「硝子の月」
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数秒の後に、ティオは彼女の言わんとしていることに気付いた。 「なっ……!」 「なぁに?」 彼女――とついでにその後ろの青年――の笑顔は崩れない。 「……ったよ」 「ん?」 「…………」 同じ言葉を何度もは言いたくないが、はっきりとその耳に届くまで、彼女等はこの笑顔を浮かべているのだろう。物凄く嫌そうな顔をしながらも、少年はもう一度、今度は聞こえるぎりぎりまで声量を上げて繰り返した。 「……心配掛けて、悪かったよ」 「どう致しまして」 少女は満足気に笑い、青年はティオの頭をくしゃくしゃと撫でた。 「何すんだよオッサン!」 「照れるなって」 「照れてねぇ!」 思い切り怒鳴ってその手を振り払うと、元傷口であった場所が鈍く痛んだ。 「完治したわけじゃないんだから無理しないの。安静にしてるほうがいいってあのお婆さんも言ってたわ」 そういうことは先に言えとか半病人をからかうなとかいう台詞が喉まで出掛かったが、痛みに耐えるほうが重要だった。 二、三度大きく呼吸して息を整えると、痛みは引いていった。 「どうする?」 「今何時だ?」 ルウファの問いに、会話になっていないかのような問いで返す。 「これから朝食にしようかという時間よ。あなたが一番寝坊したの」 「行く」 少年は短く言った。 ――首都へ――『硝子の月』を探す旅へ―― 「「そうこなくちゃ」」 少女と青年の声が重なって聞こえた。
「あ」 ベッドの上に起きあがったティオは、ぼんやりと周囲を見回した。 「……れ?」 見なれたようなわからないような部屋を見て、それが宿の一室だと気付く。そうだ、自分は確か怪我をして…… 「ピィっ」 「わ」 ばさばさという音がして、ベッドの上にちょこんとアニスが乗っかってきた。 心なしか嬉しそうにこちらを見上げてくるアニスに、ティオは優しく笑いかける。 「そっか……心配してくれたのか?」 「ピィ」 「サンキュ。アニス」 アニスに頬を寄せると、アニスも嬉しそうに頭を摺り寄せてきた。と、その時、横の方から軽い咳払いが聞こえてくる。 驚いて顔を上げると、いつの間にやらそこにルウファとグレンが立っていた。 「……あ、んたら……」 「おはよ。調子はどう?」 ルウファに問われ、ふと気付く。傷の痛みはもう無い。 「……あれ?」 「大丈夫みたいね」 戸惑うティオの顔を覗き込み、ルウファはことさらにっこりと笑って見せた。 「ところで。あたしたちもそれなりに心配したんだけど?」 「……は?」 「何か言うことないわけ?」
「伝説だよ」 どこか遠くで声がする。 「『硝子の月』という、誰も正体を知らない伝説さ」 遥か彼方の記憶か、それとも今耳元で誰かが言っているのかすら判別出来ない。 「誰がその名を付けたのか。硝子なのか月なのか、わかりゃしないっていうのにねぇ」 それが年老いた女の声だということに気付く。 あの猫婆さんだろうか――いや、違う―― 「お前にもわかるまいよ、ルウファ」 呼ばれた名前の主は知っている。気の強い、赤い少女。 「わからないわ。わからないけど、いつか探しに行く」 そう応えた声は、知っているはずの声よりもずっと幼かった。 (……性格は同じだな) そんなことを思った。 「ねぇおばあちゃん」 声がこちら(を向いた。 「おきゃくさまだわ」 確かに自分に向かってそう言っている。 老婆が笑う気配がした。 「いずれ会えるさ」
「遅かったの」 老婆は一行を屋敷に中に招き入れた。 「少し準備に手間取りまして」 ルウファが微笑して応えた。 「ここまで歩いてきたのかえ? 大した怪我じゃないんじゃないのかい?」 「意地を張っているだけです」 無遠慮にティオを観察しつつの次の言葉にはそう応えた。 実際、現在少年が自力で動いているのは気力によるところが大きい。「おぶってやろうか?」というグレンの申し出を即座に断って、油汗を流しながらここまで自分で歩いてきたのである。 「ふむ。まぁお座り」 「いい」 短く断る。間違っても遠慮から来るものではない。一度止まってしまった為に、もう指一本動かす余力がないのである。今動けばまず間違いなく醜態を曝(すことになるだろう。 「そうかい。それじゃとりあえず」 老婆は棚から霧吹き香水瓶のようなものを取り出すと、唐突に彼に吹き掛けた。 「「ちょっ…!」」 ふらりと倒れた少年の体を、ルウファとグレンが同時に支える。シオンが違うポイントで「ああ!」と叫んだのはさておいて。 「何するのよ!」 「なに、ちょいと眠らせただけさ。油汗だらだらで起きてられてもしょうがないからねぇ」 きつい真紅の眼差しに、老婆は微笑して応じた。
「ああ、猫ばーさんの屋敷か」 「何!?」 グレンの言葉に誰より反応したのはシオンだった。 「それじゃルウファ、あの仔猫達を連れ戻してくれるんだね?」 「んなわけないでしょ」 即答。と同時に抱きついてきた彼に拳骨を振り下ろす。 (やっぱり未練があったのか) 彼と少女のどつき漫才を見ながら、ティオは思うでもなくそう思う。 「じゃあ何しに行くって言うんだい?」 だからそれを尋ねたのは、出来たばかりのたんこぶを押さえる青年のほうが早かった。 「あんたの為じゃないことは確かだから安心していいわよ」 青年に素っ気無くそう言って、彼女はティオに「行くんでしょう?」という視線を向けた。 話の流れと視線の流れからして、それは自分の為なのだろう。 少年は数瞬の躊躇(
