★ 夏海の日記 ★

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2002年02月25日(月) 病院へ行ったら...

 金曜日の夜から出掛け、魚介類をたらふく食べ、寝不足と法事のストレス、怪しい原因の温泉卵....
 ここまでが、私の日記の特徴の 長〜い 長〜い 前振りです。

 月曜日の朝、トースト(マーガリン+イチゴジャム)とカフェオレを食べたら、顔が赤くなって、かゆみが復活しました。
....これで 決定です。
 原因は、卵なんじゃなくて、内臓?
じゃぁ、内科に行くべきか、それとも皮膚科へ行くべきか...
診療時間を見てみると、内科は午後4時からもしているので、取りあえずかゆみを取れるようにと、皮膚科へ行きました。

問診表を書いて、さて診察室へ入り、先生に顔を見られた途端、宣言されました。
「これは、ストレスから きているものです」
へっ??ストレスっすか?!
 いつから症状が出たか聞かれ、土曜日だと答えて、部位が顔だけだということ(首もちょっと痒いけれど...)、そしてきっと、ストレスが溜まってる顔をしていたんでしょう。(だって、疲れていたんだもん)もう それは それは きっぱりと断定されました。
 ストレスの元に近づかないようにしなさいって言われました。たぶん、嫁姑問題が根底にあるんだと思っていたんでしょうね。そんなに『ストレス性の蕁麻疹』って多いんだろうか...って思いました。
 副腎皮質ホルモン入りの 塗り薬と飲み薬を5日分貰って、家に帰って、ことの次第を話すと、夫もえっ?ってびっくりしていました。義母は、不思議そうにしていました。この家で自由に過ごしている私が、ストレスが溜まってる?って、きっと思っているんでしょうね。(他人と一緒に住んでるだけで ストレス溜まるんじゃ〜 とは、さすがに 言えませんでしたけどね ^^;)

 さて、夫たちが昼からの仕事に出掛けた後、私は酷く落ち込みました。顔に蕁麻疹が出るほど、ストレスを溜め込んでいた事実に。無意識に そんなにも頑張っていたってことに。(その落ち込みは、それからずーっと続いたんですけどね...)

 2週間に1度行く病院では、毎回のように先生が、「あなたは頑張っているんだから」と言ってくれますが、私には頑張ってるという意識がなく、家事も適当だし、料理だって頑張ってるとは思わないし、夫は優しいし、義母は干渉しないし、義父は...確かに同じ家に他人の男が一緒に住んでいるってことはストレスだけれども、先生の言う『頑張ってる』という言葉に「いえ...そんな頑張ってないです」って答えていました。そんな意識も全然なかったし。
 ただ、困ってること、解決できない問題は 山積みだったけれどもね。

 私はストレスがピークに達すると、熱を出して寝込んだり(これは学生時代からです)、1週間ほど続く酷い落ち込み方をしていました。1月の中旬からの祖母の回忌の準備の心労から始まって(って言うか、11月ころから 気が重かったんですけどね)回忌の気疲れ、伯父の死、そしてネットでの疲れ...計ったように、毎週のように、週末になると何かイベント(ちっとも楽しくないぞ〜!)がありました。
 そしてそれが落ち着き始めて、そろそろ何かあるなぁと思っていたんです。
 伯父の四九日を済ませると、取りあえず全部のイベントが終了する...。熱でも出すかなぁ...酷い落ち込み方をするのかなぁと、漠然とした不安は、ありました。
 熱なら、とっても気が楽です。ただ寝ていれば良いんだから。なぁんにもしないで、ただスポーツドリンクだけを飲んで、熱の下がるのを待っていれば良いんだから。

 今回、私の顔にストレスで蕁麻疹ができたのを見て、一番ショックだったのは 夫だったと思います。熱なら、風邪とか何か言い訳ができるし、酷い落ち込みなら、それは私の問題だと思える。(って言うか、実際思っているし)
 それが、何も言い訳のできない 蕁麻疹として 顔に出ていて、それを見ていなくちゃいけない。「そんなに『蕁麻疹の出るほど』ストレスを溜めていたの?」って聞かれました。答えは イエス だよね。当然。
 いつもは、熱が出るか、酷い落ち込み方をするんだけど、今回は顔に出てしまったことを説明し、今回はたまたま蕁麻疹が出て、人の目にも とっても判りやすいけれど、これは私にとっては いつものことなんだと説明しました。他の病気とは言い訳のできない蕁麻疹が出て、夫は落ち込み、火曜日には下痢にさえなりました。(おいおい...あんたが下痢になってどうするんや...?)

