浅間日記

2004年12月30日(木) 年の終りに日記考

明日は山の家へでかけるから、今年の日記はこれでおしまい。

WEB日記というものが果たす役割は、本当に面白いと思い、
またそれを楽しませてもらった一年だった。

自分にとって書くことは、際限がなく楽しく、知的な作業である。
多分、多くの方々にとってもそうであるように。

それと同時に、この公開型の日記というものは、
自分以外の人が主張をもって存在するのだ、という当たり前のことを、
実態をもってよく理解することができた。

色々な方の日記を拝読させていただき、ふーんと頷きながら、
同意できることもできかねることも、−人を攻撃したりするものでない限りは−
皆PCの前でせっせと書いたのだなと思えば、しみじみと自分の中に染み透っていった。

そういう沢山の主張とのつながりは、自分が自分である以上逃れられない、
ある孤独感のようなものを、少し和らげてくれるような気がした。

皆様、どうぞよいお年をお迎え下さい。



2004年12月29日(水) 感知

津波の被害を受けたスリランカ南東部のヤラ国立公園というところでは、
野生動物の死がいが発見されておらず、関係者を驚かせているそうだ。

以下記事より
…同国最大の鳥獣保護区である同国立公園には、ヒョウや数百頭の野生のゾウが生息しており、
今回の津波では、沿岸から3キロ内の公園が洪水状態になった。
 ところが奇妙なことに、ゾウはおろか、野ウサギの死がいもまだ発見されていない。
 政府の野生動物保護の担当官は、「動物には天災を感知する能力があり、
第六感で異変が起きる時を知るのだろう」とコメントしている。
 ヤラ国立公園では、日本人を含む少なくとも40人の観光客が被災した。

天災を感知する能力は、国の防災機関の関係者でも認めるところなのらしい。
つくばへ通うYさんが、「地下になまずを飼っている」と言ったのは、
存外、本当なのかもしれない。



新年会の通知を下さったSさんから、
「独自の生態系を有し全身刺青の裸族がいまだに生活しているという、
スマトラの西に位置する我が憧れの島々、メンタウェイ諸島や
アンダマン諸島はどうなったのだろうーと、
ニュースを見ながら情報が入ってこない僻地のことを思い浮かべている
今日この頃です。」とのコメント。



異変を感じる第六感はおろか、五感さえまともに機能していない、
情けない年末の自分である。
全てが凍てつく寒さがそうさせるのか、日常のせいか。



2004年12月28日(火) 自然災害とカレンダー

未練がましく資料を山ほど詰め込んで、山の家へ行く準備。



インド洋の津波のニュース。
大変な災害を出している。
時々刻々と、報告される死者の数が増えている。
一体何が起きたのか、これから把握されることの方が多いのだろう。
わかっているのは、尋常な災害規模ではなさそうだということぐらいだ。
マスコミも正月騒ぎに惑わされずに、正確な情報を迅速に伝えてもらいたい。



本当に、災害の多い年であった。
しかし、自然災害自体には年の瀬も初めもない。おそらく暦もない。
自然現象のイベントは、100年とか、もう少し大きな時間軸で発生するのである。

だから、自然災害について年の瀬に「締めくくる」ということは、
どだい不可能であり、意味がない。
むしろ、今生じていることを大災害時代の幕開けと理解して、
年初めには、この先も何が起きるかわからないという自覚を、再確認するほうが賢明かもしれない。

自然に対する畏怖は、持っていけないというものではないし。



2004年12月26日(日) 子宝に関する仮定法現在

HとAと、風呂に行く。
明るい日が差す昼間の銭湯は、天国のようである。
白髪の可愛らしいお婆ちゃんが、Aに話しかけてくれる。
長い、色々な人生が織り込まれているであろうしわしわのお腹や乳房を、
Aはじっと見つめている。

