時々日刊たえ新聞
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2005年04月28日(木) |
4月24日の礼拝メッセージ |
石橋牧師の説教第一声は「Ladies and gentlemen!・・・」でした。朗々としたいい声、インパクトがありました。きっと忘れないでしょう。(微笑)聖書の箇所はマルコによる福音書1章1節〜8節。説教題「指し示す者=待ち望む者」 四つある福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書)の中で一番最初に書かれたマルコ福音書。冒頭は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(口語訳)とある。石橋牧師は「福音のはじめ」を「喜びの知らせのはじまり」と読み替え「マルコの興奮をイメージしてみて下さい」とわたしたちを煽った。「ショーが始まる時の興奮を覚えませんか?」と問われて、うん、わたしもショーが始まるのを見守る観客の一人になったような気がした。石橋先生の説教を聴くことが、マルコの「喜びのしらせ」の第一声を聴くことと一致するような不思議な誘いを感じた。少なくとも一人の観客をのっけからワクワクさせて下さいました。いえ、わくわくしたのはわたし一人じゃないでしょうね。 「聖書を読むとき、どのような体験をしているでしょうか?」とも問われて、わたしは詩篇23篇「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。・・・」を初め、沢山のシーンをイメージした。そこを読むと必ずイメージがかきたてられ、新たな喜びが湧くってことがしばしばある。いえいえ、聖書のどこの箇所を読んでもフルフル震える時があるのです。聖書を読む喜びを石橋先生のメッセージにより改めて喚起させられました。感謝。 石橋牧師は「わたしの牧師像はイエス・キリストを指し示す者」「わたしはイエス・キリストを指し示す者になりたい」と言われた。それ、いいなぁと思った。わたし石橋先生の指の先を見つめます。(笑)
1ヶ月前には沢山の雪の前でため息ついていたけれど、その雪もすっかり嵩が減って、やっぱり春は来た!と感慨が深い。しかし今年は植物の様子がいつもと違う。いつもなら、そろそろカタクリの花を見に行こうかな?という時期なんだけど、そんな段階じゃない。低い山にもまだ雪がある。山の斜面に咲くこぶしの花がまだ見えない。こぶしの花の次に桜が咲くんだけど、桜はしばらく先に思える。いえ、今年は一緒に一気に咲き始めるかもね。雪の中から顔を出すふきのとうの出現も少なく感じる。道端でふきのとうを取って天ぷらにするのを楽しみにして来たけれど、簡単に取れるほどの量を今年は見ることが出来ない。あまりの雪の重さに成長出来なかったのか!?最初に咲き始めるクロッカスがかろうじてちらほら見える。
ここまで書いてきて気付いた。わたし自身の生活が、春をゆっくり眺める生活とは程遠くなっているってことに。のんびり歩いたら、もっと沢山の春を見つけることが出来るに違いない。雪解け水の音に聴き入ったり、雪の中に顔を出した草花の芽に立ち止まったり、木々に吹き出している茶色の芽を見つけたり・・・そんなことをトンとしなくなっている。大好きな札幌の春に慣れっこになってきたね。よし!この連休は春を楽しもう。
予告:今日の礼拝説教は石橋牧師の、牧師としての初めての説教でした。心魅かれました。近日中に書き留めたいと思います。
2005年04月17日(日) |
しつこく言います。教会っていいよ〜(^^) |
4月1日にお二人の牧師が赴任されて以来、説教を聴くのも、賛美するのも、とっても楽しい。もちろんそれ以前もいつも喜びがあったけれど今は更にうれしい!今日も奥村先生の説教を聴くのが待ち遠しかった。というのも、週報に説教の前触れ(要約)が掲載されていて、心魅かれる文章だった。わたしは点訳のために週報を前もって読む特権を与えられているのです。今日の説教、題して「出会いに生きる」・・・田舎からエルサレムにやってきて、イエスさまの十字架の行進に出くわしたクレネ人シモンは、野次馬の中から急に引き出されて、ゴルゴダの丘までイエスさまと共に十字架を担いで歩く苦難を負わされる。(マルコによる福音書15章21節) 突然不幸を負わされたシモン、聖書の中には、その後のシモンについての記述はないけれど、シモンの息子たちとシモンの妻についての聖書他の記述を通して、シモンのその後の人生を垣間見ることが出来る。