 相変わらず他人のニオイのする家に住み、他人と同居していること、口に食べ物を入れたまま喋る義母に、お行儀の悪い義父、お風呂に入るにも気を使って、他人である義父にパジャマ姿など見られたくないし...。こちらの気分などお構いなしにハイテンションで 勝手に喋り続ける義母。(仕事から帰って、玄関を開けた瞬間から、1人で喋ってるんだよ〜! 猫相手に延々と「ヴェ〜」「ギャッ」とか奇声も発してるし)すぐに怒鳴り散らす義父。そこに気配があるだけで(気配だけじゃなくて、義母の場合声もだけど ^^;)ストレスは 溜まります。
 でも、夫にとっては それは生まれた時からそこにある『普通のこと』であって、何も蕁麻疹を出すほどのストレスだとも思っていないでしょうね。

 私は『スイッチが入る』と自分で表現してるんですけど、何かイベントがあると、力量以上のことをしてしまう、つい無意識のうちに頑張ってしまう性格なんです。今回は、それが1ヶ月以上続いてしまった。それが原因なんだろうけれどね。
無意識なだけに、蕁麻疹が出るほど、ストレスが溜まっていた事実に、落ち込みました。そうか...そんなに私は ストレスを溜めていたんだ...

 それに拍車を掛けるように、お薬の副作用で眠気がとっても酷くて、切れるまでの5日間は 起きてるんだか 寝てるんだか判らない程でした。

 ストレスを溜めないように
 ストレスに近づかないように
 私には無理です!お医者様
全てのことは 無意識にしてしまうんですから


2002年02月24日(日) そして その翌日

 翌朝 朝ご飯の電話で起こされるまでぐっすりと眠りました。鏡を見ると、前日より赤みが引いているし、かゆみもない。このまま治るんだ〜って思いながら、朝食を食べました。
 部屋へ帰って帰り支度を済ませ、会計を待っているうちに、どんどんまた顔が痒くなってきました。前日と同じように、どうやら顔が酷い状態になっているらしいし...。そこで思いつきました。
 『温泉卵だ...』
 昨日の朝ご飯、温泉卵を食べました、そして、宴会の時に、出汁巻き卵をいっぱい食べました。
 そしてこの朝の温泉卵....
(にしても、顔にだけ出るのは 不思議だったのですけど)

 取りあえず、原因は食べ物だ と言うことで、月曜日にアレルゲンを特定しに病院へ行くことを決め、甥っ子を楽しませるためにと、鳥羽の水族館へ行きました。
ここでのメインは、マナティーとジュゴン(人魚のモデル)です。水族館に行った覚えがない(そんなはずは ないのですが、甥っ子は記憶力がないのです ^^;)
 甥っ子に、楽しんで貰おうと、気を使いました。30分ほどするとオットセイのショーがあり、それを楽しんだあと、他の水槽を見て回り、私も夫も水族館が大好きで、スナメリやラッコの前で、ずーっと一日いられる程なんですけど、どうも甥っ子のツボが解らず、どうやら甥っ子は厭きてきているらしい...。(それ以前に、オットセイのショーも、本人が楽しんでいるのか、私に楽しんでいることをアピールしているのか、判りかねる甥っ子ではあったんですけど...)

 私たちと一緒に車でではなく、電車で帰りたがっていた甥っ子と母を鳥羽駅に送り届け、夫の運転で帰路につきました。
 私は助手席でウトウトしたり起きたりしているうちに、高速を降り、もう夕方でお腹が空いたので、帰り道でラーメンを食べました。食べ終わったら、また顔が赤くなってきていると夫に指摘されました。あれ?麺に卵が練り込んである??考えても仕方がないので、翌日の病院まで痒いにしても 顔のことは考えないことにしました。
 どうやら夫もとっても疲れていたらしくて、ラーメン屋を出たら運転を私がバトンタッチした途端爆睡していました。
 母達の荷物を妹に届け、家に帰って、夫は爆睡、私はインターネットをして過ごし、その夜も 早めに寝ました。


2002年02月23日(土) 伯父の法事に行って来ました

 23日土曜日に伯父の法事がありました。名目は四九日なんだけど...。法事は3ヶ月にまたがるといけないって決まりがあるらしくて、本当の四九日より1週間早く四九日の法要をしました。
それも 何と 朝の8時から!!