ワタシには子どもがいないのだけれどね、あちこちで子どもの絵などを見るのは楽しいですよ、
と言いながら語り始めた中年の女性。

小さい子どもが書いた、ただぐるぐると円を描くだけの絵だの、人形の絵だのというのを、
親というのは慣れてしまって特別意識することもないでしょうけれども、
おじいさんおばあさんが見れば、さぞ愛しいものにみえるのでしょうね、という話。

子宝に恵まれなかったのか、所帯をもつことをあきらめたのか、
一体どういうことで子のない人生を送るに至ったのかはわからないけれど、
人生を長く経て中年に至り、この人はこんな想像力を働かせて、
自分よりもはるかに若い「親である人」に語りかけている。
祖父や祖母というのはこう思うだろう、というところまで思いを及ばせている。
感心すると同時に、このことはとても不思議であり、
私も、その人自身の心の旅を想像してしまう。寂しい時はありましたか、と。



子宝に恵まれないことに向き合う人の、寂しさや苦悩には、
筆舌に尽くしがたいものが、あるのだろう。
あきらめる、と思い切るには、あまりにも重たすぎる。
あきらめない、と願いを続けるにはつらすぎる。
子宝神社というのがあるぐらいだから、これは普遍的な思いかもしれない。

不妊治療については言及するつもりもない。
必要なのは別の人生の選択への希望と救いではないかと思う。

きっと、子を持たない人生の旅路には、何かほかの、
最愛のパートナーや、すばらしい友人達や、輝かしいライフワークなどの
花が沢山咲いているのだろう。
親でない分、神様が幸せと充実を増量してくれているはずだ、
もしかすると、次世代に対する別の重要な使命があるのかもしれない、と、
そう思いたいのである。



2004年12月24日(金) 冬の祝祭日

昔観た「グレムリン」という映画の主人公は、確かユダヤ人の男の子だった。
クリスマスなんて自分とは無縁なんだ、と語る場面があって、
宗教を節操なくチャンプルーにする日本人の私としては、
そういうもんなんだと、かすかな驚きをもったこともありよく覚えている。

その舞台になったアメリカで、「12月のジレンマ」とよばれる論争が
例年になく火花を散らしているのだそうだ。
非キリスト教徒へ配慮してクリスマスの祝祭を慎むべきか否か、というものである。

二万人が参加する、クリスマスセールへの不買運動。
サンタクロースや「ジングルベル・ロック」はOKだが、イエス・キリスト、「きよしこの夜」はダメ。とか、
オフィスで開くのは「クリスマスパーティー」ではなく「年末パーティー」。「クリスマス休暇」ではなく「冬休み」。とか。

民族のるつぼと言われるお国事情か何か知らないが、程度の低いことだ。
アメリカという国全体が、不寛容でヒステリックであるという状態を顕著に現している。
「異教徒に配慮して慎むべきだ」というのは
「異教徒も皆で祝うべきだ」と言っているのと同じである。

いいではないか。何だって。
人々が暖かい食卓を囲んだり、賑わいを演出したり、笑顔になることに
くちばしを挟むものではない。
どんな理屈をもってしても、そういう平穏を妨げる権利はない。
他国の市民に対しても。



「JIROの独断的日記」さんがクリスマス休暇についてお書きになっていた一文が、
印象的である。
クリスマス、そして正月と続く日本の冬の祝祭日の本質が、ここにある。
以下、引用させていただく。

「どこの国でもずっと好況ということはなく、山の時もあれば谷の時もある。今の日本は、明らかに谷底を這っているような状態だ。そのときに無理に力ずくで山にしようとするのが、どだい無理なのだ。もう、いい加減、みんな、くたびれている。
国民全体がしばらく、小泉首相なみにのんびり遊んで、腹の底から笑う。楽しい。気持ちがよい。という感覚を思い出した方がいい。そうすれば、人心が穏やかとなり、エネルギーが充電されて、また元気な日本が取り戻せるような気がする。」

