永久という名の瞬間
2004年06月25日(金) 聞きたくないとは言えないけれど

 物事とはやはり立体的であって。
 人とは、ほとんどの場合、一箇所からその物事を眺めることが出来ないから、他の見方を知ったときは、まるで違うものを表現されているような、そんな気さえしてくる。
 それが同じものを表現しているのだと気付くのには、それなりの脳の容量がなければならない。


登場人物
 私の友達の一人、A。
 私。
 そしてBという、私の友達でもあり、Aの友達でもある人物。
(ついでに、上記3人と仲良いDという人間)


 今回の場合、BはAの行動に対し、多少文句を持っていた。
 
 それは、最近落ち込みがちなAを励ますメールを送ったところ、Aは返信をしなかったという些細な出来事から始まる。しかしながらそれは1回だけではなく、2回も続けられたという。
 そして運の悪いことにBha、同じ時期Aにメールを送ったDには、返答が届けられたと耳にしてしまった。

 もともと私たち4人の中はよく、誰が一番、とかそういう順位はなくて、みんな平等な扱いが常だった。
 だからBはショックを受けたし、以前AがBに言った、「Bのこと、大切に思っているよ」という言葉を信じられなくなった。
 そして悪いことに、もともとBも落ち込みやすい体質だった。
 どうやら気分が沈んでいるときに、メールがこないことを心配してしまい、ブルーになってしまったらしい。
「最近、私に対するAの行動は、ちょっと神経を疑う」
そんなニュアンスのことをBは口にだした。

 しかし私はそのBの話をきいて、Aはきっと大分不深くまで落ち込んでいて、なにもやる気が起きなくて、そのせいでメールを返せなかったのだとおもった。
 だから私のその見方をBに伝えた。
 するとBは言う。
「わたしだってよく落ち込むから、気持ちはわかる。だけどそういうときこそ、相手が心配していると思うから返事を無理やりうつものでしょ?少なくとも私は落ち込んだとき、Aのメールにそう対応してきた」と。



 私は自分が見た、Aの気持ちの考察を間違っていると思わない。
 しかし、Bの物事の捉え方も、BがみたAの姿なのだろうとわかる。 
 だけど、私から見れば、Bの見方は歪んでいるように見えるのだ。
…Bはあまりにも自分の基準で他人を判断しすぎて、本質から逸脱している、とまで思った。

 だれも己の目では、事柄の真の姿を見ることが出来ない。
 私は自分の目に恐ろしく疑いをかける。
 私がみたAは、私の基準で判断したAの姿。

 それを「これこそ真に近い」と大声出すのは、恐ろしくて出来ない。
 なぜなら、他人の大声に対し、疑いの目と、不信を抱いてしまう自分がいる。
 だからきっと私の声も、他人から聞けば虚偽に満ち、信ずるに値しないものとして見られてしまうだろうと想像できる。
 
 やっぱり自分の目でみたものを、否定されるのは怖いよ。

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photo by 東雲