 と言うことで、前日からの泊まり込みで出掛けました。
 金曜日の夫の仕事が終わってから...の予定だったので、6時くらいに出発→9時過ぎに宿泊施設に到着予定だったんだけど、そこは自営業の強み。夫が早めに仕事のケリをつけて帰ってきたので、4時過ぎに出ることができました。
 一応宿に着いて、部屋に荷物を置いてから、伯父の家に行き、まずはお仏壇へご挨拶。その後、近所のお寿司屋さんに出掛けて、『特上寿司』を注文。(なぜ特上かと言うと、この特上にだけ、『塩』を付けて食べさせてくれるお寿司が組み込まれているので)お客さんが誰もいなかったので、カウンタに2人で座って食べました。お通夜の後に来た時には、伯父たちスポンサーが大勢いたので、お勘定の心配をしなくて済んだんです。でも今回はスポンサーがいない。ふと壁を見ると、値段が書いてない...あらら〜〜〜
 お金は 一応持ってるし、美味しいから 良いか〜♪と、他にマグロの子供のお寿司を追加で頼み、さざえのお刺身と、『とこぶし(あわびの小さい感じの貝)』の煮付け、太刀魚の塩焼き、を注文し、ドキドキしながら会計をお願いすると、2人で8,000円でお釣りが来ました。(何てラッキー♪)

 宿泊施設は郵便局関係のもので、素泊まりで5,000円。今回はキャンセルしましたが、晩ご飯が3,000円 朝ご飯が いくらだったかなぁ〜 で、部屋も綺麗で、大浴場もあるし、まぁまぁの施設でした。(ただね...大浴場の使用時間が10時までって言うのが、早すぎない?^^;)部屋の眼下には、子供の頃泳いでいた浜が広がり、とっても懐かしい思いでいっぱいでした。

 一緒に泊まったのは、母と叔母2人、小学1年生の甥っ子、義叔父で、3部屋取り、叔母夫婦が一つの部屋、母と叔母と甥っ子が一部屋、私と夫で一部屋の予定だったのですが、夫と一緒に泊まれるのが嬉しくて仕方がない甥っ子が、私たちの部屋で寝たため、私たち夫婦は小さな布団に2人で寝て、その上寝る前におしっこをさせなかったので、途中で起きたら甥っ子におしっこをさせないと...と気になって何度も目を覚まし、睡眠不足のまま朝を迎えました。

 朝8時。お寺へ現地集合し、お墓の前でお経を詠み、本堂へ移動後、また法要。その後 家に移動してお坊さんがお経を詠んだあと、通称『念仏ばあさん』(御詠歌を詠む人)が、途中で休憩を挟みながら御詠歌を詠んでくれて、法要の全部のメニューが終わったのが10時半くらい。その後に、宴会へと突入しました。

 オードブルの盛り合わせや お刺身の盛り合わせ、家で炊いた『タコ飯』や、ナマのワカメのお味噌汁などを食べ、そんなにお酒の飲めない夫も、ビールをガンガンつがれ、ちょっとヤバイ顔色になりながらも、全然知らない おじさん(伯父の幼なじみで、伯父の妻の姉の夫)にマンツーマンで話しかけられ、その上「子供を作れ」攻撃に合い、疲れて車の中に昼寝をしに行ってしまいました。

 さて、ここまでが例の如く長〜い前置き。どうしてかって言うと、何を食べたのかを伝えたかったからなんです。

 私も前日の寝不足やら、宴会のテンションの高さやらに疲れたので、2階の部屋へ逃げて行き、忘れていたお薬を飲んで ホッとしたところ、顔がだんだんかゆくなってきました。顔がかゆいのは、私はとっても慣れていたので、そんなに気にしていなかったんだけど、どんどんかゆい...。

 3時過ぎ、本当はそのまま帰るはずだったんです。でも、一緒に来るはずだった妹家族が、もう一泊するつもりで取った宿があり、今回は姪っ子の病気で来れなくなってしまい、でもキャンセルするとキャンセル料が発生するし、それは勿体ない...ということで、妹家族が泊まるはずだった旅館へ、私たち夫婦と甥っ子と母の4人の妙な組み合わせで急遽泊まることになってしまいました。(私も夫も、少し前からテンションが低めだったので、本当はちょっと気が重かったんだけど...。)
 その旅館へと出発しようと、みんなに挨拶に行くと、私の顔を見て、みんなが心配を始めたの。何か塗った方が良いよと言われて、鏡を見てみると、顔中が赤く腫れている...。ええっっ?!いくら痒いのに慣れていると言っても、顔中が かぶれてる状態は見たことがない!!う〜ん...食べた何かに当たったか(思い当たるのがありすぎる〜!)?それとも朝 貸して貰ったヘアケアのミストに かぶれた?
 医者に行けと勧められたけれど、保険証も持っていなかったし、すぐ治ると思って、そのまま旅館へ峠道を運転して行きました。(高台にあるその旅館への最期の坂道は、ちょっと『女は度胸!』くらいの勢いで上がる程の急な坂で、結構すりる満点でした 笑)
 榊原温泉から運んできたという温泉の露天風呂に入り、海の幸三昧の夕食を食べ、(エビ、カニ、貝、お刺身、ウニご飯など)顔のかゆみより眠気が勝ち、その夜は私だけじゃなく、みんながすぐに寝てしまいました。