引用終り。

メリー・クリスマス。



2004年12月22日(水) 戦場跡地

ひどい数日間。全部自分の所為である。

戦場跡地のような部屋を、片付ける。
部屋中にちらばっている、ミスプリントを拾い集め、裏面利用箱へしまう。
資料をかき集め、分類してしかるべき場所へしまう。
飲み散らかしたコーヒーやらお茶のカップやみかんの皮やらを、ゴミ箱へ放り投げる。
急遽やけくそで調達した新しいプリンターの箱やら梱包財やらを、細かく刻んで、しまう。
Aが寂しさ紛れに遊び散らかした付箋紙を、使えるものだけ選んで処分する。

大きい付箋紙に小さい付箋紙を貼り付けて、ウサギのようになっている。
あの、馬鹿みたいな夜更けの3時に、小さなAはこれを作っていたのだ。
眠らない私に付き合って。青白い顔をし、どうしていいのかわからずに。


猛烈に反省。



2004年12月21日(火) 船を出そう

駄考はじまり。

子どもへの凶悪犯罪や虐待をする人の分析でよく出てくる、
親との関係や幼少時の経験、そういうものが
大人になってからも、その在り様に大きく影響している、という、
人の見方について

確かにそういう傾向というのはあるのだと思うけれど、
そろそろ飽きてきた。

昔の物語の「呪い」「呪縛」みたいに、それは人生について回るけれど、
だからどうしようもない、というものではない。
むしろそれは、じゃあどうしたいのか、どう生きたいのかを示す
羅針盤として使い続けられる道具でもある。

そこから脱することができないということは、
船が港から出ていないように、人生を生きることができていない。
そこのところが問題だ。

人と出会い、友をみつけ、愛する人を見つけ、
楽しみ、緊張し、喜び、悲しみ、そういう旅の中で、必ず、気付けば
そんな呪いなんてものは、取るに足らないものになっているはずだ。

年齢は人生と関係なく物理的に過ぎていく。
生命が維持されているだけでは人生ではない。

駄考おわり。



2004年12月20日(月) 放心

とにかく仕事を終わらせる。もうこんなのはこりごりだ。

明日は上京しなければ。
気が付くと、もう今年もいくらもない。
焦る。



2004年12月19日(日)

何日も寝ていない。睡眠というのをしていない。
ちょっとやばい感じだ。

そして明日でなんとかけりをつけてしまいたいから、今日も寝ない

こんなこと何日もやったら、どんな風になってしまうんだろう。
ああ、30分でいいから寝たい。



2004年12月17日(金) 童話再び・駄文

Aの寝物語に、ウサギと亀。

居眠りしているウサギの横を通過し、
逆転勝利が確定するまでのカメは、一体どんな気持ちだったんだろう。
私なら、いつ目を覚まして追いかけてきやしないかと、
心臓がバクバクしそうだが。

悔しがるウサギほどには、勝ったカメが嬉しそうにみえない話だから、
結局の処、カメにはどうでもいい勝負だったのかもしれない。



2004年12月16日(木) 狼もいる、母親ヤギもいる

「狼と七匹の子ヤギ」を借りてAに読んで聞かせると、
恐ろしかったのか、私にしがみつき、小さい声で「こわい」と言った。

ちゃんと童話の世界に、こういう教訓があったことを改めて感じる。
子どもを襲う大人は、おそらく今に始まったことではない。残虐性も狡猾性も。

子どもが連れ去られそうになる事件が、私の住むこの街でも発生した。
あちこちに、気をつけましょうと貼紙が張ってある。
子どもの連れ去り事件は今後、警戒すればするほど、
声色を変えた狼のように、より狡猾になっていくかもしれない。



