勝負の世界ではごくわずかの甘さが命取りとなる。それはサッカーに限った話ではない。おそらくどんなスポーツにも当てはまることなのだ。わずかな甘さが劇的に勝負を分けた記憶として、ヨットレースを取り上げてみよう。
ヨットレースの開催方法や順位決定方式は多様だ。個人的には1対1のマッチレース方式が気に入っている。シンプルだ。どっちが強い?どっちが弱い?はっきり色分けできる。F1のような集団レース方式では優勝争いとは無縁の周回遅れが優勝争いに水を差すことすら日常茶飯事だ。もちろんマッチレース方式は一番手間が掛かり、今なお優雅な貴族的雰囲気を残すヨットの世界ならではの開催方法ではある。
ヨットレースの最高峰とされるのは五輪などではなく、巨大ヨットを用い、ヨットクラブ同士の対抗戦形式のアメリカズ・カップである。発音の正確性を期すならアメリカス・カップとなる。大会名の由来はアメリカ号というヨット名であり、アメリカ合衆国とは何の関係もない。この大会はニッポンチャレンジの参戦によって日本でも多少は知られるようになった。残念ながらスキッパー(艇長)を務めた南波誠は別のレース中帰らぬ人となってしまったが。ここで取り上げるのは国内レースの最高峰として葉山沖で行なわれたジャパンカップである。3戦行ない先に2勝した方が勝者となる。
10年ほど前の大会で事実上の決勝戦となったのはピーター・ギルモア艇VSベルナール・パシェ艇であった。ピーター・ギルモアはニッポンチャレンジでもおなじみ、葉山を知り尽くした人物である。本来ならニッポンチャレンジのスキッパーも務めるべき人材であったが、コーチ役に徹し、未熟でヨット経験すら乏しい日本のセーラーを育てた。現在の日本の第一人者で筑波大サッカー部出身の原健も愛弟子の一人である。対するパシェもフランスの名手。
難しいレギュレーションは割愛するが、この大会は風上マークと風下マークを時計回りに周回する。その第1レグでパシェ艇はギルモア艇を追い込んでいた。風下マーク付近に接近したときの位置関係は以下の通り。
周回路 →→→→→
風下マーク→● ↑ ↑
|パ||ギ|
進↑ |シ||ル|
入↑ ↑風 |ェ||モ|
路↑ ↑向 |艇||艇|
↑
位置的にパシェ艇に優先権があり、ギルモア艇は左に寄せて接触するわけにはいかない。なお両者が左方向に進めば風下マークに対して内側の艇、この場合ギルモア艇に優先権が移る。マーク付近では微妙な進入角の違いが風に対する角度の差となり、艇速に大きな差が出る。パシェ艇はギルモア艇をしっかり追い込み、反転して艇速の差でギルモア艇を振り切り風下マークを差をつけて先に回れば良いのだ。もちろん周回後もレースは続くが必勝体制といってよい。しかしパシェの追い込みは甘かった。反転後も艇速にはほとんど差がなく、ギルモア艇が内側をとり先に周回してしまったのだ。ベルナール・パシェ一生の不覚といったところか。さぞ動揺したことだろう。当然のように第1レグを失うが、第2レグは僅差の勝負となった。
ここで風力のみによって進むヨットが風上方向へ進めるか説明しておこう。スティーブン・ホーキング曰く「素人向けの科学書では数式が1つ出る毎に売り上げが半減する」と言うことなので、ここでは数式もベクトル合成も用いずに説明してみることにする。
まずヨットは艇底(キールという)を工夫して基本的には前後一直線上にしか進めないように出来ている。帆(セール)を進行方向に上げて横風を受けてもヨットが真横に進むことはない。転覆することはあるが。通常帆はヨットの進行方向に対し少し角度をつけておく。そして進行方向に対し風が更に角度をつけて当たるようにする。
この状態を身近なもので簡単に表現するとこうなる。壁際に三角形状のものを置く。直角二等辺三角形ではなく、30度・60度・90度くらいのものが良い。これを指先で押しても壁に平行にしか進めない。壁に対し30度くらいの辺を45度くらいの角度から押してやると三角形状の物体はどちらの方向へ動くだろう?