2002年02月14日(木) 医療費を5%にする方法

今日、病院へ行きました。
そこで、壁に貼ってあった 情報をみんなにお教えします。
『精神科』(メンタル・クリニック 心療内科)にかかって、私のように『うつ病』と診断された人に朗報です。あなたの医療費が、5%になります。
私の場合、今3割負担なので、これが5%になる...。結構大きいですよね。

それの窓口が、今は所轄の保健所なのですが、もうすぐしたら、市役所に変わるそうです。
でも、やり方は 同じ。そして、とても簡単です。

用意するもの
☆ 印鑑
以上です。

印鑑は、三文判で大丈夫。それを持って、かかりつけのお医者さんへ行きます。そして、こう言ってみて下さい。
「医療費が 安くなるって聞いたんですけど...」

心が風邪を引くのは、体が風邪を引くのよりも、ずっとずっと長い間かかって、心に負担をかけてきたのが原因だったりします。だから、治すにも体が風邪を引くよりも長い時間がかかるというのは、理解できますよね?
お薬+診療費+カウンセリング
これが、心の負担にならないようにという仕組みが、都道府県にあるのだそうです。

ただ、『不眠症』なだけでは、NGな場合がありますので、先生に補助が可能かどうか相談してみて下さい。

私の場合、OKが出ました。
書類は 病院にあります。『診断書』や『紹介状』と、たぶん同じ扱いになるので、書類の発行には お金がいると思いますが、
『自分が書き込むこと』 + 『先生が書き込むこと』 + 『ハンコを押す』
で、書類は 完了です。

そして、その後は、病院が今なら保健所へ郵送し、保健所から県へ郵送され、また保健所に戻り、病院へ帰ってくる
この間、2ヶ月程度(少なくとも1ヶ月以上は かかるそうです)
手続きが完了すると、書類を書いた時点まで遡って、医療費が返還されるそうです。なので、早く手続きすればするほど、安い医療費で診察を受けることができるということです。

何てこった...
私が病院に通い始めて、もう3ヶ月以上経ってるやんか...
もっと早く知っていれば、医療費が今の6分の1で済んだというのに。
先生も、早く教えてくれれば良いのにね。

知っている人だけが 得をする世の中です。
アンテナを立てて、新しい情報をキャッチできる柔軟な脳味噌を持っていたいと思います。


2002年02月12日(火) そして飛び火して...

今日は パソコン教室の日なので、気分転換ができ、少し気分が浮上しました。

でも、夜PCの前に座ると、今度は Cさんが辞めるかもしれないと...。
みんながAさんの言った意味を考え、疲れ、
そして、何があったのか一番解っていなかったのは私で...。
暗い暗い気分でいました。

誰かが誰かを救おうとして、誰かが誰かを傷つけて、
誰もが傷ついて、疲れて...。

私は 疲れることにも 疲れてしまって、
そして 何より 覚えていないことに気が付きました。

記憶が なくなるんです。あまりにストレスが掛かりすぎると。
別館に今夜のメニューを載せていますが、
私が作って、今、食べたおかずを思い出せない。

あんなに号泣したのに、何を話したのか思い出せない。
覚えているのは、キーワードと、「しね」の言葉を肯定された傷

生きることに疲れているのに、私の体は 私を守るために記憶を封印するんです。
「生きなさい」と。

疲れることは もう考えるのは止めて、
ただ 楽しいことだけしよう。
やっとそう思いました。

だからと言って、すぐに低空飛行しているって言うか、もう潜水艦のように深い海の底に潜っている程の気分が、すぐには復活なんて しないんですけどね〜


2002年02月11日(月) 何が起こったの?

