女房様とお呼びっ!
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2001年06月09日(土) 「犬」の愛のカタチ

「キミがボクを愛する限り、ボクはここにいるよ。」
愛する人にこう言われたら、どんな感情を抱くでしょう?

「けれど、ボクからキミを愛することはないと思う。」
そう言葉を継がれたら、一体どうすればいいのでしょう?

これは「犬」が「犬」でなくなり、ただの同居人になった頃に吐いた言葉です。
私達の関係はSMの主従関係から始まって、そこに愛情の基盤がありました。
だから、やむを得ずとは言え、それまでの愛を支えてきた主従の形を解消し、
私達は、一つ屋根の下にいる必然、としての愛情の在処に迷いました。

・・・・・・。

彼が「犬」であった頃、私はずっとひとつの不安に囚われていました。
私達は「主」と「犬」として、相互に通う愛情を確かめ合ってはいるけれど、
「犬」でない部分の彼にとって、「主」でない部分の私は必要ないのではないか?
目の前には「犬」の彼しかいないのに、私は彼の全てを愛したがっていたからです。

これは、セックスの関係にある男女が、まさにセックスのみの逢瀬を重ね、
気付けばそこに、恋心や愛が芽生えてしまった、なんてありふれた経過の中で、
情を募らせる片方が「結局、体だけが目当てなのよね?」と疑うのに似ています。
体から始まる恋もある。そう片づけられる程、その不安は小さくはないものです。

私は、彼の全てを愛していると自覚するにつれ、何度もその不安に苛まれました。
そしてその度に、今にして思えば鬱陶しい質問を投げかけてしまうのでした。
「犬でないあなたは、アタシのことをどう思っているかしら・・・?」
それでも、主である私が質問する度に「犬」は忠実に誠実に答えてくれました。

「ワタシの根幹は犬なのです。表では、ヒトの衣を被っているだけなのです」
その言葉に励まされ、しばらくの間は、彼の愛情を信じることが出来ました。
けれど、不安が完全に払拭された訳ではなく、再々に私を襲ってくるのです。
私が愛しているのは、彼の妄想が結ぶ幻ではないか?それは恐ろしい考えでした。

と同時に、彼が私に捧げる「犬」としての敬愛以上の愛の形を望む私がいました。
つまり、庇護されたいとか、能動的に愛して欲しいとか、そういうことです。
しかし、受け身であることが全ての「犬」にとって、それは望むべくもなく、
「犬」が自分の全てだと言い切る彼を愛することが、次第に苦しくなりました。

「犬」である彼を、心から愛していました。
「犬」として彼を扱うのも、心が震えるような歓びでした。
「犬」を決して失いたくはありませんでした。・・・けれども。
「犬」は自ら「犬」を降り、私は「主」でなくなりました。
「犬」がもたらす、私の不安や苦しみを払う為の結論でした。

・・・・・・。

そして、冒頭に述べたようなやり取りが、私達の間に交わされたのです。
「情はあるよ。でも、自分から愛しているとは言えない」彼はそうも言いました。
『私はこんなに愛しているのに、これ程関わったのに、どうして・・・?』
私は混乱し、彼の言葉をどう自分の中に納めるか、苦悶の日々を送りました。

そして、とりあえずの結論に縋って、私は彼を愛し続ける覚悟を決めました。
『これだけ愛しているから、これだけ愛して下さいって望むのは変だわ!』
『愛し続ける限り、一緒にいられるのなら、それでいいじゃない?』
都合のいい合理化と非難されるかもしれませんが、そうして月日を過ごしました。

今でもたぶん、「愛してる?」と訊いたなら「情はあるけど」と答える夫です。
でも、今ならそれで充分です。勿体ない程の「情」を頂いていますから(笑)
夫はかつて「犬」でした。そして、今でもやはり根っこの部分は「犬」なのです。
自分からは愛せない、愛されて応えるしか、身の置き場がないのです。
そんな愛のカタチを持つ彼を、私は愛しているのです。

世の中にはたくさん人がいて、たまさかの縁で寄り添って、
その間には様々な愛情が、様々な形でやりとりされているのでしょう。
私と夫の間に横たわる愛情もまた、そのうちのただ一つの形に過ぎません。
そして、今あるこの形が変化を遂げるかもしれないことも、私は知っています。
それは期待でも不安でもなく、やはり淡々と訪れる事実の可能性として・・・。


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