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しもさんの「新聞・書籍掲載文」
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1999年09月19日(日)
静清合併(41歳)

静岡新聞 朝刊(トーク・バトル)

沼津や三島を中心とする県東部地域でも、
中核市の論議が盛んになってきた。
しかし、人口要件や面積要件ばかり話題にされ、
「合併」という単語が一人歩きしてきた感がある。
中核市になるメリットは
「住民サービスの向上」の言葉でばぐらかされ、
どんなまちを作りたいのか、なかなか見えてこない。
そういう意味では、今回の新市グランドデザイン案は、
評価に値する。
合併とは何かさえうまく説明できない私に、
ある人がアドバイスをしてくれた。
「合併は、大きくなることではなくて、大人になることなんだよ」と。
この言葉は、とても分かりやすかった。
よく、子供に「体ばかり大きくなって・・」というせりふを使うが、
あれと同じ。
子供のまま大きくなっても、社会では相手にされない。
小さくても、自分の生き方に対して
しっかりとした考えを持っている大人、
言い換えれば人生設計や夢を持ち、
自分の意見をはっきり言える大人になる必要がある。
まちとして大人になるということは、どういうことなのか。
もう一度考えてみたい。
そして、人口が増えても(大きくなっても)
問題解決ができないような子供のままでは、
周りから相手にされない、ということを
しっかり認識する必要がありそうだ。
静新合併も、他の地域の合併も、
「大きくなったら、どんな大人になりたい?」という質問が
答えを出してくれそうな気がする。



1999年09月10日(金)
判断迷ったら「誇り」基準に(41歳)

静岡新聞 朝刊(ひろば)

何かイベントや事業を続けていると、必ずぶち当たる問題がある。
それがマンネリではないかという不安。
回を重ねれば重ねるほど、その不安な気持ちは大きくなる。
継続は「力」なのか「マンネリ」なのか。
その答えは「誇り」というキーワードが解決してくれる。
やめたくてもやめられない。変えたくても変えられない。
でもこのままでは進歩がない、どうしよう・・となった時、
「誇り」を判断基準にするとよい。
住民が、そのイベントや事業に「誇り」を持っているか、どうか。
ただそれだけ。
いくら長年活動し「伝統芸能」と称しても、
住民が周りの人に「誇り」を持って紹介できなければ
地域の「伝統芸能」とは、なり得ない。
逆にまだ二、三回の新しいイベントや事業でも、
住民が多くの人に「誇り」を持って紹介できれば、
伝統となり得る要素を持っている。
決して「伝統とマンネリ」は、紙一重ではない。
そこには歴然とした大きな差があることに気付くべきであろう。
ぜひ一度、自分の周りを眺めてほしい。
続けるべきか、やめるべきか悩んだら、
この判断基準を思い出してほしい。
さらに「夫婦」をはじめとした、
長期間付き合うことになる人間関係も
「誇り」をキーワードに見直してみるといい。
きっといいヒントになるはずである。



1999年07月28日(水)
一つ一つ言葉を大切にしたい(41歳)

毎日新聞 朝刊(みんなの広場)

「ママ、水!」と言われて「飲むの?かぶるの?」
と聞き返す母親がいた。
私はうれしかった。
最近、どうも日本語が途中で省略され、
最後までしっかり話すことができない人が多い気がしていた。
主語、述語もなく、単語だけが頻繁に使われ、
それだけで説明したと勘違いすることもある。
言葉がブツブツと切れて、
何を言いたいのかわからないことも多くなった。
この傾向は、社会人になってから直そうと思っても
なかなかむずかしい。
新入社員が必ず習う「報告・連絡・相談(ほうれんそう)」も、
すべて5W1Hを的確に伝えることから始まる。
語彙が豊富ということは決して悪いことではない。
しかし、簡単な言葉で、誰にも分かる説明をする訓練も
必要ではないだろうか。
一つ一つの言葉を大切にする。
この心掛けが、きっとすてきな日本語を使う大人になる
始まりではないかと感じている。



1999年06月30日(水)
文化講座の入場、広域化を望む(41歳)

静岡新聞 朝刊(ひろば)

