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入院していれば三食昼寝付きでお薬も看護師さんが食事時に用意して下さるし、整理されている。洗濯もできる。 自宅療養はお薬を整理して順番に飲んでいかなくちゃいけないのは結構大変。自分の事だけど。だから胸が乳癌かと思うほど引き攣れたり、健康な時には想像できないような無理がある。神経障害は難儀。
そういえば、緑茶。緑茶は朝頂きたい。
うー、キツイ。 あと、もう少し。 しかし、免疫抑制して、免疫力つくのだろうか? 回復する感じがしない。追いつかない。 適当でいいのにな。どうしてこんなになっちゃったんだろ。 でも呼吸器内科さんで眠くなるお薬頂いた。 これでいいのだ。天才バカボンのママなのだ。
母は糠味噌漬けが上手だった。 きゅうりの古漬けは最高で、犬も喜んで食べていた。 糠床の管理は侮れない。 私は毎日一度は糠床を見るということが、苦手だ。 それでつい西洋の瓶詰めピクルスを好んでしまうのだが。
インスリンも薬も毎日の事。 こういう習慣に糠床の管理が加わっても良いよ。
人の心って天邪鬼。健康の事ばかりになっていると、 カップヌードルが食べたくなる。フォーっていうのも優しそう。
やっぱり正体って出ちゃいますよね。まだわかってないんだけど。 なるようになるんだ。
お母さんどうして夢に出てきてくれないの。 会いたいよ。私に何か言って。
私って本当にヘナチョコ。思えば最初からヘナチョコでポンコツだったんだ。
そんなことないよ。よくやってたよ。
お母さん、痛い苦しいしか無くなってしまうからとにかく 鎮痛剤を打ってくれと言っていたそうだけど本当に、鎮痛剤って効かないもんだねまいったな、
どうしてこんなに力がはいらなくなってしまったのか。
ステロイドも効かない。湿疹が酷い。
普通に健康でありたかったな。
私は本当に駄目なやつだ。そんなことは聞き飽きたって、でもそれしか思い浮かばない。
娘の父親と、まだ娘が生まれる前、私はまだペッティング以上の性交に痛みを感じがちで、そのせいか、カンジタとトリコモナスにかかった。その当時、夫以外の人とそうした行為は全く無かったが、夫は、叔母さんなどに、あんたもしかしてなんか悪さしてたんちゃうんか、と言われた、と大変心外そうだった。そう言われても私としてもどうしようもなく困った。 私は思うに、経験が少ない男女の場合、受け入れたくても痛みになるということはあるのではないかと思う。例えば私が子供の頃の傷のために、何か恐怖症のような症状だったとか、あるいは、夫の弟さんの自死についての精神的な疑惑など、夫に対しては婚約時からの愛情はあったが、夫も経験の無い女性には戸惑いもあって彼の期待には添えていなかったのではないかと思う。それによって信頼感によってリラックスすることが難しかったかもしれない。 しかしながら私は、聖書にイブ女性というものは、好奇心によって蛇の言葉にだまされ、神の戒めを破り、アダムを罪に誘った罪のために、神は女性の産みの苦しみを増した、とあったので、それがいかに男性中心社会のものであろうと、生存や種の存続の実存として、必要な理屈と考えて、夫や兄や父の女性に対する理不尽を糾弾しようとはあまり考えていなかった。むしろ無骨さ男性の無垢さと感じて愛した。 しかし皮肉なことにこうした妹愛は、日々人生において内面的葛藤を抱えていたかもしれない兄たちにとっては、年下のオムツをしていた赤ん坊だったくせに、かなり上から目線の馬鹿にした態度に見えたかもしれない。私が相手に好感を感じていた時に特に、姑などに、いやだ、やらしいわあ、と突然私からすると何か勝手に訳のわからない羞恥に駆られたお怒りのようなものにあたふたしたこともあった。 私は夫のご自分のお母様をどんな風に愛らしく感じているかを説明されて、なるほど何と愛らしい方であろうかと感心していたのだが、それは姑にとっては、息子とその嫁とが何か自分の知らないところでご自分を小馬鹿にしていたような雰囲気を感じてしまったような瞬間だった。これも皮肉な展開だった。 そのため、世間では笑顔を施すという考え方もあるが、私は個人的には、笑顔が必ずしも相手を喜ばせるとは限らないという経験をしてしまい、そんなわけで、あまり笑わないロシア人というものにかえって、何か安心感を感じたりするようになってしまった。 娘の父親も、親鸞さんはあまり温厚という印象でもないところが、それでもいいのかなという安心感を持てると語っていた。
