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お母さん、迎えに来て。夢に出て。 お母さん、休みたい。助けて。
でもお母さんにはわからないよね。お母さんはラジオのパーソナリティにならないかって言われたことがあったような人。 あなたは愛されていることが顔に出ていた。あなたは幸せな人だった。
私も貴女といると幸せだったよ。私は貴女が喜ぶような女性にはなれなかったけど、それは仕方がないと思っています。私は貴女が幸せな姑になったことを喜んでいました。貴女にはできれば子供一人か二人で満足して欲しかった。でも一歳の私と共にいた貴女はとても幸せそうでした。ずっと貴女の一歳児でありたかった。
私正直お父さんとお母さんに産んでくれたこと感謝できないんだ。
お母さん、貴女が逝ってから、一体何年経ったのだろう?
昭和六十二年。1987年。39 年か。 感謝の年なのかね?
私は相変わらず本当に駄目なやつです。 仕方ないよ。これで精一杯なんだもの。
会いたいよ。
アルバムの整理をしていた貴女と二人の明るい時間。 あの日に帰りたいな。
私頑張ったよ。よく頑張ったよ。そんなに頑張ることなかったのかもしれないね。 でも応えなくちゃと思ったの。笑っちゃうね。
なるようにしかならないんだよね。 でも頑張ったの。だってそうするほかなかったものね。
悲しいけど、やっぱり合わないな。共感がない。だけどだからといって別れるわけにはいかない。愛していないわけではないんだ。何か違うとしても仕方がない。元々一人じゃないか。 お母さん、だけど涙が出るの。仕方がないよね?人を怒らせようとして怒らせたことなんてないもの。 でもさ、実は、いたずらくらいできたら良かったかもね?
人生の皮肉というのは、私あるいは誰かのものの考え方とか性格などが生み出したものなんだろうか? それとも、誰のせいでもないのに生まれてしまうものなんだろうか?
あーやっぱりこの後に及んでもやっぱりあまり学習していないのかな。 悪気のないのが一番始末が悪いんだと。。うううう
歩行安定性というのがとても低くなると、一心に祈ることは多くなる。 下りの階段を降りるとき、つい祈ってしまうのだ。どうか足を踏み外しませんようにと。
私が祈るのはどこの神様?と親戚のお姉さまに聞かれたことがあって、うちの神様、とつい答えてしまったのだが、私の神についてのイメージというものは、例えば、全知全能という言葉に出会った、故に、例え私が不完全な者でも、神が全てお見通しで何でもできる存在ならば、神は私を助けて、私は階段を踏み間違えずに済むに違いないと信ずる、浅ましいといえば浅ましい信心なのだ。 とにかく踏み外したくない一心なのだ。み仏は尊いが、来世のお話は清すぎる。願いは今生の話なのだ。 階段の上り下りの練習をさせていなかった飼犬が、2階の階段から転がり落ちてしまったことがあった。あれは全くもって私の心胆を寒からしめた、悲惨な体験だった。 その犬が亡くなった後、私はその犬を大明神に格上げして祈った。自分が転がり落ちたくない一心からだった。 そんな私であるから、全くもって他宗の信仰を貶めることはできないが、しかし私は釈尊のお弟子さんたちを心ならずも裏切ってしまうことになったので、キリスト教信仰によって救われるわけにはいかないと思っている。豚肉を食するし回教の教えに従って暮らすこともできない。 しかし、うちの神様に祈るのだ。足を踏み外さないように、それは道を踏み外しませんようにという願いでもある。
やはり旅は1人よりも二人でしたい。
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