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■ 詩人であること
別の人が書くホームページの日記を読んで考えたこと。 私が今日記を書いてる理由ってなんだろう。 その日その日の出来事を綴るものとはちょっと違う。 その日にしたこととかまったく書かない日もあるし。 多分、自分の考えや湧き出してくる感情に集中出来るように、 そしてそれを誤魔化したりしないように、 それと向き合う強さを持っていられるようにとゆうことかな。 詩を書いているのがそうゆうことかもしれない。 以前紹介した評論家の小林秀雄の言葉を読んで、 そうゆうことなのだと思ったことがある。
例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。 でもあんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。 涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。 悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。 悲しいといってただ泣く人ではない。 自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、 これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、 飾り立てて見せるのでもない。 一輪の花に美しい姿がある様に放って置けば消えて了う、 取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、 はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。 悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。 これを読んで感動する人は、まるで、 自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。 悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、 不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする。 その悲しみとは違うでしょう。 悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。 そして、詩人は、どうゆう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。
そうであれば、やはり私は詩人なのだと思いました。 ずっとそうしてきたことだから。 ツライ時ほどたくさん書く。 それが私にとって自然なことだから。 そうであれば、やはり私は詩人なのだと思いました。 よりしっかり生きてゆくうえでの手段であって、 それがなければ生きられないのとは違う。 確かに悲しみの美しさとゆうものを感じる。 悲しみはただ悲しいものではないと知り続けたいのだと思います。 そしてまた知らせ続けたいのかもしれません。
2004年02月06日(金)
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