これまで起きた誘拐事件の幼い被害者達は、そういう無防備があったわけではなく、
問題は今後だということを前提に記す。

身内とそうでない者の区別をつけることが、最近の子ども達には困難な時代だ。
そういう訓練の機会が少ないという意味で。

親の付き合いによって、日替わりで変わる周囲の大人達。
レストランやテーマパークの、業務用笑顔。
親しげに距離をちぢめ話かけてくる、テレビ番組全般。

こういうものに、テレビの子役タレントの如く即時に愛想よく振舞えば、
よしとされる評価軸がある。

上手く表現できないが、人間全体に対する信頼感を失わず、しかし
人との適切な距離を図れるという能力は、人生を生ききる上で
薄っぺらな愛想なんかより重要だ。

関係が分からない人は怖い、又は照れくさい、という認識は、
人間は悪であり人は信頼できない、ということとは違うように思う。

そして、何よりも、子どもが心から安心でき、心を開ける親子の関係を
確保すること自体が大切だ。
それが、人との距離を図るための、全ての原点になるのだから。

子ヤギ達は残念ながら狼の狡猾な騙しを見抜けなかったけれど、
美しい声と雪のように白い手足を、母さんからの安心の確証として
判断基準にもっていたことは確かである。



2004年12月15日(水) 追って狂気の沙汰を待て

多忙。

高村薫という作家は、よく新聞に時評を書くのだけれど、
割合自分と意見が一緒であったり、新しい発見があるので、
気をつけてウォッチングしている。

先日は、宅間守の死刑執行についてコメントを寄せていた。
通常は刑の執行に平均8年ぐらい費やすのらしいが、1年という
わずかな期間に執行されたことについて、氏は
「椅子から転げ落ちるぐらい」驚いたという。

他の死刑判決を受けた受刑者に先駆けて執行する理由が明確でない、
ということに氏は疑問と不安と恐怖を記している。
「宅間死刑囚が凶悪であるから特別に早い、と言う理由であれば、
なお恐ろしい」ともの述べている。
そして氏は、この措置を図った国に対して、強い論調で、
執行を早めた理由を示せるものなら示してみろと迫り、結んでいる。

宅間死刑囚の罪の残虐性という要素を溶脱してみると、
今回の執行措置には、「国が気に入らないから殺した」
「他の者が追随すると国のためにならないから殺した」という、
あってはならない方向性が浮き上がってきて、高村氏はこれを見抜き、恐れたのだ。

善と悪の価値観というのは、何かが起きればたやすく引っ繰り返る。
しかし国権が国民に何をし得るかということは、前例が大きな意味を持つ。
ある方向が定まると、にわかには引っ繰り返らない。




2004年12月13日(月) 王様の手料理

新宿で中華のランチを食べたら、米がタイマイでひどい思いをした。
タイマイが嫌いなわけではないし、特別美味い物を期待した昼食ではない。
しかし中華料理の主食としてはどうみても不適当なこの米を、
安いものを出してやれ、という店の判断で喰わざるを得ないことに、
すっかりげんなりしてしまった。
枚挙にいとまがない「嫌な外食」のワン・オブ・ゼムがまた増えた。



農水省が発表した、食料自給率に関するニュース。

今まで数値に反映させていなかった「食べ残し分」を
食料自給率の計算に加味すると
−つまり実際に食べた分で自給率を計算すると−
これまでの40%から16%もアップし、56%なのだという。
この数値は平成10年度の政府目標を大幅に超えているのだそうだ。

誰でもそう思うように、これは外食産業の重要な課題だ。
こんな罰当たりな数値を二度と出さないことを、ぜひ
平成10年度までの政府目標にしてもらいたい。



そして、これはまた、消費する自分達の問題でもある。
食べるという、人間の根本的な部分を支える作業を、
私たちは金を出して他人に委ねている。あまりにも気楽に。
これは食べ残し云々というより人間らしさという意味で危険なのである。

顔の見える人のつくる、心のこもったものを食べる、
自分で作って食べる、皆で作って食べる、
こういう作業の向こうに見えてくる豊かさは、老若男女を問わず
実感する権利がある。

