女房様とお呼びっ!
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2004年06月15日(火) 誰がために奴隷たるか

先に掲げた感想文の中で、イリコはこう明かしている。


> M男性の基本概念として、「主様のために・・・」というのがありますね。
> よく聞く言葉です。
> 実は私は、この表現には違和感を感じていました。
> 自分を例に取れば、「この関係は**様のためです」と考えることに、非常なためらいを覚えていました。


一読して、私は複雑な心境になったものだ。
まず、随分正直に書いて寄越したなぁと驚くとともに、
どっぷりと自分本位であった奴が、それを俯瞰できるくらいには脱却したのかと感慨を覚えた。
とすれば、わざわざコンナ解りきったことを言葉にしなくても…と呆れもし、
せめて言葉ヅラだけでも夢を見させてよと苦笑してしまった。

もちろん奴としては、前後のつながりから、敢えてこう明かしたのだと思う。
これに続く見解が導かれる前段には必然としてあった心象だろうし、明らかにしてこその意味を見る。
だから、先に覚えた心境は、けっしてネガティブなものではない。


> あの出来事を経過し、時間も過ぎて、さらに**様の記事も拝見して、
> この関係が二人のためであることを、私のためでもあり、**様のためでもあることを、
> やっと認識しました。


奴が辿り着いた見解は、言葉にすれば当たり前すぎて、陳腐ですらある。
恐らくは、奴にしたって、第三者的に己の言葉を見ればそう思うのではないか。
けれども、頭でわかっている、知っているつもりの当たり前は、往々にして脆い。
実際奴は、「SM的主従関係」というカタチを奉るあまり、この当たり前をあっさり覆してしまった。



しかしながら、主従関係というカタチにこだわった奴が、
なにゆえ「主様のために」というスタンスに違和感を覚えたのか。
カタチにこだわればこそ、「主様のために」という理想を抱くのではないか。
現に主従に憧れる者たちは、口を揃えて「主様のために」身を捧げたいという。
その関係を得た者たちは、「主様のために」と読経のごとく繰り返す。

奴だって、晴れて私の従となった当初は、何の疑問も持たず、「**様のために」と唱えただろう。
言葉だけでなく、実際自身の何もかもが主たる私のためにあると信じていたやもしれない。
恐らく、それは奴の理想だったはずだ。

しかし、関係が進むごと、現実は理想を裏切って、次々と自分本位なありようが暴かれていく。
それは、自負心の高い奴にとって、耐えがたく納得し難いことであったに違いない。
もちろん、苦悩もしただろう。
やがて奴は、その理想が絵空事であったと思い知り、
結果、自身が奴隷であるは、まさに「自分のため」と思い至ったか。

そして、それが奴が身をもって知る主従関係のカタチとなったのだろう。



言うまでもなく、人はどこまでも自分本位にしか生きられない。
どれ程自分を捨てて「誰かのために」生きようとしても、人に自我がある限り、それは無理だ。
たぶん、これは真理なのだが、ここに気付くには相応の成熟を要すると私は考える。
何らかの機会を得て、自己を厳しく見つめなければ、気付かないまま人生を終えることさえあるかもしれない。

そして、この真理に気付いてこそ、ようやく人は「誰かのために」を模索できるようになるのだと思う。
例えば献身とか奉仕とか、この気づきなくしては、本当の意味でなし得ないのではないか。
奴隷が「主様のために」と唱えるにおいても然り。

確かに、そうした「誰かのために」我が身を投じるとき、
それが、とどのつまりは「自分のため」だと思い定めるのは苦しいことだ。
けれど、易々と自分を捨てたつもりになれる浅はかさに比べれば、その苦渋は問うべくもない。

もっとも奴が、この真理まで見切ったかどうかは疑問だ。
元々自己を掘り下げるのに臆病な人間だからね。
恐らくは、単に理想に挫けて縋った結論だろうと思う。

それでも、その後に続く奴の心境の変化は、この真理に気付いては生かす過程にとてもよく似ている。
私は、そのことにこそ希望を見るし、高く評価したいと思う。



ただ、その一方で、
もし奴が、どれほど挫けても、盲目的に「**様のために」と信じるタイプの奴隷だったら、
こんなコト教えてやらないのに…とちょっと口惜しい(笑。
それに、もしそうだったら、私はきっともっとずっと楽に暢気に主ヅラしていられただろう。

…とか言いつつ、私は、この現実を受け入れざるを得ない。
だって、こうなったのは、私が盲信されるほどのタマじゃなかったと、奴を盲信させるほど騙せなかったと、
つまりはそういうことだもの(笑


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