41歳を越えた今、
学生時代より学習意欲があることに気付いた。
というのは、夕方仕事を終え、そのままの服装で、
三島の日本大学国際関係学部が主催している
「市民講座」の会場に向かい、約1時間半、
講師の話に耳を傾け、帰りにちょっと寄り道して、自分に乾杯。
こんな事でも、自分なりにとても充実した時間を
過ごした気持ちになる。
そして、なぜか毎週水曜日が来るのが待ち遠しくなるといった
変な気持ちを味わっているからである。
スポーツの後の乾いたのどに染みるビールとは違った
勉強の後のビールのうまさを知った気がする。
知りたいことは、自宅のパソコンでキーボードをたたけば
インターネットを通じて、何でも瞬時に分かる。
しかも深夜、どんな時間でも調べられる。
それなのに、なぜか会場の文化センターや校舎に
足を運ぶことにしたのには、もう一つの訳がある。
清水町に住み、清水町で働く私が、
三島市や沼津市で開催する講座に、無理なく受講ができるか、
自分で試している。
生活圏は完全に高域化しているにもかかわらず、
まだまだ近隣市町村の情報はうまく集まらない。
どうしたら、広域の生涯学習情報を個人に伝えられるのか、
そればかりを考えているが、なかなか名案が浮かばない。
しかし今回は無理なく受講できることが分かった。
この経験を、なんとか形にしたいと思う。



1998年07月14日(火)
地球的規模でわが町考える(40歳)

静岡新聞 朝刊(ひろば)

昨年の四月、ヘール・ポップすい星で
世界中が盛り上がった時だったと思う。
この天体ショーに、減光、消灯で協力した自治体が
数多くあったのは記憶に新しい。
この対応、実はある一人の若い気象庁の職員の提案だったという。
普通では考えつかないこの企画は、
彼の「宇宙的規模で、地球を考えたい」という
台詞に賛同したからだといえる。
ついつい損得で考えがちな生活や仕事をひと休みして、
何百年もの周期で、宇宙を旅するすい星に思いをはせてみよう。
きっと、何かのヒントが得られるに違いない。
そう思ったのは私だけではないはずである。
地球的規模で日本を考えてみたい。
国内規模で静岡県を考えてみたい。
そして、県内規模で、自分の住む町を考えてみたい。
いや、宇宙的規模で、自分のすむ町を考えてみることも大切である。
宇宙のために、地球のために、日本のために、何ができるか。
まちづくりの情報発信の原点は、ここにある。



1998年07月10日(金)
胸熱くさせた小錦関の言葉(40歳)

東京新聞 朝刊(発言)

日本語としては、何だか変な表現だけれど、
元大関小錦の言葉だから許してしまおう。
きっと一生懸命覚えた日本語なんだろうと思うと、
胸が熱くなったことも記憶にあたらしい。
今、テレビ画面には人生を楽しんでいる彼の姿が登場する。
引退、引退と騒がれて迎えた場所。
きっと心の中に最後の言葉を用意していたに違いない。
そして「土俵生活には悔いはありません」
という言葉に決めたのだろう。
だれに聞かれても、この言葉を繰り返していた彼は、
なんだか優等生力士らしく期待はずれであった。
しかし「横綱になれず残念でしたね」の問いには
「残念でした」と答えたが、しばらくして
「今の心境は?」の質問に
「残念だが、悔いはありません」と答えた彼が、一番すてきだった。
確かに、史上初の外国人大関として、
いろいろな苦労があったはずである。
きっと、だれにも言えないこともあったに違いない。
そんな苦労を笑い吹き飛ばす「残念だが、悔いはありません」。
土俵の外でも、私たちを楽しませてくれる彼に乾杯!



1998年06月26日(金)
苦しい登山も下りに楽しみ(40歳)

産経新聞 朝刊(談話室)

生活も経済も体力も、いつまでも上り坂とは限らない。
ずっと右肩上がりのグラフなんてありえない、
ということは誰でも知っている。
私も今年、四十歳を迎えた。
「四十歳からの心構え」を探していた私に、
とても気に入った言葉が見つかった。
「山登りの楽しみは下りにある」だ。
今まで、一生懸命いろいろなことに挑戦してきた。
運動ばかりやっていた時期もあった。
ときには家族サービスを忘れ、仕事に没頭したこともあった。
人生八十年の時代、ちょうど折り返し地点。
頂上ばかり気にして周りの風景すら目に入らなかった歩き方から、
自分の足元を注意しながら、
のんびり下る歩き方にチェンジしようと思う。
そういえば、登山の反対語は「下山」。
下山を楽しむために苦しい登山をしてきたと思えば、
いままでの苦労なんて何でもなくなる。
「山登りの楽しみは下りにある」。
名刺の肩書きの代わりに、書き記したい言葉である。



1997年10月29日(水)
良い結果は「フォロー・スルー」という魔法を知ってから(39歳)

