女房様とお呼びっ!
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2002年01月25日(金) |
1998.4.9記す |
思い付いて、旧い記録を引っぱり出してきました。 ここんとこ、鬱陶しい長文を散らかしてるので、ひとやすみ〜(笑)
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なぜ、人はヒトを「愛してしまう」のでしょうか? そして、人はヒトの「何を」愛するのでしょうか?
確かに、人はひとりで生きられない。孤独の不安から免れたい。 人が生きる上で必ず抱えている、自分本位な愛情への欲求が、 誰かを愛したい、愛されたい、という気持ちを引き起こすのでしょう。
でも、それだけじゃないと、私は思うのです。
なぜなら、 孤独感を埋め、生きる支えと安心を得るためだけに求める愛情ならば、 その「誰か」は、より絶対的な、神様のような愛情の持ち主であってもいいのです。
その愛は、与え続けられ、許し続けられ、裏切られることなく、 生きるに充分な安心を実現します。 そして、その確実で大きな愛の中で守られながら、 自分を支えていくための愛を捧げ続けることが出来るのです。
現実にそうしている人もいるはずだけど、 多くの人が、不確実なヒトの愛情を求め合うのは、なぜなんでしょう?
もちろん、神様は、現実の生活では存在しません。 顔も見えないし、養ってもくれないし、セックスも出来ません。 だから、ヒトを愛するのか?美しい顔、充分な稼ぎ、満足のいくセックス・・・。
いいえ、そんなに即物的なものではないと信じたい。 たとえ、最初惹かれあったのが、そういう表面的なものであったにしても、 ヒトを愛する理由は、そんなところにはないのです。
そのヒトの、表に見えている全てのもの、身体や地位や行為が失われたとしても、 そのヒトを受け入れて、許していける。 ヒトを愛するとは、そういうことだと思います。
姿もなく、声も聞こえない、何か具体的な事をしてくれる訳でもない、 つまり、心の部分をこそ愛する。 そのヒトの中に住んでいる「神様の部分」とでも言うのかな。 その信者になる。
お互いが信じ合うことで、 与え合ったり、受け止め合ったり、許し合ったりといった 支え合おうとする共感が生まれる。 人とヒトだからこそ出来る、愛のあり方だと思います。
とんでもない綺麗事と笑われるかも知れないけれど、 こんな観念的な話は耳障りかも知れないけれど、 私自身はその上であがいていきたいと思って、敢えてお話ししてみました。
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