女房様とお呼びっ!
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2002年03月12日(火) とあるバーで 〜近況にかえて〜

そのバーに出向くのは、実に3年ぶり位で、店の場所も変わっており、不思議なことに以前よりずっと通りから奥まった所に移転していた。ワンフロアに何件もの店が軒を連ねる雑居ビルの、見栄えのしない看板が並ぶ中に、そのバーの看板が埋もれていた。ただ、ロゴだけは以前と変わらず、すぐにわかった。重いドアを引く。

以前の店よりもずっと狭い店内は、しかし、平日の夜ともあって、一人の客と彼を相手するカウンターの中の女の子が一人きり。よそ様の宅に彷徨いこんだような寒々しさに襲われて、縋るように、女の子に尋ねる。「ママは今夜みえないの?」この地にあっては奇異なイントネーションに、彼女が少しく身構えるのがわかった。

「お友達ですか?」あどけなさの残る彼女が困ったように言葉を返す。オトモダチという表現に苦笑しながら、事情を話すと、彼女の顔が漸く僅かに穏やかになり、「じゃぁ、お母さんに訊いてみます」と受話器をとる。私の方も少しだけ熱が戻って、スツールに落ち着き、オーダーを決める。礼を払って、高いスコッチにしよう。

・・・・・。

私は、ママのお友達でもなければ、そのバーに通っていたわけでもない。実際、店に寄せてもらったのは、過去に一度きり。店外でママにお目に掛かったのも、数度だ。その度に、ママは丁寧な挨拶をくれたけど、それは私を私として認識したからではなく、客商売のソツのなさで、笑顔と親しげな会話をくれただけだと知っている。

それでも、私はママが好きだ。好き、というより、評価しているといったほうが正しいか。飄々としながら熱く、軽薄に見せながら厳しく、我が身が届く筈もないけれども、憧れてしまう存在だ。とはいえ、私は、ママの何ほどにも詳しくはない。身近な人達なら評価するであろう、彼の生き方も本業のワークも、知らないに等しい。

だから、程なく現れたママと再会の挨拶を交わして暫くは、共通の知人の近況やら伝聞やらの話題に終始する。接点の少ない主と客の、場つなぎの会話ながら、流石に彼は上手に会話を回していく。どうでもいい言葉の応酬は心地いい。が、そのあしらいの巧さを堪能しつつも、グラスの酒が減っていくのが気にはなってたんだ。

・・・・・。

本当のところ、グラス一杯で失礼しようと思っていた。その後があったし、その程度の関わりだ。ところが、ママが私の前に旧い文献を示した時点で、その決意を捨てざるを得ないことを知る。新しい酒を、一杯目と見劣らない酒を頼むしかないや。苦笑しながら、けれど何だか愉快な気分だ。ママの眼力に、正直舌を巻いていた。

何十年も前の、活版印刷の文字が伝える不変の論理は、その時の私の拘りにぴたりとハマり、そこがバーであることを忘れて読み耽った。丁寧に表紙を閉じて、ママに返す。受け取る彼の、意を得たような微笑に胸がすく。そして、あぁやっぱり、私はこの人が好きだと思う。と同時に、ナンデワカッタンダロ?と感心もしてしまう。

しかし、その眼力、感性こそが、彼の魅力の一翼を担っているのだ。「この店、六周年になるの」と、控え目ながら自慢するのも、実に納得する事実だわ。カウンターの中で、どれ程の人を見てきたのか。あらゆることを見聞きした歴史が、今の彼を創り上げたことを実感する。彼の言は次々と私にヒットし、圧倒されてしまった。

・・・・・。

「ママの夢は?」二杯目の酒を飲み干しながら訊いた。「アナルでイクこと!」いつの間にか増えたカウンターの客が一斉に笑い、私はせいせいと店を後にした。


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