建通新聞 朝刊(遊歩道)連載4

「フォロー・スルー」の大切さは、その重要性を信じ、
実行した人にしかわからない快感みたいなものがある事に気付いた。
スポーツ大好きな人間の私にとっては、
人生の開眼に近いヒントである。
野球のピッチングやバッティング、ゴルフのスィングやパッティング、
ボウリング、卓球、バスケット、テニスなど、球技と呼ばれるものには、
ほとんどこの「フォロー・スルー」と呼ばれる単語が存在するが、
若いうちはあまりこの単語の意味が良く理解できない。
なぜなら、パワーで圧倒し、それなりのプレーで、
ほどほどの結果を出してしまうからである。
しかし歳を重ねると、どうしてもパワーに限界を感じるようになる。
これをカバーしてくれる魔法がフォロー・スルーではなかろうか。
確かに、一度離れてしまったボールには、
どんな恰好をしていても、パワーは伝わらない。
そんな事は誰でも知っているし、物理的にも不可能である。
にもかかわらず、なぜかこの大切さを伝えたいかと言うと、
フォロー・スルーを意識することにより、
その前段階からフォームが変わってくるからである。
なにはともあれ、騙されたと思って、
フォロー・スルーだけを意識してプレーしてみて欲しい。
今までにはないボールの伸びや正確さが増すはずに違いない。
何でも「やりっぱなし」で、安定した好成績は望めないと気付いた時、
このフォロー・スルーの大切さを知ることになる。
さらに拡大解釈して、仕事や家庭にも応用したい。
きっと、新しい人間関係が生まれるはずである。



1997年10月20日(月)
仕事はデジタルで、生活はアナログで(39歳)

建通新聞 朝刊(遊歩道)連載3

デジタル全盛の生活が、なぜかアバウトになってきた気がする。
普通、アナログ時代のほうが数字に対して
いい加減な生活をしているようだが、そうでもない。
デジタルに慣れれば慣れるほど、
人間性が薄れてきている感じがするという意味である。
例えば「待ち合わせ」。
三島南口で2時に待ち合わせしたとしよう。
私たち世代は、約束の10分から5分前までには、
待ち合わせ場所に着こうとする。
その為には、何分前には家を出て、何分のバスに乗って・・と
計画を立てて遅れないようにしたものだった。
しかし時代は変わった。
デジタル化が進み、携帯電話が急速に普及した。
電話ボックスの前で、携帯電話を利用している光景さえ
目にするようになったから驚きである。
ポケットベルなどは小中学生でも使いこなしていると聞く。
そうすると待ち合わせの仕方まで変わってくるから不思議である。
待ち合わせ場所は、三島駅周辺。約束も2時ごろ。
細かいことは約束しない。
「遅れるから、適当に時間をつぶしていてよ。
近くにいったら、携帯するから」で済むのである。
しかし、人を待たせては悪いとか、遅れそうで何回も時計を見ながら、
イライラ・ドキドキする感覚まで無くしてしまったようで怖い。
アナログ生活の方が、より綿密に計画を立て、注意深く実行してきた、
という意味で冒頭の言葉が浮かんできた。
人間性回復のためには、
「余裕」とか「ゆとり」といったアナログ言語が
頻繁に使われる生活が望ましいのかも知れない。



1997年10月10日(金)
「ルール違反」より「マナー知らず対策」を(39歳)

建通新聞 朝刊(遊歩道)連載2

最近、生活をしていて気になるのは「ルール違反」より
「マナー知らず」である。
ルール違反はスポーツで言えば審判、
交通で言えば警察などが取り締まり、罰則が与えられる。
違反する人もルールを知っていながら、
どうしてもルールが守れず違反してしまったというケースが多い。
しかし、マナーは違う。
知らないので、当然悪いことをしたとは
本人も気付いていないから問題である。
例えばボウリング。
ボウルを投げようとしてレーンに立った時、
右側のレーンの人が投げようとしていたら先に譲る。
同時に投げると集中できないし、危ない。
しかしそんなマナーはお構いなし。
自分だけ楽しければイイ、という態度が見え隠れする。
美術館の鑑賞も同様で、
せっかくガラスもはめずに展示している原画を、
小さい子供たちがお菓子を食べた手で触ろうとしている光景、
お母さんは知らん顔。
世間話など大騒ぎしながら、絵の鑑賞はそっちのけで、
ただ順路を観光コースのように歩いている主婦三人組。
お金を払っているんだから、では済まされない
マナー知らずが多いような気がする。
マナーの基本は「人に迷惑をかけない」ではないかと思う。
さらに言えば、トイレットペーパーが無くなれば、
次の人のために取り替える程度の
「人に対する思いやり」なのかも知れない。
街中、ルールとマナーを訴える看板が溢れている。
素敵な花壇の中に「缶のポイ捨てはやめましょう」という標語が
常識のように立っている景観を、
なんとか無くしたいと思う今日この頃である。