「硝子の月」
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2002年06月28日(金) <首都へ> 瀬生曲

「ピィ」
 紹介されたルリハヤブサは、愛想よく鳴いた。
「私はリディア・ニース。ちなみに御者はスティーブ・ニースといって私の叔父です」
 荷台側から従者が気遣わしげに口を挟んだ。アンジュと同じか少し下くらいの年頃の、ショートカットで男装の少女である。露骨ではないが、こちらを警戒していることは確かである。もっとも、乗ったばかりの頃に比べれば多少和らぎはしたようだが。


2002年06月18日(火) <首都へ> 黒乃、朔也

 しかし、乗り込む方法はどうあれ、ルウファの選択は正しかったと言える。
 馬車の歩みは、やはり速いのだ。
 午後の強い日差しを避けるようにフードを目深にして歩く旅人達、それをどこ吹
く風と追い越して、威風堂々と闊歩して行く。
 小一時間ほどの間に、窓から見える景色はだいぶ変化していた。そして、窓の内
側の人間模様も。
「あの…。冷たい水でもお持ちしましょうか?」
「え?」
 声に顔を上げると、深青色ディープブルーの瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「え、あ……いや、その、いい…です」
 ティオはいつの間に息が触れるほどに近づいていた彼女から、慌てて顔を背け
た。慣れない丁寧な言いまわしになっていることには気付いていない。
(なんだよ…俺?)
 さっきからどうにもふわふわ浮いたような気分になって、傷がズキズキするの
か、それとも脈がどくどく打ってるのか、よく分からなくなってきている。
「お嬢様。そのようなことは私共がいたしますので…」
 荷台側に控えていた従者は落ちつかない様子である。得体の知れない旅人への警
戒にしても、少し過剰だ。よほどこのお嬢様が心配なのだろう。
「冷たい水があるんですか?」
「皆さんと会う前に水売りが通りかかったんです。素焼きの甕に入った水って、冷
たくて美味しいですよ。よろしければどうぞ」
 と彼女は笑顔で勧める。
「それじゃあ頂こうかしら?」
「あ、俺もいいか? こう暑いと喉が乾いてよ」
 ルウファはすでに自然体でくつろいでいる。グレンはその隣で馬車の中を珍しげ
に見回していた。
「ティオはホントに飲まなくていいのね?」
「ああ…」
 お嬢さんの隣に座ってから、ティオは借りてきた猫のように大人しくなってい
た。
 相棒のアニスといえば珍しくティオではなく、お嬢さんの膝の上で翼を休めてい
る。
「すごく綺麗な鳥ですね…。私、生まれて初めて見ました」
 アニスは賢い鳥だ。ティオ自身が思うことだが、もしかするとティオ本人よりも
人物眼があるかもしれない。
 その彼が、彼女に撫でられるまま眠るように目を細めている。
 相変わらず蹄の音と共に馬車は一定のリズムで揺れ続けていた。首都ファス・カ
イザ周辺の街道は、流石に路面が整っているようだ。よくクッションの効いた座席
も手伝って快適とも言える乗り心地である。
「傷が痛むなら、いつでも言ってくださいね。御者にゆっくり走るように言います
から…」
 さっきから黙ってうつむいているのを「きっと傷が痛むのだろう」と解釈されて
いるらしい。
「あ、…はい」
 優しい言葉にそっけない返事しか返せない。その澄んだ瞳すらまともに見れない
自分が、もどかしかった。原因が分かってから尚、それを考えて変に意識してしま
う。
(ちょっとだけ…似てる……のかな?)
 ちらっと盗み見るように見た横顔は、ルウファとの会話の度に微笑と小さな驚き
とを繰り返していた。横から見ると、長い睫毛がよく分かる。
「ところで、さっきの方は本当に置いてきてよろしかったんですか?」
「いいんです。ちょっと口が利けない可哀想な人なんですけど、付きまとわれて困
ってたところなんですよ」
 ルウファは屈託のない笑みでそう言うと、グラスの水を美味しそうに飲み干し
た。

