夜中に目が覚めたが、私にしては珍しく鮮明に夢の記憶が残っていた。
広い事務室のような、研究室のような場所で実験をしている。かたわらでは事務局員が仕事をしている。実験をしているのは劇団員や大学の同僚、知人の10人くらいだ。ガラス張りの縦長の箱の中に一辺が10cmくらいな透明な箱を入れ、スイッチを入れるとその小さい箱からグツグツ煙が立上っている。何をしているのかと訊くと原子力発電でチーズを作っているのだという。夢の中ながら、こんな設備では放射能にやられてしまうのではないかと危ぶんでいた。しかし、誰もまったく疑問も不安も抱かずに作業を進めている。できた、と誰かが叫んでスイッチが切られる。
チーズを持って外へ出ると、急に場面が変り、急な坂を滑り降りていた。どうやらスキーをしているらしい。大きな荷物を抱えた子供がなかなか降りられないでいるので降りるコツを教えている。やっと降りてこられた。
そこで目が覚めた。とりとめもない夢ではある。
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大学へ行くと試験運転で暖房が入っていた。ほっとする。学校の暖房にはいろいろな想い出がある。
以前、十一月なのに冷え込んで、凍えるような天気があった。まだ中旬だったので試験運転もできなかった。アメリカ人の教員が「こんな寒い教室で勉強させるのは非人道的だ。学生は洟をすすっていた。この大学は人間を何だと考えているのか!」と助手に向って憤りを爆発させている光景に出くわしたことを思い出す。
国立大学では教えたことがないらしい、とその時思った。某大学では十二月に入るまでどんなに寒かろうが試験運転も何もない。学生も教員も防寒態勢を固めて授業に臨んでいる。しかも、十二月に入っても午後には節電と称して、暖房は切られてしまうという徹底ぶりだ。
あの時、怒声をあびせていたアメリカ人は天の計らいか、明くる年北海道の国立大学に晴れて就職した。さすがに北海道では国立大でも十一月にもなれば暖房は完備だろう。
----------------------------------------------- 引越しのご挨拶
今日で気まぐれ日記はエンピツから引越しする。2ヶ月の短い間の書込みだったが、今度はshiromukuさんのcgiをdownloadさせていただいてaaacafeに自分で設置した。気まぐれ日記第3版 URL="http://f19.aaacafe.ne.jp/~tosenkyo/cgi-bin/scf_diary/scf_diary/"の誕生である。これからもよろしく!
昨日、雪の匂いがしたとおもったら、夜冷え込んで、朝が寒い。初めて炬燵を入れた。水温も下がり、洗い物はお湯でないとちょっと辛いと感じてきた。冬だ。
自然の地水火風から火が消えた。
最近評判の推理作家、横山秀夫の「半落ち」を読む。
期待に違わぬ筋の運びに引込まれて一気に読終えてしまった。文章に、直木賞の選考委員の誰かが言っているような問題は感じなかった。むしろ、委員の文体感覚がおかしいのではないか?とまで思った。特に、現実にはあり得ぬ設定なので、選に漏れたという批判には納得が行かなかった。小説世界の構築された現実感と現実の世界の緻密な雑多さとは違うものだ。現実ではあり得ないような構想、構成を私たちは求めているのだから、この評は実生活に偏している。真実と虚構の二分法に堕している。
だが、ストーリーに引張られて読んでいった読者として、最後のオチは承服できないものだった。バランスの悪さとでもいうのだろうか。期待させるものの大きさと、作者が用意したどんでん返しの重さが釣合わないのだ。期待が大きすぎたせいか、結末の軽さ(安易さ)に、だまされたような思いが走った。直木賞を逃した理由がよく分った。これでは賞を取れなくても仕方ない。
----------------------------------------------- 力の限界
イラクで連日のようにアメリカ兵の死亡が報道される。アメリカは軍事力、経済力で圧倒的な優位に立っていたはずだ。にもかかわらず、力で押え込むには限界があることを如実に示している。そして、ものごとを進める手順を間違えると、どんなに繕おうとしても、繕う手を小さなほつれが次々とすりぬけて、次第には、修復不能に陥る、そういった時間の非可逆性の厳しさを見せつけている。
ブッシュはどう見ても傲り高ぶっていた。計算を間違えたのだ。人間の気持は財力や兵力でそう簡単には変えられない。このままの体勢ではおそらく50年くらいはかかるだろう。それまでアメリカがもつかどうか……。そしてまたアメリカに追随する日本がもつかどう?