息子たちはローマ教会の重要な執事となり、妻は伝道者パウロさんをして「わたしの母である」と言わしめる存在になっている。一人の人物との出会いが、シモンと家族を決定的に変えた・・・。(要約と説教両方からまとめています)「出会い」とか「生きる」とか「変わる」という言葉はわたしの琴線に触れます。(笑) この頃すっかり新しいもの好きになっているわたし、もっと誉めます。奥村牧師の説教要約は、大変点訳しやすい。「分かち書き」という独特の言葉の区切り方をする点訳では、長い文章、凝った文章は実は打ちにくい。センテンスが短く、明快な文章は打ちやすいのです。点訳する楽しみまでいただきました。感謝。
わたしの教会では2年間牧師がいませんでした。待ちに待った2年間、今日やっと牧師を迎えることが出来ました。奥村先生と石橋先生。礼拝の前にお二人を見かけて抱きつきたいくらいうれしい。礼拝堂に入ると人が多い気がする。活気づいている。礼拝が始まって賛美歌歌い始めたら、この頃にはなく会衆の歌声が会堂にガンガン響く。おっ!いつもと違うぞ、と感じて自分の心も高揚していくのがわかる。 3月29日〜31日に全国小羊会キャンプに小学生5人と静岡県天城(あまぎ)に行ったけれど、その体験の恵みを、Mちゃんが礼拝の中でしてくれた。昨日電話で頼んだら最初「イヤだ〜」と言っていたけれど最後には「うん、わかった」と引き受けてくれた。上手にお話しなくてもいいんだよ。楽しかったことを書いて読んでね。はにかみ屋のMちゃんらしく恥しそうに、でもちゃんと楽しかったことを披露してくれました。帰りの列車の中で彼女の言葉はすっかり関西弁になっていて、全身で「楽しかった〜!」って表現していたもの。
さて説教は奥村牧師による「新しい船出」使徒行伝16章6節〜11節。パウロさんは「アジヤ」に伝道しようと向かっていたけれど、その地に行けなかった。聖霊がそれを許さなかったから。わたしたちが強く願ってもそうならない時がある。神さまはわたしたちを思わぬ地に誘う時があるのだと了解した。パウロさんは「トロアス」の地に導かれ、そこで幻を見る。幻の中で「マケドニアに渡ってきてわたしたちを助けて下さい」と懇願されて「神がわたしたちをお招きになったのだと確信して」マケドニアに渡った。奥村先生はこれを「トロアス体験」と名づけた。わたしたちにも「トロアス体験」がやってくる。行く手を阻まれ、困り果てた時導かれる場所がある。
福岡姪浜教会から札幌教会に来ることになったことが奥村先生の「トロアス体験」だったのかしら?と感じた。先生は本当は開拓伝道をしたかった。けれどその道ではなく、すでに形のある教会に導かれた。自分の望んでいないところに神さまのご計画がある・・・。 奥村先生の語られる聖書の言葉に大いに励まされた。わたしも願ったことが叶わなくても腐らず、怖れることなく、どんなところにでも導かれるままに出発したいなぁ。以上、奥村先生の説教の言葉をわたし正確に記していません。わたしの感じ方、言葉で書き換えています。m(__)m
そうそう日曜日の夜、教会の女性とFAXで連絡を取り合っていたらこう書いてありました。「今日は新しい牧師先生がやっと与えられて、み言葉を一節一節ていねいに伝えて下さり、聖書がこんなに面白いものだったと今さらながら感動しています。もっとつづきを聞きたい!と思えるなんて初めて・・・」わたしも同感です。
※後半の部分は後日加筆しました。
職場で仕事をしている時メールを着信した。気になって読んでみると娘からで、無題で「今日いり帰らないからっっ」とだけ書いてある。えっ!?どういうこと?誰かの家に泊まりに行くわけ?こんな挑戦的な言葉を発したことがない娘なので、何だか胸騒ぎがする。(・・;) 昨夜、わたしは旅先から千歳に帰り着いて娘に「ただいま」のメールしたんだけど、「今日Yちゃんちに泊まりに行ってもいい?お母さんに会いたいから顔を見てから行くから」というような返信があった。それに対して「家に着くのは21時くらいになると思うよ。そんなに行きたければ行ったら」とわたしは返事した。結局彼女は泊まりに行かなかったという経緯があった。 デスクで仕事中だったけれど、すぐに電話する。「メール見たんだけど、どうしたの?」と聞くと、困ったような声で「今日、エイプリルフールだから」と言う。はぁ?わたし娘に試されたのかしら?(笑)
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