女房様とお呼びっ!
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2002年01月25日(金) 1998.4.9記す

思い付いて、旧い記録を引っぱり出してきました。
ここんとこ、鬱陶しい長文を散らかしてるので、ひとやすみ〜(笑)


***


なぜ、人はヒトを「愛してしまう」のでしょうか?
そして、人はヒトの「何を」愛するのでしょうか?

確かに、人はひとりで生きられない。孤独の不安から免れたい。
人が生きる上で必ず抱えている、自分本位な愛情への欲求が、
誰かを愛したい、愛されたい、という気持ちを引き起こすのでしょう。


でも、それだけじゃないと、私は思うのです。

なぜなら、
孤独感を埋め、生きる支えと安心を得るためだけに求める愛情ならば、
その「誰か」は、より絶対的な、神様のような愛情の持ち主であってもいいのです。

その愛は、与え続けられ、許し続けられ、裏切られることなく、
生きるに充分な安心を実現します。
そして、その確実で大きな愛の中で守られながら、
自分を支えていくための愛を捧げ続けることが出来るのです。

現実にそうしている人もいるはずだけど、
多くの人が、不確実なヒトの愛情を求め合うのは、なぜなんでしょう?


もちろん、神様は、現実の生活では存在しません。
顔も見えないし、養ってもくれないし、セックスも出来ません。
だから、ヒトを愛するのか?美しい顔、充分な稼ぎ、満足のいくセックス・・・。

いいえ、そんなに即物的なものではないと信じたい。
たとえ、最初惹かれあったのが、そういう表面的なものであったにしても、
ヒトを愛する理由は、そんなところにはないのです。

そのヒトの、表に見えている全てのもの、身体や地位や行為が失われたとしても、
そのヒトを受け入れて、許していける。
ヒトを愛するとは、そういうことだと思います。

姿もなく、声も聞こえない、何か具体的な事をしてくれる訳でもない、
つまり、心の部分をこそ愛する。
そのヒトの中に住んでいる「神様の部分」とでも言うのかな。
その信者になる。

お互いが信じ合うことで、
与え合ったり、受け止め合ったり、許し合ったりといった
支え合おうとする共感が生まれる。
人とヒトだからこそ出来る、愛のあり方だと思います。


とんでもない綺麗事と笑われるかも知れないけれど、
こんな観念的な話は耳障りかも知れないけれど、
私自身はその上であがいていきたいと思って、敢えてお話ししてみました。


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