フセインの非道は明白だ。だが、ブッシュにはこの問題を外濠から埋める忍耐力が必要だった。その一手間を省いたツケはあまりに大きい。日本も同様だ。大した大義もなく派兵される自衛隊(自衛?この言語矛盾!)からも無惨な犠牲が出るだろう。その痛みに日本がもつかどうか。軍隊ならいざしらず、自衛のための集団が、外国でねらい打ちにされることの矛盾と屈辱に、日本人は論理と倫理の両面から自治国としての誇りと自信を根底から覆されるだろう。
小泉はこの点が読めていない。安心して住める日本?ヴィジョンの立て方が逆さまではないか?出すなら先制攻撃可能な軍隊として出せ。蜂の巣にされるのと、撃ちあって果てるのでは天地の差がある。自衛隊が見殺しにされれば、その出来事はそのまま強力な隠喩として日本を動かす。小さな出来事が歴史を動かすことがある。
隠喩の力を侮ってはいけない。
----------------------------------------------- 雪だより11月17日朝
今朝、玄関を開けて外へでた瞬間に冬の匂いがした。山は雪だろう。この匂いは冬になるとかならず訪れる雪の匂いだ。早いのだろうか、平年並だろうか。車の窓に見える赤城山の頂はすっかり白い雪雲に覆われていた。
昨夜、ワークショップの発表会用の台本を編集する。午前2時半に終了。
今朝は眠い。
----------------------------------------------- 高橋尚子、まさかの敗退。不敗の勇者が破れる時の歴史感覚。マラソンは盤石ということのない世界だ。本人の弁、足が棒になった、はいままでの好調が奇跡だったことを思わせる。神話の崩壊に立会った感がある。
----------------------------------------------- 話はとつぜん小さなしあわせへジャンプ。
高山麺業の石臼挽き蕎麦が復活した。先日突如としてKマートから姿を消していたこの素晴しい蕎麦が以前の1玉づつの包装から3玉入りパックとなって返咲いた。もう食べられないと諦めていただけに、一層この美味をかみしめて食べている。
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パソコンというこれほど不便な便利を世界中のひとびとが使いつづけているのはひとつの不思議だ。きっとあと20年くらいしたら、こんなに馬鹿げた時代があった、と笑いぐさになっているかも知れない。ちょっと考えれば分るように、これほどしょっちゅう壊れたり、作動しなくなったりする家電や機械が存在すること自体が奇妙だ。そんな家電を作るメーカーは即刻つぶれるだろう。そんな自動車など誰が買うだろう。
しかし、パソコンだけは例外らしい。技術が追いついていないから、と誰もが諦めている。実際はそうではないだろう。ほんの一握りの(あるいは、ひとりの)利権にしか念頭になり人間のためにこんな状況が作り出されている。そもそもMS-DOSにしたってかなり他人のアイディアを盗用している。たまたまそのアイディアの持主が利権にはとんと関心がないねっからの技術屋だったからそんなことが可能だった。
毎日のように修正パッチの情報が送られていると、だんだん考えることも投げやりになってくる。
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今日、研究室のパソコンでメールを開くと英語で「おめでとうございます」という件名のメールが届いていた。
読んでみるとLottery Winners International programsという団体の主催するインターネットくじで、私のメールアドレスが五千万円($500,000)くじに当選したというのだ。そして、12月15日までに手続をしないと五千万円の権利が無効になるという。
手続をするべきメールの宛先を見て冗談と気づいた。アドレスがjmeterry05@netscape.netなのだ。そんな権威のあるはずの団体のアドレスがフリーメールというのだから笑ってしまうではないか。ひまな人間もいるものだ。
調べてみると有名なインターネット詐欺(scam)らしい。興味のあるひとはこちらをどうぞ。http://www.sheilafreemanconsulting.biz/scams.htm
奇妙な夢を見た。夢の中で、私は大問題を解こうと努力している。その大問題とは----
自身、光であり、全きものであった存在が光に照らされることにより存在者になり、分断される。そうやって分断された存在者が如何にして他者を照らし得るのか?
書いていて何故こんな疑問を持ったのかが疑問になるような夢だ。夢をみているあいだは意味をもっていたのだが、さめて思い出す行為のなかで意味は喪われて行く。
夢を見る、という活動それ自体がひとつの意味を発生する運動なのだろう。それに引替え、思い出すという行為(元にあるものがあり、それを再現しようとすること)の二次性が意味を奪うのではないか?そう考えると納得がゆく。強引な理屈ではあるが。
鼻水が止らない……ゆうべからからだがだるい、腰が痛い。こういうのはたいていは風邪。のはずなのだが、今年は秋口からこの手の症状が多い。とくに鼻水が止らないのが。アレルギーか?