Bさんに、昨日のチャットでは説明できなかったことを、教えて貰いました。
Bさんは、私が『そちら側の人間』だということを知っていたので、私を心配していてくれて、とても丁寧に私の相手をしてくれました。
Aさんも悩んでいたこと。
その最悪な状態の時に、たまたま私がいてしまったこと。
「しね」とは、私1人に言われた言葉ではないこと。
やっと何が起きたのか、理由の端が掴めました。

でもね、どんな状態でいても、どんな文字に変えても
言ってはいけない言葉があるよね?

夫は、私の顔見て、「落ち込んだのは、治った?」って聞きました。
ちゃんとした説明を聞いた後だったので、気持ちの整理がついて、落ち着いていたので、笑顔で答えることができました。
でも、傷は消えていない...
それは、「しね」と言われたことを肯定されてしまったという事実。


その夜、またチャット室で、今度は大勢で話をしました。そこに、私のメールを見てAさんが『ブラック・A』さんにならない状態で参加してくれました。多くの言葉を語ってくれたにも関わらず、オブラートに包みすぎるAさんの言葉は哲学的過ぎて、結局なにも判らず、私が言った『何か』に反応して、Aさんは落ちてしまいました。

また私だ...。

この夜も 寝たのは3時過ぎでした。


2002年02月10日(日) 聞いては いけない言葉

お友達の1人にAさんという人がいます。Aさんとは、HPを通して知り合って、それ程その人を知っている訳ではないのですが、親切で、面倒見が良い人です。でも、時々 『ブラック・A』さんに変わってしまうという印象がありました。

さて、金曜日にチャットをしていると、Aさんが入って来ました。入った途端に、毒を吐いていたので、今夜は『ブラック・A』さんなんだと思いました。何を言っているのか、意味が分からなかったので、質問をしても返事はなく、ただ自分一人だけで話し、「支ね」という言葉を吐いて、落ちてしまいました。
その場に居たのは、私ともう1人...。一体何が起きたのか、2人とも分からず、「どうしたんだろうね?」とお互いに言っていました。

私は、どういう字を書いても、「しね」としか読めないその毒を気にしないようにしました。今夜は『ブラック・A』さんで、たまたま機嫌が悪かっただけだったんだと思いこもうとしました。
なぜなら、私は 『そちら側の人間』だからです。

『そちら側の人間』....
私は、生きていたいという思いが希薄なんです。生きることに絶望している。何の為に生きているのか、分からない。どうして生きていなくちゃいけないのか...。

騒動は、日曜日に起こりました。
Aさんが、HPを辞めるという話になったというんです。そして、その原因になったのが金曜日のチャット?と言うことになり、最期にコンタクトを取った私が話を聞かれました。
そして、その夜に入室したチャットで、「しね」という言葉が、私に宛てた言葉だと、初めて思い知らされました。

なぜ?私が何をしたの?
どうして生きることを否定されないといけないの?
そして、何よりショックだったのは、その言葉を言われたことを肯定されたことだったんです。
言われても仕方ない対応の仕方をした.....。

何を聞いても返事を返してくれない、そんな『ブラック・A』さんに、どう対処すれば、その言葉を吐かれずに済んだんでしょう?
私のせい?私が、言われたの?私に、『しね』と言ったの?
言われても仕方がなかったと、そう言うの?

絶望
そう、チャットで私は絶望しました。生きることを否定されて。生きることを否定された言葉を吐かれたことを肯定されて。
PCの前で号泣しました。声もなく。同じ部屋には夫がいます。夫に気づかれる訳にはいきません。何て説明したら良い?「しね」と言われたと?そんなことは、言えるはずありません。ただ声もなく、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、それでもチャットから落ちることを許されませんでした。
なぜ『ブラック・A』さんが辞めることになったのか を知るために。
その場に Aさんは 居ませんでした。だから、本当のことは、誰も知りません。何が何だか一番解っていない私が、一番の原因だと言われている。

途中で夫に話しかけられ、泣いている顔を見られました。「そんな顔をしてまでPCに向かわなくても...」と言われました。確かにそうなんですけどね...。
結局2時間以上付き合って、結局訳が解らずチャットを落ちることを許されました。

絶望していました。
お風呂に入り、号泣しました。もう我慢する必要もなく、声を出して号泣しました。なせ?どうして?私?生きることを否定される何をしたの?
そして、もし私が死んだとしても、ネット上での付き合いしかしていない人たちには、私の死すら判らないままなんでしょうね。ただ、今夜のことがショックで、ネット上に上がってこないようになった。その程度の認識しかないでしょう、そんな人の為に死ぬ?私が?!