仕事に忙しい昼食だって、握り飯一つからならば誰でもとりかかれる。
米屋で一番高い米を買い、食材屋で一番高級な梅干と海苔で作れば、
かなり上質なのができる。
餌みたいな丼飯屋で化学調味料で舌を麻痺させるものを喰うよりは、
よほど美味しい。

外食は、こうして小金をためておいて、自分という客のために、
作り手がプライドをかけて作り、極上のサービスとともに提供される、
そういう信用できる場面で使おう、とつくづく思うのだった。



2004年12月12日(日) 高尾山

仕入れておいたシャンパンで、Hと乾杯する。
私とHの間にあるいくつかの記念日の、今日はその一つだ。
ありがたいことにAはさっさと眠ってしまった。

日本が国際的に評価されないのは外務省の鹿鳴館外交のせいだ、とか、
佐渡へ仕事に行ったS君は何しているだろうね、とか、
とりとめのない話をしつつ、ふと、結婚して何年になるだろうかね、と、
そういう話題になった。

確か5年だね、と言うと、Hは
その間に俺2回も山に失敗したな、とつぶやいた。
この男は、こんな会話の中でさえ、振り返ることは自分の山なんである。

次はきっとのぼれるよ、と一応言ったけれど、
何だか真っ当すぎるフォローで自分らしくないなと思い、
高尾山にね、と付け足したのだった。



2004年12月10日(金) もう鳩は飛ばさなくていい

男性性というのは、科学的に言うと、女性性を制御された状態を言うのらしい。
つまり、男性性という実態はないのだそうだ。

平和というのも、もしや、殺し合いが制御された状態を言うのであって、
平和という実態はないのかもしれない。

だいたい、平和という言葉がどうもいけない。
別に楽園とか天国じゃないのだ。目指しているのは。
鳩だって飛ばなくていい。
皆ニコニコした新興宗教のような世界でも、もちろんない。

殺したくないのに殺す、死にたくないのに殺される。
自分の生きる権利や生き方を選ぶ権利が脅かされる。
家族や大切な人を傷つけられる。
こういうことを拒否するのが、平和「ボケ」だとしたら、
私は一体何に「覚醒」すればいいというのだ。

残念ながら今の「平和」という言葉からは、
争いを制御するだけの言葉の力を感じられない。
何だか弱者の論理みたいで、使わない方がましかもしれない。
もう少し存在感のある、力強い概念がないものかと思う。



2004年12月09日(木) 宮崎監督のゲルニカ

忙中閑有で、「ハウルの動く城」を鑑賞。
先に見ていたHはあまりよくないと評していた。

木村拓哉が主人公の声を演じているとかラブストーリーとかいう
前評判がされていたけれど、これは、私に言わせると
引きこもりの男が兵役拒否をしている話なんである。
そして、反戦の強いメッセージ。
この作品は、宮崎監督にとっての「ゲルニカ」あるいは「独裁者」なのだ。



軍服を着た兵士達が、家庭や生活を奪い取りにやってくる恐ろしさ。
戦争で住んでいる街を追われるみじめさ。
爆撃で破壊される建物の無残さ。
そして、国家権力にからめとられざるを得ない、人々の自由な生き方。
親子の縁まで利用して懐柔しようとする策略。
こういう場面の人間や風景に、背筋が寒くなる程のリアリティを込めることで、
この監督は、戦争という人殺し行為に対する怒りをぶつけている。
「こういうことなんだぞ、戦争というのは!」と。

多分この人は、気が狂うほど、今の世界に怒っているのだと思う。
作品はストーリーはつながりにくいわ、登場人物の奥行きに欠けるわと、
普通には全く楽しませてくれないから、
もしかすると本当に心身に変調を来たしてしまったのかもしれない。
そんな狂気の中でよくもこの映画を完成できたものだと、作品を見て思う。