「まあ、そうですか……。ええと、」
 少女はやや困惑したように呟き、ふと目を瞬かせる。
「そう言えば、まだお名前もお聞きしていませんでしたね」
 言われてみればそうだったか、とティオは考える。たしかに馬車を呼び止めて転がり込んだどさくさで、まだ名乗った記憶も名乗られた記憶もない。
「私はアンジュ。アンジュ・クリスティンです。
 ……みなさんは?」
 おっとりと微笑んで名乗った少女に、にっこりとルウファが笑う。
「私はルウファ。ルウファ・ルール……よろしく、アンジュさん」
 冷たい水のお陰で機嫌がいいらしい。少なくとも笑顔は本物に見えた。
「俺はグレン・ダナス。そいつの保護者だ」
 グレンに指差され、ティオはわずかに顔をしかめる。しかし横でアンジュが自分の言葉を待っているのに気付き、慌てて口を開いた。
「ティオ・ホージュ……そいつはアニス」


2002年06月15日(土) <首都へ> 瀬生曲

 見ればなかなか立派な二頭立ての馬車であった。
 徒歩でもうまくすれば今日中に首都に着く。馬車ならば確実であろう。
「乗ってるのは優しそうなお嬢さん、ね」
 透視の魔法でも使ったのか、彼女は小さくそう呟いた。
「ごめんね」
「は? ――っでぇっ!!」
 謝られた理由を問うよりも早く、ティオは身をもってそれを知らされた。鋭い空を切る音に一瞬遅れて、まだ完治していない傷口に衝撃が走ったのである。呻き声と共に少年は膝をついて蹲った。
「すみません! 止まってください!」
 少女は馬車の進路上に両手を振りながら飛び出した。
「どうなさいました?」
 止まった馬車の窓から、彼女のコメントどおり優しそうな女性が顔を見せた。
「はい、実は連れの者が急に苦しみ出しまして……実は彼は先日大怪我を負って、その傷がまだ癒えていないのです」
 ルウファは大きな赤い瞳を涙で潤ませてそう訴えた。言っていることに嘘は無い。嘘は無いのだが……
(おっそろしい……)
 グレンはそんな言葉を胸に秘めたままにしておいた。
「それはお困りでしょう。どうぞお乗りになって。ファス・カイザでよろしければお送り致しますわ」
「お嬢様!」
 いかにも育ちのよさそうなお嬢さんは、手ずから馬車のドアを開けてくれた。あわてる従者の言うことなど耳を貸さない。
「ありがとうございます!」
 安堵の笑顔を浮かべたルウファの左目から大粒の涙が1つ、ほろりと落ちた。
「お言葉に甘えさせていただきます。ティオ、大丈夫?」
 深々と頭を下げ、涙を拭って蹲る少年を気遣う様は実に健気なものである。――事情を知らなければ。
「……後で覚えてろよ」
 痛みに耐えながら、少年はやっとのことでそれだけを小さく呟いた。


2002年06月11日(火) <首都へ> 朔也

「それで、街まではあとどのくらいかかるわけ?」
 半分ごまかすように尋ねたティオを、ルウファが振り返る。
「そうね。上手くすれば今日中に着くかしら」
「……! ……っ、……――!」
「今日中に着けばベッドと酒うまい飯が待ってるってワケか。
 そりゃ野宿よりはよっぽどいいな」
「同感」
「………ッ!!」
 3人が語り合う後ろでシオンがばたばた騒いでいたが、当然誰も取り合わなかった。関わるだけ無駄である。 
「……ん?」
 そのとき、ふとティオが振り返った。背後からガラガラと音が近づいてくる。
「……あ、馬車」
「え?」
 ルウファの目がキラーンと光った。