と、ぼやきつつ、いつものようにデロンギのエスプレッソマシーンでアートコーヒーのstrong blendをデミタスカップに抽出し、キシリトールとクリームを入れ、陶器の匙でかきまわす。
気づいてみるとティッシュの箱がいつのまにか二つ空になってしまった。
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いつごろからか、送信者不明のショートメールが迷い込むようになった。発信者番号が非通知になっているので、誰か分らない。最初のうち番号が見えることもあったので履歴には残っているが、それでも誰かは分らない。というより同一人という保証はない。
内容はかなりとんちんかんだ。私には理解できないくスケジュール変更の通知やら、ありがとう、ちょっと待って、とか、事故にあったとか……。知らないひとが間違えて送っているのかと思っていたが、これほどつづいて送りつづけるというのは変だ。気味が悪い。そして、今日、私がひげを剃ったことが書いてあるメールが届いた。
ひと違いではないのだ。憤りを覚えてきた。卑劣そのものだ。自分は正体をあかさず、ひとに嫌がらせをし続ける。これもネット社会が生んだ人格の崩壊だろうか。
アメリカのインターネット無料サービスを少し試してみた。例えばこの日記のもくじについている(下の方にあります)カウンターだ。bravenetという会社のカウンターだが、統計の種類が半端ではない。シェイクスピアや冬泉響のホームページにつけているwebhitsという日本の会社のカウンターも毎日、毎週、毎月の統計がグラフで見られて結構便利なのだが、bravenetのは、ページ閲覧の総数の他、初めて訪れたひと、再び訪れたひとの総数、そして、その内訳(24時間以上経って再び訪れたひと、と、24時間以内に再び訪れたひと)といった具合にやたらに詳しい。もちろんこれらの数値はすべてグラフでも示される。そのほか、訪れたひとが使っているブラウザの種類、OS、画面の解像度も分るし、様々な比較も可能だ。全部で20近い統計が提供されている。
何のためにこれほど詳細なデータが必要なのかとも思うが、可能なものはすべて余すところなく示そうというアメリカ人魂が見えて、頼もしいと同時に、そら恐ろしくも感じる。何でも世界一でなければ満足しない民族の一端をのぞいた気がするが、その一方でホームページのサービスは奇妙に粗雑で、これもまたヤンキーのご愛敬かとも思った。
衆議院選挙速報にくぎ付けだ。筮竹で自民230議席を占うと乾為天(上も下も天)と出た。昇り詰めた龍の相だ。これをどう読むか?今回は安定だが、昇った龍は下るしかない。現在、未決定の議席はあと90数議席、これがどう決するか……。
そんなきな臭い話はさておき、ちょっと気になる発言が与党からも野党からも聞かれた。「(小泉首相の)パフォーマンスだけの政治はもうやめにしよう」「野党のパフォーマンスにかき回された」云々。
パフォーマンスをいやに低く見積っている。ここに政治家の志の低さが伺える。見てくれではなく、大切なのは中味だ。確かにそう言われればおおかたの日本人なら賛成するだろう。だが、ちょっと待て。その中味はどうやって伝わるのだ。もっと突詰めて政治を考えて欲しい。どちらにせよ結局は密室のやりとりを前提に政治を考えてはいまいか?みてくれは二の次、中味が大事ということは、よく考えてみれば分るように、どこか知らないところで政治が動くということを意味する。
パフォーマンスはみてくれである。しかし、パフォーマンスを大事にする精神は公開を前提にする。信頼も裏切りも公開される。そういうパフォーマンスに責任を取る政治の時代になったのではないだろうか。
いい天気だったがあすは雨だという。 晴でも曇でも雨でもない中途半端な天気のように11月8日は中途半端に過ぎていった。私はかぎりなく宙ぶらりん。宙にかかり風鈴だ。いや風鈴はもう季節外れだ。気づいてみれば秋は深く、私の風鈴はどこへ行ったのだろう。 渾身口に似て虚空に懸り 東西南北の風を問わず
道元禅師の師、天童如浄の風鈴の偈だ。道元はそれに和して
渾身これ口にして虚空を判じ 居ながらにして起す東西南北の風
と歌った。傑物の禅問答だ。宇宙いっぱいに風鈴が鳴っている。シズカナリ、カギリナクシズカナリ……
くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ(会津八一)
2003年11月07日(金) |
究極の舞台〜二分法のあいだ |
二つの舞台がある。
1)あたかも現実がそこにあるかのような舞台。いわゆるスタニスラフスキー・メソッドの実現だ。映画やTVドラマでは今でも重要な表現様式だ。
それに対して
2)能の象徴主義(それを多様化した形では歌舞伎、人物より、すがたを重んじた形では舞踊)。
私が追求めている舞台はそのどちらでもない。現実に似せようとした瞬間に舞台は現実に隷属する。象徴を重んじた瞬間に現実は消え去る。舞台という超-現実の境界をそのままにして、その上に、あるいは、その中に、現実を、複製としてではなく新しい現実として生み出せないか?冬の水琴窟はその実験だった。白塗りの顔は単に顔を白く塗ったものではなく、顔の地肌を縁取りとして残し、その上に白い仮面を乗せたものだ。顔は素面であり、同時に、仮面となる。
これを演戯様式にも適用できれば素晴しいのだが。現実からわずかにずれた場所できらめく声と体の星雲。口で言うのはたやすいがいざ稽古場で演戯をはじめたとたんに、何ものかに絡め取られる。泣くからにはもっと見るものがつり込まれるような泣き方であって欲しい。叫ぶからには魂を揺り動かす叫びであって欲しい。
こうした欲求の底にあるのは多くの場合、やはり現実の力だ。現実らしさが私たちを突き動かす。しかし、それでは結局現実の複製を求めていることになる。舞台は複製であってはならない。
だから現実らしいすがたが舞台に(役者の身体に)現れた瞬間に、それを壊す運動が必要となる。全く出さないのではない。出した瞬間に消える、明滅の演出。理想的には出すことが、消えることにつながるようなパラドックス。
要するに、現実を取出す手つきを見せてしまうという超-現実、現実さえもが、舞台の領域にあるという舞台の託宣。しかし、その手つきは誰のものか?登場人物のもの?役者のもの?演出家のもの?それとも……?