女性の外見よりは内面や考え方に関心を持つ教養、三浦綾子さんの小説に出てくるようなだんせいもあろうが、日本人男性は人は外見が九割と言って恥じない人もかなりあるようだし、またリビドーが視覚的な刺激による場合も大きい人も多そうだが、娘の父親が、私の外見に限らず、私の関心のある小説などについて関心を持ってくれたというだけでも、自分の心に関心を持ってくれたと感じて、私はとても満足していた。彼から見た私というものが、私自身にとっての自分とまた違った捉え方だったのが新鮮でもあった。だから子供が生まれて一段落した頃には、少しは実家と全く違った世界の環境の良さも感じ始めていた。しかし私は新聞も取っていないところに何年もいたので、外界については実家関係についてしか関わっていなかった。夫の家族の世界を否定するような向きついては全く頓着していなかった。
私の母には異腹同腹のお姉さんたちが五人あったので、おそらく母は、指導する姉タイプではなく、かなりお転婆姫だったのだろう。子供の頃毎朝早く起きてみんなのごはん十一人分?を炊いたのは、お腹が空いて早く目が覚めちゃったからだったそうだった。 私には母のように同性の姉妹が無かったので、母は私に女友達を作ることを第一義的に考えていた。それで小学校に入ると、お友達とお外に出て遊びなさい、と言うのが大真面目な課題だった。新しい環境に馴染むのはしばらく時間がかかるものだから、できれば休み時間は自分の席でじっと大人しくしていて、体力を温存しておくのが得策だったと思う。でも私は母に言われた通り、休み時間になる度に校庭に出て鬼ごっこや花一匁の遊びなどに頑張ったので、40℃以上の熱が出て、急性腎盂炎で入院する羽目になった。 それで女の子は衛生上前から後ろに拭かねばならないということはわかったが、母はあまり大人の話が得意ではなかった。お風呂の時、おへそはきれいに洗っておかなくちゃだめよということを言われたが、母の言うお臍とはちょっと違うところだったようだ。私はおへそを洗えということが頭に残ってはいたが、今ひとつわけがわからなかった。その上中学の初潮指導で生理の血液は教育映画の図の中で青色で表現されていたので、私は初潮前だったので、月経というものは青い液体が月に一度出てくるものかと勘違いしていたのだ。血が出るんでしょ、と母に言われて、違うよ、赤ちゃんの栄養だよ、と私は言い募った。
私は子供の頃遠慮なく食卓で兄たちに負けない量食べていたし、牛乳も沢山飲んでいたので10代の頃も二十歳過ぎても、あまり細くはなかった。しかし心の中では私の自分の理想は少年体型の中性的な少女でありたかった。 あるグループにおける男女の比率は、どちらかの論理の勢力の強さを決める。だから働く女性の数を増やそうというわけだが、
ペリーの黒船がやってきた頃、日本人は長崎の出島から外国の噂や知識は多少得ていたろうけど、やはり幕府にしても新政府にしても、西欧の文明は抗いがたい魅力を持っていたんだろうな。 だから鹿鳴館を建てたり社交ダンスをする為のドレスを着たりして、どんどん取り入れたんだろうな。 江戸幕府はイエズス会キリスト教の布教を禁止したから三百年近く平和を享受出来たけど、富国強兵策にしてキリスト教を取り入れた途端どうだ。戦争への道を突っ走ったじゃないか。ナザレのイエス様は、親子兄弟を捨てて自分についてくるのでなければ自分に相応しくない、自分はこの世に平和をもたらすために来たのでは無い、親子兄弟嫁姑の仲を割くために来た、と堂々と新約聖書の中で謳っている。だから日本が隠れていた間も、世界では絶え間無く戦争が続いていた。そしてどうだ、その弱肉強食の世の中に納得できずに日本が自滅戦争を始めたら、原爆を発明して落とし、ソ連が寝返らなければ戦争は終わらなかった。
人は一見そうなのかなと思ってしまいそうな理由づけをする。 例えば、お子さんが女の子ばかりだったお祖父さんが糟糠の妻を捨てて若い女性に走ったのは、もし男の子が生まれていたらそんなことにはならなかったのではないかとか。 若かった私は、妊娠中で神経質になっていたせいか、男だという思い込みが大事だ、と若かった夫が笑顔で私に言った時、親戚の人の言葉を思い出して、もし男の子でなかったらうまくいかなくなるのだろうか?という恐怖に駆られて、女の子だったら離婚する、と五分前までは考えもしなかった言葉を発してオイオイと泣いた。実家では誰も男でないと駄目だとか女の子は駄目だとかいう事が言われたことは全く無かった。嫁ぎ先だってそうだったに違いない。しかし悲しいことがあると、人はもしあの時こうしなかったらとかもし一人でも男の子があったらなどと悔やんでしまいがちなのだ。そうでなければあんな良い人があんなことになるはずはなかったとか。 