2002年06月09日(日) <首都へ> 瀬生曲

「――シオン」
 にっこりと笑い、妙にかわいらしい声で彼女は言った。
「私貴方にお願いがあるの」
「何だいハニーそいつらから助けてほしいのかいお安い御用さなに頼まれなくても僕はそうするつもり…」
「静かにしてちょうだい」
「おおハニー」
 言われたほうではとりあえず、息継ぎをすることは思い出したらしい。
「そんなにもかわいらしい君を見せつけておきながら、この僕にっ! この僕に君をたたえる言葉を封じてしまえなんて、あんまりむごい話じゃないか。そう、例えるならば君は…」
「『慈悲深き沈黙の月よ』…」
「そう、月に例えるのもよいね。……って、あれ?」
「『我、汝の静寂を愛し、願う者なり。我が求むる静寂を与えたまえ。――』」
「るる、ルウファ……?」
「『沈黙の檻』」
 少女が呪文の詠唱を終えると共に、一瞬だけシオンを何かが四角く取り囲んだように見えた。
「――! ――――!」
 彼の声はせず、ただぱくぱくと口を動かすのみである。
「ほ。随分優しいんだなお譲ちゃん」
 グレンが感心したように言った。
「俺はまたてっきり闇に葬るとかすんのかと思ったぜ」
「前に葬ったんだけど出てきたのよ」
「…………」
 一応冗談のつもりだったのだが、と青年は思う。少女の冷酷さと、闇から戻ってきたという青年のゴキブリを超えそうな生命力のどちらに重点を置いて驚いたものやら。


2002年06月06日(木) <首都へ> 朔也

「ひどいじゃないかひどいじゃないかひどいじゃないか置いてくなんてそりゃ君たちが僕の美貌と力に嫉妬するのもわからないじゃないけどでも置いてくなんてそんな非人情なことってないんじゃないのかねえねえちょっと聞いてるのかい?」
 いかなる手段を使ってか、出発から3日後に追いついてきたシオンが恨みがましくまくし立てた。
「ああでもわかってるよルウファは僕に追いかけてほしかったんだよねそれともこいつらに騙されたのかなああそうか大丈夫僕がちゃんと救い出してあげるから安心してまかせておいてハニー!」
 3日間誰にも相手にしてもらえなかったフラストレーションだろうか。息継ぎすらない。
 とうとう人間としての体の機能の限界を超えてしまったシオンに、ティオは深い深いため息をついた。
「誰か黙らせろよアイツ……」
「ピ」
「できるもんならやってるっつーの」
 げんなりして男二人と鳥が顔を見合わせたが、シオンのテンションは下がる兆しも見せない、どころか上がりっぱなしだ。
 二人と一羽が恐る恐る横を見ると、赤毛の少女が震えていた。
 もう少し詳しく言うと、赤毛の少女の拳が震えていた。
(――怖)
 見てはならないようなものを見た気になって、ティオは目を逸らす。触らぬ神に祟りなし。


2002年06月04日(火) <首都へ> 朔也、瀬生曲

 大して多くもない荷物をまとめた。旅立ってから一つ目の街、時間とてそれほど過ぎたわけでもないのだが、やたら長くここにいたような気がする。
 まるで長い長い夜が明けたようだ。ひかりが眩しいような、心地良いような。
「ティオ、準備できたか?」
「ああ」
 答えて、軽い荷物を背負う。
「アニス」
 呼ぶと、家を出た日と同じようにアニスが舞い降りてきた。
「さて、それじゃあ」
「行きますか」
 グレンとルウファがこちらを見た。それを見返しながら、不思議な気分でティオが頷く。
「――行こう」
 アニスと2人きりだった自分が、今はこんな風に仲間と呼べるのだろう人間と一緒にいて。
 2人で行くはずだった旅立ちを、こうして誰かと分かちている。
(――妙な気分だな)
 くすぐったいような。
 笑い出したいような。
 ティオは歩き出した。本当の意味で、ここから旅立つために。
 そしてふと気付き、二人を見上げた。
「――何か、忘れてねえ?」

「ん? んん、そおだなぁ」
 グレンが微妙に視線を逸らす。
「忘れてもいいものだと思うわ」
 ルウファがさっさと歩き出したのを見て、ティオもそれが何かを思い出す。
「そうだな」
「ぴぃ」
「じゃ、全員一致ということで」
 そうして一行は宿を後にしたのだった。
 十五匹の猫達と至福の時を過ごした「忘れ物」が、元気いっぱいに一行に追いつくまで、彼等は実に快適な旅を過ごしたのだった。


紗月 護 |MAILHomePage

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