二人の会話に特に異論もないのでティオは口を挟まない。 「宿に戻る」 ただそれだけを告げて、歩き出す。 「っつ……」 「ピ」 傷が痛んで、宙を舞うアニスが心配そうに旋回する。今少年の肩や頭に止まることの出来ないのがもどかしいと言うように。 「待って」 少し慌てたようにルウファが振り返る。 「ここからだったら宿よりあそこのほうが近いわ」
尚も笑うのをやめない少女にまだ何か言ってやろうとした時だった。 「僕は認めない!」 いつの間に復活していつの間にやってきたのか、高らかに唱える青年が一人。言わずと知れた[ルウファにぞっこん]シオンである。 例によって例の如く、ルウファは物凄く嫌そうに声の主を見やる。 青年は構わずに一人で続けている。 「こんな青春モード僕は認めない! 君が青春モードに突入するのならそれはこの僕とのはずだろ仔猫ちゃん!! はっそうか! この奥ゆかしき僕ではそんなことしないと思ったのかい? 馬鹿だな、君とならオッケーに決まっているじゃないか」 「『奥ゆかしい』って言葉の意味知ってる?」 「さぁ、遠慮なく僕の瞳を見つめてごらん」 「何でこの馬鹿起こしちゃったの?」 ルウファはちょうどやって来たグレンに恨みがましい眼差しを向けた。 「いや、起こしてねぇぜ。ちゃんとあそこに捨てたままにしてきたんだがな」 いつの間に先回りされたのやら、と、のんびり歩いてきた青年は微苦笑を浮かべた。 「『お願い』って言ったのに」 「介抱しろってことじゃなかったのか」 「そんなこと頼む必要ないでしょ?」 「確かにな」
何故そんなことを訊いてみる気になったのか、後で考えてみてもティオにはわからなかったが、とにかくその時彼はこんな問いを発していた。 「お前、俺のことどう思ってるんだ?」 アニス以外の誰からどう思われていようと関係がなかった少年の、おそらくは生まれて初めての問い掛け。どんな意味合いを含むのかなど本人にもわからないうちにするりと声になっていた。 「どうって……」 珍しくルウファが動揺したように口篭(る。それを見て初めて色恋の意味でも取れるのだと気付き、彼女以上に動揺してしまう。 「ちがっ……! そうじゃなくて!」 慌てて説明しようとする彼の様子に、逆にルウファはいつものペースを取り戻したらしい。にっこりと余裕の笑みを見せた。 「気に入ってるわ。好きか嫌いかで答えるなら、間違いなく『好き』よ」 極上の、笑顔。 「まぁ、『好き』にも色々あるけどね」 それでも、面と向かって誰かに「好き」といわれたことなどない少年は顔を赤くする。 「どんな『好き』だと思った?」 「うるさい!」 くすくすと笑いながら顔を覗き込んでくる少女に背を向ける。同じ年頃の少女にからかわれるなど、腹が立つ。
「ルウファ」 自らを『運命(を知る者』と言う少女の名を口にする。 「もう戻ったのか」 「そうよ。あなたがいなくて探したんだからね」 冗談めかしくそう言って、彼女は片目を閉じて見せた。 ティオは『余計なお世話だ』とは言わない。ただ居心地悪そうに視線を逸(らした。 「それで」 少女は構わずに問い重ねる。 「どうなの?」 「…………」 ティオは改めて彼女を見詰めた。赤いその瞳を自分から見詰めたのは初めてのことだ。 ――そこに運命は映っているのか―― そうして、吸い込まれそうだと思う。 彼女のほうでも同じ感覚を覚えたことを少年は知らない。 「探す」 短く、だがはっきりと彼はそう答えた。 「運命(とかそういうんじゃなくて、俺が探したいから、探す」 何故か彼女にはそれを告げねばならない気がした。 「それでいいのよ」 満足気にルウファが笑う。 「運命なんて、気に食わなかったら蹴飛ばしてでも変えてやればいいんだから」
「何やってんだよ、俺」 俯いて前髪をかき上げる。 「家を出たのだって、逃げたわけじゃないのに」 自分に言い聞かせるように呟く。そうしなければ自分の行動の総てを否定したい衝動に駆られる気がした。 「俺は」 呟く少年の横顔を、ルリハヤブサは静かに見詰める。 「逃げない」 その宣言は決して強くはなく、かと言って弱くもなかった。 「ピィ」 アニスに頬擦りされ、それでいいのだと言われているような気がした。 今した「逃げない」という選択を具体的に考えてみると、どうやら宿に戻らねばならないという結論に達する。 「……あいつ等まだ戻ってないといいけど。戻ってたらうるさそうだよな」 よもや既に一騒動あったとは思うまい。 「俺、探すよ」 「ぴぃ?」 「わけもわかんねぇまま命狙われてたまるか」 親友にその決意を打ち明ける。 「それは『硝子の月』を探すって意味に受け取っていいのかしら」 ルリハヤブサの代わりに少女の声が届いた。
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