 |
 |
■■■
■■
■ 日常は芸術
マッサージを受けながらいろいろ考えていた。 評論家、小林秀雄の言葉。ちょっと抜粋。
見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。
ぼんやりしていても耳には音が聞こえて来るし、 特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。 耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そうゆうのは病気で、 健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、 誰にでも出来る易しい事だ。 頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、 見たり聴いたりする事に、何の努力が要ろうか。
そんなふうに考えがちなものですが、それは間違いです。 見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、 努力を要する仕事なのです。
例えば、諸君が野原を歩いていて 一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。 見るとそれは菫の花だとわかる。 何だ、菫の花か、と思った瞬間に、 諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。 諸君は心の中でお喋りをしたのです。 菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、 諸君は、もう眼を閉じるのです。 それほど黙って物を見るという事は難しいことです。
ホントは全部書きたいくらいだけど、長いので。 日常起こるすべてのことは、こうゆうことなんじゃないかと思った。 そのものの美しさや真実を先入観なく見たり感じたりすることは難しい。 今まで感じられなかった美しさは、努力しなければ感じられない。 むかしから、たまには絵を見に行ったし、音楽も聴きに行ったけれど、 今みたいに感じることはなかったように思う。 努力すべきことなのだと本当にわかったのは最近かもしれない。 歌を始めたころ、感じるとゆうことは、 変化しない生まれつきの物のような気がしていた。 そうだと信じていたし、その考えに頼ってきた。 でも今思えば努力しないことへの言い訳にしかなってなかった。 だから私は向上しずらかったんだと思う。 あの絵の美しさも感じなかったんだと思う。 じっと見つめてわからなくてもわからなくても、努力すべきだと思う。 その先には必ずはじめての場所が待っている。
2003年12月05日(金)
|
|
 |