しかしながら、時が経って、他にも色々なケースがあることを知ると、例えば、竹内結子さんは最初も男の子だったけど、離婚されたじゃないか、男の子が生まれれば上手くいくとは限らないんだ、と思った。 それまでは、狭い世間で親戚や友人に離婚話などなかった私には、男の子が生まれていれば、という夫の親戚の人の言葉は、とても強いインパクトを持って迫ってしまったのだ。しかしとにかく合わなかったのだろう。何かご先祖の違いの関係か何かわからないが、実家の価値観とはとても違っているようだった。 やはり愛があれば年の差なんてとか、宗派の違いなんて、とか、信じて生涯の誓いをした私の器はあまりに小さかった。もし私が本当に利発で健康な少女だったら、恋をしていたわけでもないのに、縁談と知りながら遊びにいらっしゃいと言われてはいそれならばと遊びに行ったりはしなかったに違いない。CAになりたいとか外交官になりたいとか夢を語っていた女の子たちを眺めながら。
しかし世の中には本当に才能の豊かな人があるなあ。
うつ伏せにならないと思い切り咳をして痰を切れないと思っていたが、うつ伏せになろうとして、身を捩ったら、ボキボキボキっと音がした。肋骨が折れたかな? 左胸が狭心症の痛みとは違った痛みで今非常に痛い。
私は麻酔で無痛分娩というのには多少怖さを感じているが、もし自分が今度出産する時には、自宅に助産師さん立会いで、バスタブの中で水中出産をしたい。仰向けでなく、犬が陣痛に息むように、下を向いて産みたいのだ。赤ちゃんはそれまで羊水の中にいたわけだから、水中に生み出されても大丈夫だし、水又はぬるま湯の中ならば、産湯で洗う手間も省けると思う。ちょっと胎盤を破って拭いてやればいいと思う。アメリカ人のご主人とハワイで水中出産をしたお母さんがとても楽よと語っていたし、クリスマスパーティーの時もとても幸せそうだった。この頃はどうしておられるだろうか?
思えば父も両親の期待と友だち付き合いとの兼ね合いに悩んで中学の時に神経衰弱になった。 父は私に人の思惑を気にするなと言った。彼は私の気の小ささを理解していたのかな。
今日は娘のお父さんのお誕生日だ。 彼の一歳の時の笑顔の写真を私は見失ってしまったのだが、 その写真の彼の満面の穏やかで偏りのない笑顔の面影はよく覚えている。 彼は祖父母にもまた家族以外の人にも何かと大切に思われていたから、生まれた時に喜ばれたものは彼の笑顔を円満にしたように思われる。色々苦労もあって、彼は自分を円満な人柄とは思っていないような言動もあったが、基本的には私はあの赤ちゃんの円満な笑顔が忘れられない。
私自身も写真を撮ってもらっていたが、私は子供の頃七五三の着物姿でも割と不安な表情だったように見える。父と母は見合い結婚にしてはラブラブだったが、父方の祖母から離れていた。母は成人する頃終戦だったから、新婚生活は自由民主主義の時代になっていた。彼らは都会の街の人だったしな。
しかし今考えてみると、やはり私は神仏習合の日本の多神教の中でしか生きられない。カトリック教会に通うエネルギーは持ち合わせていないし、新約聖書にはとても惹かれたけれど、私の実家とは違う社会だった。もし私にカトリック信仰があったら、医師にも看護師にもなれる力が授かりそうな気もしたが、その力は無かった。父はしかし日本の農業経営について心を砕かざるを得なかった。東畑精一という人名を父が口にしたことを記憶している。とても尊敬していたようだ。
私は確かに友だちを傷つけたことがあったと思う。 夏休みに一緒に自由研究をしたクラスメイトがあった。 その子と私は帰り一緒に帰ろうと約束したらしいのだが、私は一人で帰ってしまったらしい。 空想の話を帰宅途中に考えてノートに書くのに熱中していた。たいした話ではないのだが、その頃椋鳩十とか戸川幸夫などの児童動物文学にはまっていて、雀の話を作りたいと思っていた。私には何かが欠けていて、雀の話もそんなに面白い話ではなかった。 脳血栓で倒れて口がきけなくなって介護されていた祖母が亡くなった後で暗い気持ちだったかもしれない。彼女は女学校の教師だったが、背の高い米軍将校が二人彼女がベッドで寝ていた2階の部屋までお見舞いに来た時に、涙ぐんでいたのを見て、彼女の人生についてもっと知りたかった気がした。祖母の涙を忘れられないというのはそういうことだろう。もっと彼女の昔話を聞きたかった。 しかし介護していた母にとっては大変な毎日だったから、その苦労を理解してあげることが必要だった。 しかし幼い私は彼女の苦労をさらに重くすることしかできていなかったと思う。