと思っていたのだけど、そういうわけではないんだな。それと一緒で、何事も端からみたらものすごい努力や苦労でも、その人にとっては自然なことであるかもしれない。そういう世界がかっこいいと思った。私にもそういう物に出会うことが出来るのだろうか。こういう他力本願はダメかな?
『今、自分がやっていること以外、人間には何もないのです。そのちいさな自分の一日を大切に生きることです』そういう大阿闍梨の言葉で締めくくられているインタビューで、インタビュアーは、一日一生という言葉を使っている。確かにそうかもしれない。私はよく、「明日の仕事、イヤやなあ。イヤな人と一緒やし。朝早いし」と愚痴っては母に叱られる。「明日のことは明日考えたらええやんか。今日はどうにもならへんやろ」。側でくどくど愚痴られると不愉快だろうな(苦笑)。でも、最近、ようやく、「そういえばそうやな。今の私には今日という日しかないし、明日のこと考えてもしゃあないか」と思えるようになった。
そういう意味では、岐阜大会で見かけた岐阜城北高校の横断幕「一球一生、一打一生」は非常に的を得ている。たとえ、意図は違っても。(余談だけど、ここの応援団の太鼓うまかった。すごい早いビートを器用に刻んでいた。太鼓をドラムみたいに横にして叩きやすい工夫がされていたのもあるが、この子、音楽かじってるのかな?と思った)
☆酒井雄哉氏関連サイト。
※『』部分、PHP研究所「PHP No.670」より引用
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