|壁|___________
|壁| / 指
|壁| 三 / / ← 左斜め下方向に押す。
|壁| 角 / /
|壁| 形 / /
|壁| 状 / /
|壁| 物 / /
|壁| 体 / /
|壁| / /
|壁| /
|壁| /
|壁|/
図の上側に進むことになる。あたかも指で押す力が壁で跳ね返されて押し出されるようだ。指で押す力に対しどちらかと言えば手前側に進む。壁が艇底、三角形上のものが帆、指で押す力が風ということだ。このような原理によりヨットは風上方向に進む。風上方向へまっすぐ進むことは不可能だし、風上方向に近い角度なら艇速が出ない。また風上方向に対し垂直に近ければ艇速は出るが、いつまで経っても風上マークには近づけない。艇速と風上マークへの道のりとの妥協点から結局風方向に対し45度くらいの角度で90度方向転換を繰り返しながら風上マークに接近することになる。
ここで重要な点がひとつある。マッチレースで風上に向かうときは先行艇が有利ということだ。後行艇の風をブロックして艇速を奪いながら進めるわけである。後行艇としては先行艇を避けるしかないわけだ。海上の風の強さは一様ではなく、強く吹く海面もあれば、弱い海面もある。先行艇は当然風の強く吹く海面を狙う。後行艇ももちろん狙うが、先行艇は90度方向転換(タッキングという)によって後行艇の風を奪いにかかると同時に少しでも風の弱い海面に追いやろうとする。後行艇としては黙って不利な海面に追いやられるわけにはいかないので、先行艇に風をブロックされないよう、不利な海面に追いやられない様につかず離れずのレースとなる。そうなると先行艇としてもブロックしないわけにはいかないので、タッキングを繰り返す。後行艇が逆転する方法は通常2つだけ。ひとつは先行艇とは全く別の海面を進み、風の流れが変わって有利な海面に変化することだ。ギャンブル性の高い方法である。しかし天候を読むことは難しい上に、先行艇が後行艇と同じ海面に進み徹底的にブロックする作戦をとればどうすることも出来ない。もうひとつの手段はひたすらタッキングを繰り返すことで先行艇にもタッキングを強要し、ミスを誘う。いわゆるタッキングマッチである。体力勝負であり、セーラーとしては経験不足で体力だけで選ばれた人材が揃うニッポンチャレンジの得意技である。
さてジャパンカップの第2レグでパシェ艇は頑張った。僅差で先行のギルモア艇を追撃した。そして山場となったシーンの状況は次の通りである。
↓風
↓方
↓向
↑パシェ艇↑ ↑ギルモア艇↑
右ナナメ上へ進行 / \ 左ナナメ上に進行
/ \
/ \
両艇が激しく接近、ギルモア艇はパシェ艇の進路を直前で横切りタッキングに成功する。するとどういうことが起きるか?
風方向 \\\\ |ギ||パ|
左ナナメ \\\\ |ル||シ|
上が風上 \\\\ |モ||ェ|
\\\\ |ア||艇|
\\\\ |艇|| |
両艇の左ナナメ前方からの風を全てギルモア艇がカットし、パシェ艇は失速する。しかも両艇があまりに接近しすぎておるためタッキングによって逃げることも出来ない。この距離でパシェ艇がタッキング(左90度回転)を行なえば、ギルモア艇に接触して反則となる。もちろん右270度回転を行なえば逃げることは出来るが、致命的なタイムロスとなる。要するにパシェ艇は決定的な大技を喰らってしまったのだ。接近するヨットが眼前いっぱいに広がりタッキングする光景の迫力から、「スラムダンクタック」 と呼ばれている。
ベルナール・パシェはスラムダンクタックを避けることも出来たはずだが、第1レグのショックが正常な判断力を奪ってしまったのだろうか?結局この年優勝に輝いたのはピーター・ギルモアであった。