一流の表現者が時代に感じ取る臭いを、馬鹿にしてはいけない。
それは一つの能力であり、彼らはいわば炭鉱のカナリヤなのである。



2004年12月06日(月) 充実感は自分だけ

闇雲に仕事する。不夜城なのである。

朝からフルアクセルのため、
起きて30分も経たず、眠たそうな目をこするAに急いで朝食を食べさせ、
お早うも言ってらっしゃいもそこそこに、Hとともに保育園へ送り出す。
Aは文句も言わずに出かけてくれたが、その後のがらんとした家で、
何だかすごく寂しくなってしまった。
こういうのはもう今回だけにしたいと反省。



2004年12月05日(日)

Hは取り立てて料理が上手いというわけではない。
どちらかと言えば、かなり自己流で、見栄えからいくと
料理と言っていいのかためらわれる一品が出来上がることもしばしばなのである。

でも、この人の腕にかかる食材の幸せなところは、
ピーマンならピーマン、人参なら人参が、
ちゃんとその香りを際立たせてもらえるところだ。

私が作るよりも、台所でものすごいいい匂いがするんである。不思議だ。



2004年12月04日(土) 売った覚えのないものを買い取られている話

個人情報保護法案というのは、その法律名の後ろに隠れてあまり知られていないけれど、
個人情報を企業の経営資産として活用する、という前提がある。
だから経済産業省も管轄省庁になっていて、ルールを守って活用しましょう、などと行政指導している。

Aが未だ赤ん坊だった頃には、書籍から干物に至るまで、
ネットで色々なものを調達した。
実に便利だと思ったけれど、書籍ひとつ、干物ひとつ手に入れるために、
顔の見えない相手に氏名や住所やら年齢まで伝えなければならないことが
馬鹿馬鹿しくなって、よほどの場合以外は、やめてしまった。
商品が安かろうが何だろうが、その取引には自分の個人情報を買い取られる、というプロセスが潜んでいるからだ。

件の法律では、個人情報を他の営業に活用すること、グループ企業などで使いまわすことが、ちゃんと断ればやっていい、とされている。
だから、干物を買っただけなのに、マンションの営業リストに載る可能性だってある。

しかもこの法律では、一旦登録した情報を、当事者の依頼で抹消・変更する場合には、
そのための事務手数料を設定してよい、とされている。
利用してほしくないから消して下さい、という場合に、手数料をとられるんである。


自分の個人情報が、どこに登録されて、どういうリストで活用されているのかのトレーサビリティが確保できないのは、とても気持ちが悪い思いだ。
何が、個人情報「保護」法案なものか。

そのうち絶対に、こうして公然と流出してしまう一切の個人情報を
リセットする、「掃除屋」のような代行サービスができるに違いない。
できるものならば自分がそういう事業を手がけてみたいぐらいだ。



2004年12月03日(金) 義援金の配分

朝作っておいた弁当を食べながら、新聞に目を泳がす。

中越地震の被災証明を巡って、不満が続出しているらしい。
義援金は、「一部損壊」だと5万円、「半壊」だと最大で185万円と差が大きいのだが、その判定を不十分だとする人が多い。
判定は、建物の外観調査でまずスクリーニングをかけるらしい。



損壊の実態というのは、正確に把握することが望ましい。
今後の建築技術や防災技術、土地利用計画に反映させる、貴重なデータだ。

しかし義援金の配布はそれとは別だ。寄付した者の思いがこもっている。
行政の予算や保険の査定と同じように、お役所的に配分してほしくない。
大変だったですね、怖かったでしょう、という寄付者の応援の気持を、
等しく住民の方に分け与えられるよう、もっと知恵を絞って欲しい。

個人的には、高齢の一人暮らしの方、小さい子どもを連れた方、
家族を亡くされた方など、そういう「状況」に対する想像で寄付をしたので、
その思いが反映されるように、配分して欲しいなあと思う。


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