�蠧�記
DiaryINDEX|past|will
何回許せばいいんですか?七回でしたっけ? 77回とイエス様は言われた?
1967年私は小学校に入ったばかりだった。休み時間に鬼ごっこなど皆と一緒に目一杯遊ぼうとしていたが、脇腹が痛くなってついていけなかった。摂氏四十度以上の熱が出て盲腸かということだったが急性の腎盂炎だった。横になっていても天井がぐるぐる回っているような感じで辛かった。 全粥が食べられるようになるまで、二週間か一ヶ月くらいかかったかな。しかし腎臓の病気で三か月入院している先輩があったのでたいしたことはなかった。
丁度その頃下越地方では豪雨の水害が酷かったようですね。無縁さんも結構あったようです。そんなわけで、先人が災害対策に努めてこられたように、私たちも、日々の暮らしの中で知っておくべきことは色々ありますね。
水色の空が覗いている。
ぼけているとはいえ、この両眼のカメラビデオ機能は一体何のためなんだろう? 不思議だなあ。 少なくとも、私の意志で眼下の左右の小鼻を見ようとすれば、眼球はそのように動くのだ。これはすごい。焦点は明確とはいえないが、しかし、色彩を感知する。私の鼻は真っ白ではない。 一体私の意志とはどこにあるのか。この場合の意志はやはり脳味噌の中にありそうな気がする。心臓も頑張っているが、心臓は眼球のカメラ機能を動かすところからは多少離れている。胸が締め付けられたりする時は何かに反応していると思われるが。
やっぱり来年の夏は纏った旅を計画したい。 気温が高ければ、野外で眠ることも出来るんじゃないかな。
私は二十歳過ぎた頃、自分が結婚するとは思っていなかった。 もしするとしても、入籍するかで、結婚式の必要は感じていなかった。 ということは、結婚前私は、自分の国の役所の登録制などに疑問を持っていなかったということだ。 私の父は車が通っていなくても赤信号を渡る事はなかった。 私は父が酒の力を借りてかどれだけ激しく日頃の憤懣を母にぶつけても、それで両親の絆を疑ったことはなかった。今でも私は父親の日本の国を良くするにはどうしたらいいかという自問の純粋さを疑ってはいない。 汚れた灰皿を古い歯ブラシで磨いてみせて、そのもの本来の美しさを出してやるのだと言った。
真珠湾攻撃したのはペリーの黒船が来なければ日本は開国しないで済んだ日本がこうなったのは米国のせいだっていう意味だったのかな?
山月記が思い出される。私は寅年ではないが。 私も山月記の虎になった男のように、集団の中で暮らすのは難しいのかな。
困った時はお互い様ですよ、とさらりと言ってみたい。
思いやりってなにかな
機能性だけで設計してはいけない
己を空しくしてただ傾聴するということ
立秋って八月七日。早いな。
色々な時があるんだな
またお腹痛い
ご厄介になるばかり
なさけないな
生後八ヶ月から四歳まで九州の熊本に住んでいた。 私が三歳頃、東京の母方の祖母と伯母が遊びに来た。 そしたら、夜中に台風が来た。停電の中で、祖母はお腹が痛いと呻いていた。 母や伯母は、おかあさんは大袈裟なんだから、と笑っていた。 薄情な娘たち、と祖母は怒っていた。祖母は六人の女の子と男の子二人育てたが、 上の四人の女の子は祖母の姉が生んだので、伯母と私の母は祖母の産んだ最初と二番目の女の子、怒るに気を使うこともなかったろう。 暴風雨の中、父と兄たちは父が私のために日曜大工で建て増しした部屋の屋根の上に乗って押さえていた。 父と母がどれだけ喧嘩しても、私は何とも思わなかった。 夏の夜蚊帳を吊ってその中で寝るロマン。 幸せだったな。新聞も電話もお風呂もなかったけど、芭蕉の木が生えていた。 桃色の花を咲かせた合歓の木。母が植えたグラジオラス。 紺碧の空。目の周りにやってくる虫の群れ。 夜中に父と母が同僚夫婦と出かけたダンスホール。舞台で着物を着て日本舞踊を踊っていた女性が一枚ずつ脱いでいく時に、父と母が踊っている間、テーブルで私はジュース、父の同僚の人はお酒を飲みながら、私はその人が着物を脱いでいく女性を眺める恍惚とした表情を眺めていた。
雨はどうなったかな。 あの台風が過ぎた後、家の前の大きな木が根こそぎ倒れて道を塞いでいた。 祖母は後で胆石の手術をしたが、温泉ではご機嫌だった。 祖母はその頃新生という煙草を喫っていた。 六十過ぎて大病した後四十年ほどはやめていたかな。 叔母は祖母が総入れ歯でも長命だったので、入れ歯でも大丈夫だと思うのだと語っていた。
腹を探ってみると、どくどくと脈打つ動脈がある。
そういえば、和服ストリップの女性はすっぽんぽんになるかならずかのところで舞台の下手に消えていったので、下着はつけていなかったが、はっきりとは見えなかった。
|