久しぶりに手首に意識がいきました。じっと手首を見つめて泣きました。
首の頸動脈にも意識がいき、頸動脈がどくどく言うのを意識しながら泣きました。
泣いて 泣いて 頭が痛くなるまで泣いて....
2時間近く入っていたかな...。泣き疲れてお風呂から出ました。


2002年02月05日(火) パソコン教室へ行き始めました

以前通っていた、パソコン教室に、今日からまた通い始めました。夜の部に。
その教室へは車で行くんですけど、その一番最期の信号では、いつも赤で止まり、そしてお腹の空いた鼻に、焼き鳥のいい匂いがしてきます。
その焼鳥屋さんこそ、『幸せの焼き鳥』と、夫とあだ名を付けている程、美味しく、店の雰囲気は良く、その空間にいるだけで、幸せになれる、ずーっとそこに居たいと思わせるお店なんです。
そして、以前3年ほど毎週通っていたパソコン教室への行き帰りに、憧れていた焼鳥屋さんだったんです。信号待ちすると、右側に『炭焼き』『牛タン』『牛ロース』の魅力的な文字と、胃袋を鷲掴みにする匂い....。行きたい。行きたいと、夫にせがんでは、隣町なので、なかなか機会がなく、一度も行ったことのないお店でした。

やっぱり信号待ちで止まった右側のお店を見て、
初めて行ったのは、まだ夫の友達が生きていて、3人で行ったんだったなぁ...。と感傷的になりました。

夫の幼なじみだったその友達と知り合ったのは、私が19歳の頃だったかな...。少しヤンキーがかっていて、そう...スマスマで中居君がやっている『マー坊』を大人にした感じの人でした。(実際、あんな自転車に乗っていたそうです 笑)夫と3人で日帰りの小旅行に行ったり、私の親戚の家に泊まりに行ったり、結婚してからも、一緒にゴルフの打ちっ放しに行ったり、ドライブやバーベキューなど、色々誘いに来てくれました。
新しいオーディオを買うと、夫に配線を頼みに電話を掛けてきたり、車にオーディオを乗せたと言っては、配線を頼みに電話を掛けてきたり...。面倒見の良い夫は、その度に頭をひねりながら、夜中まで掛かってでも、何とか使えるようにしてあげたりして、私を呆れさせていました。

一昨年の夏、工場に電話が掛かってきました。彼の父親からでした。
それは、彼の死を告げるものでした。

その1週間前に、夫と一緒にラーメンを食べにでかけたばかりだったので、事故?と聞いたのですが、病気とのこと。
何が何か判らず、とにかく喪服を新調しなければ...と、その夜に買いに出掛けました。
友達の彼氏を亡くした時も、私は友達と喪服を買いに行ったことがあります。悲しいのに、現実は事務的に買い物をしている。それは、とても奇妙な感覚です。
黒にも段階があって、この年齢なら、これくらいの黒なら、恥ずかしくないとか...。

夫婦ともども仲良しだったので、お通夜に出掛け、お葬式は夫だけ列席する予定でしたが、平日ということもあって、お葬式まで列席できる知り合いがいないと言うことで、私も列席しました。
とても奇妙な感覚でした。
とても元気だったのに。
列席しながらも、まだ「信じられない」が、本心でした。

彼の死の原因は、心臓に菌が入って、心臓を止めてしまったらしいのです。
朝、普通に 「行ってきます」を言って出掛け、会社で倒れたまま、1週間。意識が回復することなく、彼は逝ってしまいました。


弟も、友達も、友達の恋人も、夫の友達も
みんな みんな 突然に 逝ってしまった。
朝、「行ってきます」を言って、
夜、「ただいま」を聞けるのは、奇跡なんです。
どうか、最期に見る顔は、泣き顔じゃなく、怒った顔でもなく、笑顔で。
ケンカは、その日のうちに 仲直りをして下さい。
次に会えるとは 限らないんですから...。


2002年02月03日(日) あまりに 落ち込んでたので

どうやら、夫の落ち込みは、ピークを越え、普通の状態に戻りつつあります。
何度も同じことを確認したり、道を歩いてる時に、マンホールが気になって、戻って覗くという妙な行為もなくなって、ホッとしています。