彼女はもっと周りの人に助けて欲しかったろうが、それを期待すると裏切られた気持ちになるのが嫌で全部自分が背負おうとしていた、子供に頼むよりも自分がやってしまった方が気が楽、と言われたことがあって、私は内心とても傷ついた。廊下の雑巾掛けでも何でも頼んでくれたら彼女の精神的肉体的負担を担えたんじゃないかと思うが、どうしたらいいかわからなくて、祖母の介護を手伝おうという気持ちが育たなかった。ただ祖母が夜中に徘徊して父や母が右往左往していた記憶、母が居ない時に祖母や伯母が大変なことになっていた記憶などがいつまでもこびりついているが、母が祖母について女子師範出の偉い先生で教え子の人たちには神様みたいに思われていたけど、自分は人格を疑ったという話に、心が痛くて、でもね、お母さん、おばあちゃんたちだって大変だったんだよ、とかなり大人の年になった頃に反論してみても良かったと思うが、言えず仕舞いで終わってしまった。反論したらまた違った展開に好転したかもしれないのに、できなかった。てきるかできないかではない、するかしないかだと言われる。しかしできない時もある。
Amazonは置き配が助かるし、欲しいものも多いが、私には収入が無いし、夫にはAmazonプライムはしないように言われるし、見ると欲しくてもAmazonプライムになっているので非常に精神的に消耗が激しいし、Amazon Japanは米国のAmazon.comが米国で税金を払っているからと言って日本では税金を納めていないらしいので、残念だがこれからはAmazon Japan は利用しないことにした。
もし後の世で私と同じ障害のあった伯母に会ったら、一緒にとてもきれいな温泉に旅行して、一緒に美味しいものを食べて、そして彼女の蘊蓄を聴いて語り合いたい。 彼女となら、広島を訪れても良いな。
私は母に生前カーネーションの一輪も贈ったことはなかった。 今度外に出られたら、あそこのお花屋さんにはカーネーションあるんじゃないかな。 そしたら、カーネーションを一輪買って、神棚かお仏壇に飾ろう。
ウォーキングにはコルセットは良いが、家事には難儀。
自分の足の爪を自分で切れるのは、とても有難いことだと感じるようになった。 かなり足の爪が遠くなっていて、危険だ。
久々扇風機を回す。
参ったなあ。あの冬の昼間の冷たい床。と書いても、今は冷んやりして心地良さそうに感じる。 気管支炎は最後の回復の段階に入っているが、しばらくはかかる。
絵葉書を送りたいな。郵便局まで往復する。すぐしないと忘れるよ。
うちの旦那の両親がウォーキングランニングマシーンをくれた。 良さそうだが、1分も歩かないうちに息が上がる。心肺機能を鍛えるのに良いかな。 旦那さんは肥っているので外でジョギングするのは恥ずかしいので、家の中でするのだそうだ。 私は外で犬と走って大横転したので、やはり外走りは危険。ジムのマシーンで走っている人の気が知れなかったが、やはり必要に迫られてできた機械なんだな。
やっぱり何かと難しいかな。
なかよくやってるかな
書道の時間持てたら素敵。
子供が学校で使った書道セットがある。
落ち着いて書道ができる環境を整える。
なぜ石破首相はトランプ大統領をおだてる必要があったのか? なぜあんな姑息なことをしたのか? カナダ等のように批判できずとも、あんなおだて方をしたのは罪深い。あれが本当の友達のすることか? あれが日本の政府が相談して決めたことか?それを石破首相が実行したのか? 日本の愚かさって、真珠湾攻撃の時から少しでも学んだこと成長したところはないのか?
ああ、これはきっと八つ当たりかもしれない。 自分の体が言う事を聞かないから。
元々私は鈍臭い。
自立経験が無い。
でも一人で生きている人なんてそうはいないと思っている。 いつか、一人で野生生活してきた男性の話があったが。 なかなかそんな人も多くはないと思うが。 すごいとは思う。
今日は検診日だ。
私はがん検診などが嫌いだ。 大腸癌検診など私は人に勧めない。 あの検診をするまで私はこんなに過敏性大腸炎に煩わされることはなかった。 大腸癌検診には恨みがある。
就職していた頃は、便秘も生理も感知していなかった。 過敏性大腸炎よりは便秘の方が仕事には助かる。
鬱は確かに辛い。散歩しても辛さは軽減しなかった。 母親が子供を奪われて鬱にならないわけがなかろう。 恵さんのお母様を拝見すればわかる。
ただ自分も奪われたままなので、政府や外国の大統領に頼めるのはすごいと思う。子を失くして嘆いてもとうしてももらえない母親って一定数あるし。災害もあるし。戦争も。無力。
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