まだまだ漂流の旅はつづく。
財布が行方不明だ。身の回りのことに頭がお留守なので、財布は自由気ままに移動する。たしかに昨日(いや、もう日が変わっているので、一昨日)ガソリンスタンドでカードを使ったから、その時点までは持っていた。その後、家から持って出た記憶がない。しかし、家にもない。困った。おーい、かくれんばは終わったぞ。出ておいで。良寛さんに、しないでおくれ!
8時間後、財布は洗面所のかたすみに隠れているところを発見され、この騒動にけりがついた。やれやれ。
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かつて北海道を舞台とした美しいテレビドラマに出演して、私たちを感動させた女優が先日のサスペンスドラマに出ていた。驚いた。この感情を率直に語ることはいろいろな意味で難しい。ほとんど別人になっていた。ドラマがあまりに凡庸だったので見るのを途中でやめたが、見るに忍びなかったというのもある。
原節子という女優は自分を作品として生きた。女優として円熟の頂点にありながら、「原節子」を汚したくないと、突如、引退して、二度と公に姿を現すことはなかった。
いまはそういう潔さを期待することは無理なのだろうか?というよりこの潔さの意味そのものが理解されないかも知れない。
呂律の回らなくなった役者が平然とドラマに出演している。下手を絵に描いたような人間が親の七光でTV最多出演記録を持っているという。この業界には私たちとは別種の常識や美意識が住着くようになっているのだろうか?
とはいえ、現代は老いの時代である。老残などということばはもう死語だろう。だから、からださえ動けば、役者は役者として通用するという考えが制作側にも出演者側にもあっても不思議はない。
しかし、老いてなお、はつらつと我が道を生きるということと、かつての栄光にすがるということは別なことではないか?役者は舞台を汚してはいけないのではないか?役者は芸の限界を知るべきではないのか?
かつて、スイスロマンド管弦楽団にエルネスト・アンセルメという指揮者がいた。最晩年日本にも演奏旅行にやってきた。彼は指揮台まで歩くのもやっとだった。よぼよぼの老人と言ってもいいくらいだった。しかし、指揮をはじめたとたんまったくの別人になった。背筋はしゃきっとして、眼には輝きが見えた。楽団員の信頼も厚かった。老残はそこになかった。彼には音楽が生きていたし、音楽を生かしていた!
しかし、役者にとって、表情をかたちづくる筋肉、ことばをあやつる舌の動きは芸の要である、いのちである。あの女優にはもはや演技のよろこびは生きていなかったし、演技を生かしてもいなかった。あの画面にあったのはやはり老残だけだった。
それでもなお(おそらく本人も自分がもう役者として通用しないと知っているだろう)TVに出演しているということに無惨なものを感じ、画面には現実の苦い味がしみ出して、ドラマはそこになかった。
定期検診を受ける。前橋合同庁舎にて。
胃の検診でいつも思うのだが、合同庁舎ビルのビル風吹きすさぶ駐車場で毎年結構長い間待たされる。11月の風は寒い。しかも胃のレントゲンのためにみな薄着で来ている。それを知っているのに改善しない健康づくり財団とはどういう役所だろう。こんなことは受付がちょっと気を利かせればできることではないか?所詮、役所は役所でしかないということだろうか。これが空っ風にも耐えなさいという群馬の健康観なのね、と寒いため息を付きながら番を待った。
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