昨日は、欲しかった本を本屋さんを3軒もはしごして、やっと手に入れました。
その本の題名は、『ひとり、思いきり 泣ける言葉 〜泣きたい分だけ、涙が流せる本』吉元由美著(三笠書房)
ね?ちょっと そそられる題名でしょ?
これを最初に発見したのが、金曜日。買おう!!って2回思って、でも買わないで帰っちゃったの。でも、どうしても欲しくなったので、昨日買っちゃいました。
内容はね、詩集。
とっても切ない恋の詩集です。
片思いから始まって、別れがあって、そして新しい出会いがあって...
そういう思いがつづってあるの。
最初のページをちょっと 転記しちゃおうかな

あのね、涙をいっぱい溜め込んでいると風邪をひくのよ。
咳も出るわ。関節も痛くなる。そういうのはね、
薬を飲んでも治らないの。心と体はつながってるの。
泣きたいときは思いきり泣かないとだめよ。病気になるわ。
もしも誰かがいて泣けないのなら、
トイレでもお風呂でもいいの。涙を溜めないでね。



『アンドリュー』っていう映画を見て以来の切なさ度です。
これは、お薦めの一冊かも(*^_^*)


今日は、お葬式の時に日記やら、メル友とのやり取りで落ち込んでいて、あまりに落ち込んでいたので、マニキュアをしてみました。取りあえず左手だけ。
気分転換に 夫と買い物に出掛けて、でもまだ落ち込んでいたので、夫に「マニキュア塗って(*^_^*)」ってお願いしてみたら、思いがけずOKしてくれて、不器用に右手に塗ってくれました。
例えばね、足のマッサージとかされると、日頃大切に扱わない場所を、他人に丁寧に大切に扱われるので、幸せな気分になるのね、私は。それと同じで、指を大切に扱われたので、ちょっと気分が浮上してきて、調子に乗って今度は夫に塗ってあげました。夫婦でお揃いの爪だね♪って2人で笑って...(そう言えば、まだ落としてないぞ!良いのか夫君 ^^;)
こんな人と結婚できて良かったなぁって思います。
えへっ のろけちゃった ^^


2002年02月02日(土) 仕上げ

お葬式が終わった次の日の朝、宿泊した保養所から朝食も摂れずに出発
7:30から 家で読経が始まりました。
その後、8:00から お寺に移り、
お坊さんの読経 → 念仏ばあさん(通称)の御詠歌 → お坊さんの読経(お焼香) → お墓の前で、読経
ここまでが、その土地の『お葬式』なんです。(この朝行(あさぎょう)を、仕上げと言っています)
なので、朝8時にも関わらず、伯父の従兄弟やら友達、漁業関係者など、多数の人達がお焼香に来てくれました。それは それは 凄い人で、びっくりしました。
(そして、この朝8時からの『朝参り』は、亡くなった人の家族で、初七日まで毎日続くのです)

家に帰って朝ご飯を食べ、今度は伊勢志摩スカイラインの展望台の隣にある『たけさん(通称:どういう字を書くんだろう?)』に登って、卒塔婆を立てて貰いに行きました。
お墓にある卒塔婆を想像しては、いけません。それは、大黒柱になりそうな勢いの(でも、金額によるんだけど...)、太い四角い角材です。
受付で戒名を言い、施主の名前を記入して、読経の始まりです。
あまりに太い卒塔婆なので、その日のうちに建てることができないので、『何番地に建てた』という通知を、後日ハガキで通達されます。

この地方では、その山が神聖な山で、亡くなった人は四九日かけて、その卒塔婆を目印に旅をするのです。そして、そこから天に昇ると言われています。つまり、伯父の旅は、まさに今 始まったばかりなのです。

卒塔婆を建てた後は、それに参座した人をねぎらう(お礼?)の宴会をする習わしなのだそうです。そこで、伊勢市内のお店で宴会が始まりました。お酒を飲んで、めーいっぱい食べて...そこを出たのは、3時頃だったのかな。

伯父の家に帰って4時。もうすぐにでも帰らないと。(夫には、2時か3時に出るからと言ってあるし)伯父の位牌にご挨拶。祖父母のお仏壇にご挨拶をして、みんなにご挨拶して帰路に着きました。眠気と格闘しながら(後ろを気にしながら)120km/hで。(あれ?制限速度80km/hだったっけ?)

母を家に送り届ける途中で、ものすごい煙を発見。火事です。
それも、実家の 隣の隣が(風がないのが幸いでした)
消防車もまだ到着しておらず、ヤキモキしているうちに、どんどん火勢は強くなっていきます。野次馬が群がり始め、消防車や野次馬の車で私の車が帰れない状態になってしまったので、夫に実家まで帰り着いたこと、このサイレンは、実家の隣だということ、車が出せないので、騒ぎが静まるまで帰れないことを伝えました。
やっと家に帰れたのは 8時過ぎ。てっきり食事が終わってるものだと思っていた夫が、私の帰りを待っていたので、2人でカレーを食べに出掛け、帰ってきたのが9時半過ぎ。
やっと私の 長い 長い 一日が 終わりました。


それにしても、田舎のお葬式って、大変だわ。一つ隣の地区でも、風習が微妙に違うし。それを、やいのやいの言う義伯父に責められて、喪主をしていたイトコが可哀想でした。思わずハグして、頭をなでなでしちゃったよ。
お料理から、卒塔婆の料金、おもてなしの料金など、お金の問題やら、これをやれ、これをやっちゃいけない の風習。よく頑張ったなぁ。偉いなぁ。

その 一番うるさかった親戚が、実は パパとママだったりする。
....私の実家、私の家の誰も、パパとママより早く死んだりしませんように。
(いや〜 パパもママも、夏海は大好きなんだよ(^_-)-☆)


2002年02月01日(金) 一日中かかった お葬式

朝8時
お坊さんが 家に来て、お経が始まりました。
8時半
出棺です。そのまま火葬場へ
火葬場でお経を読んだ後、炉の点火ボタンを押すのは、喪主の役目なので、一つ年下のイトコが押しました。これも辛い習慣だよね。私は今でも覚えてるよ。弟の棺があの空間に入っていく瞬間。扉が閉じられる瞬間。まだ死を受け入れられなくて、生き返るんじゃないかって思って、そんな弟に火を着けるなんて。

1時間40分後、火葬場の係りの人が、骨をひとかけらも残さずに拾って、専用のテーブルに並べてくれました。弟の時には、陶器の骨壺に入れるだけの骨しか拾って貰えなかったんだけど、ここでは 全部の骨を、白木の箱に詰めて帰ることができます。これらは、どこどこの骨だという説明、病気をすると、こういう色になるといった、骨に関する説明を受け、みんなで 何度も入れ替わり立ち替わって骨を箱の中に入れました。

2時 家で お葬式の始まりです。お経を詠んでもらった後、お寺に行列を組んででかけ、本堂でお経を。その後、お墓に骨を箱ごと埋めに行きました。(お墓を掘り返して、箱を埋めるのです)そして、お墓の前で お経を。

5時 今度は家で お経が始まります。
それが済むと、和尚さんをおもてなしする宴会が始まります。(それは、家族の役目です)

やっと1日の行事を終え、ホテルへ帰れました。(前日とは違う『保養所』で宿泊しました)
鳥羽の観光地にある、海に面した部屋へ入り、夕日のように赤い月が昇るのを、ずーっと見ていました。
食堂でも夕食後、私以外は 伯叔父伯叔母だったので話の輪に加わらず、1人で部屋へ帰って、1人で夜の海を見ていました。

船の明かりがゆーっくりと動いていく様を見ていたら、急に寂しくなって、泣きました。叔父は、もうこの世にいないんだって思ったら、寂しくて、寂しくて。
声もださないで、静かに泣いていたら、急に思い出しました。今は、誰か傍に居てくれる。でも、帰ったら1人で家にいないといけない。この悲しさや、寂しさを全部ここで吐き出してしまわないと!家まで引きずって帰ってしまわないようにしないと!そう思ったら、開き直って、もう泣くことに決めました。
もう、わーわー泣きました。泣いて、泣いて、泣いて...
ふと上を見上げたら、綺麗な満月が出ていました。
しばらく、ぼーっと月を見ていたら、本当に、何も考えず、ただ月を見ていたら、やっと現実を受け入れることができる気がしました。

前の夜にね、いとこの1人が、「9ヶ月の間、いつ病院から連絡があるか、ドキドキしていた。父ちゃんが、もう苦しまなくて良いんだから、悲しくないんだ。」って言ってたの。だから、泣いてるのは、私1人だったかもしれない。確かに、長い間、時間をかけて サヨナラしていたんだもんね。

叔父に会えないのは寂しい。でも、叔父は心の中にちゃんと生きていて、私を見ていてくれるし、きっとあちらの世界で落ち着いたら、夢にでも会いに来てくれるでしょう。そう思ったら、やっと涙が止まりました。


これで、お葬式が終わったと思うでしょ?
それがね〜 田舎の お葬式は、まだまだ続くのよ...
また 明日ね 


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