2001年02月21日(水) |
続。(記:2007.11) |
父が倒れてからの私たちは、連日のお見舞いはもちろん、父の会社の清算や実家の転居などに日々忙しく動き回っていた。
会社は今後父が完全復帰する見通しもたたない状態では経営の維持などどう考えても不可能なため清算の決断をし、従業員さんや取引先にも事情を説明して私が事務処理に奔走。
また、並行して父がリハビリ病院を退院してからのことを話し合った。 当時の実家は門の手前に段差があり、玄関までも砂利がしいてある上に家の中のどこもかしこもバリアフリーに非ず。兄のマンションはというと、駐車場が立体のため階段を使用しなければならず、家の中は多少バリアフリーでも兄家族4人(当時)の4LDKでは、父母が同居するにはあまりに狭すぎる間取り。 それでも兄としては自分が面倒をみると意固地に言っていたが、現実問題として甚だ厳しいのは目に見えていた。
そこで登場したのが救世主・私の夫。同じマンションの同じフロアに二つ所有していた部屋のひとつを提供してくれることになった。実家は処分し、母だけとりあえず先に引っ越しをして、父の退院準備をすることになる。
父が転院して瞬く間に半年が過ぎようとしていた。 リハビリ病院からの退院の日が近づくにつれて、今度は様々な手続きが待っていた。
介護保険利用の手続き、障害者手帳の申請、玄関、トイレ、風呂のバリアフリー工事。
退院前に病院側が居住先のチェックをして細かく指導するのだが、それに従って業者に工事を依頼しなければならない。
・玄関はこの位置のこの高さにどれぐらいの長さの手すりをつける。(右手しか使えない父が、出入りしたり靴の着脱をするのに必要な手すりの位置や高さがあるらしい) ・玄関には膝が直角になる程度の高さの安定した椅子かベンチを設置する。 ・トイレは入るときと出るときに必要な手すりをつける。 ・風呂は高さのあるスノコをオーダーして入口との段差をなくす。 ・風呂には背もたれのある椅子を設置。 ・浴室出入り口に手すり設置。 ・浴槽の横にもL字形の手すりを設置。 ・浴槽の中にしずめて使用する椅子を設置等々。
とにかく父を迎えるには様々な準備が必要になった。 退院後もリハビリを続ける必要がある父の為、本人の希望にそったリハビリ施設を探すがなかなかない。老人用の通所リハのようなものばかりで、機能回復訓練をメインにしたような施設がないのだ。
当時まだ65歳の父は、老化で歩行がおぼつかなくなったようなお爺ちゃんお婆ちゃんと同じ扱いをされるのは不本意というわけだ。 しかし当時、介護保険制度も始まったばかりで、介護保険で利用できるリハビリ施設といえば、痴呆気味のお爺ちゃんお婆ちゃんが利用するような内容のものが多く、通っているのも80歳代の方ばかりだったので、たしかにそれはないだろうと私も思ったものだった。
とにかくいろんな病院をあたってもらった結果 迎えの車は出さない、利用は1時間ということでリハビリが受けられる総合病院に通うことになった。 並行して障害者スポーツセンターにも通って水中歩行訓練を行ったりもした。
当初、通うのには私が車で送り迎えをしていたのだが、私も子供を習い事などに頻繁に通わせていたので時間が合わないこともある。 そんなとき当時は「介護タクシー」が利用できたので便利だった。しかし、それが一年もたたずに利用ができなくなる。(介護保険制度迷走のはじまり)玄関まで迎えにきてくれて、目的地につくまでずっと付き添ってくれるありがたいタクシーだったのに、運転できない家族のいるところはどうするんだ?と憤った最初の出来事だった。
そのうち父もプールで眼病をもらってしまったのを機にプールから足が遠のき、一週間に数度だけのリハビリ以外はなかなか自分から外に出ることがなくなってしまいつつあった。
何か良い手だてはないものかと思ったある日、海浜公園に父と母と私と息子で出かけた折、入り口で係りの人に「セニアカーを利用してみませんか?」と声をかけられた。 セニアカーとは何ぞやと見てみると、車椅子とは違い、しっかりした椅子のついた電気で動く四輪スクーターのようなもの。スピードは歩行速度ほどしか出ず、右手ひとつだけでも操作は可能だった。
試しに乗ってみたら?とすすめ、父も恐る恐る乗車してみたが、慣れてくれば乗り心地もよいらしく満足げ。というか歩くの大嫌いな母のほうが興味津々で父のあとをついてまわっている。
これはいいなあーと父が言うので、これが介護保険で借りられないだろうかという考えが私に浮かぶ。早速問い合わせてみると、可能だと返事をもらった。
介護用品のレンタルは可動式ベッドのみの利用だったので点数も余っており、早速海浜公園で乗ったのと同じようなタイプの大きめの電動セニアカーを借りる手続きをした。
始めは父もいきなりこれに乗って町をうろつくのには恐怖感があったらしく、しばらくは地図帳をながめて道を確認する日々が続いたが、私が何度も車でゆっくり走りながら「病院に行くにはこの道が安全よ」とか「公園はここをまっすぐいったらあるから」などと、道案内をし続け、本人も頭の中でシュミレーションができたらしく、天気の良いある日、公園に行ってきてみると出かけていったのが始まりだった。
出かけてみれば公園には意外とリハビリ目的で歩いている人も何人かいたり、緑が多くて良い気分転換になったり、ベンチに座っていると話しかけてくるリハビリ仲間や年寄り仲間もできて公園に行くのを楽しみにするようになった。
やがて病院へも自分でセニアカーを利用して行くようになり、行動範囲が広がるにつれて、ふさぎ込んだりイライラしていた父も明るさを取り戻すことができた。
リハビリ病院に入院して六ヶ月間もの間、厳しいリハビリを毎日頑張り、日常生活のおおよそは自分で工夫してできるようになったが、それでも左腕はくの字に固くまがったままで、左足は高くあげることができない。
今でも杖をついてゆっくり歩行できるが横断歩道は間に合わない。 風呂にはなんとか自分で入れるが背中はうまく洗えない。
退院して間もない頃は、母もつきっきりで見守っていた。
家の中ばかりにいたら外出するのが恐くなるかもしれないと思い、私も極力外に連れ出した。 人混みにも連れていった。 長い階段のある公園にも連れていった。
はじめは人前でこんな体になった自分をさらして歩くのは嫌だと思っていた父も、孫と一緒ならばとしぶしぶついてきて、到着すれば車から降りてきて、自分で歩けるところや、手すりがあるところなら多少の段差も頑張って歩いていた。
なんていうか やっぱり外にでなきゃだめなんだと私は思った。
障害者だろうが子供だろうが年寄りだろうが 何があろうが家の中ばかりいちゃだめなんだと思った。
人は外を歩くものなんだよなと 父を見てるとつくづくそう思う。
外を歩かなければ危険な目にもあわないし嫌な思いもしないだろうけど 外を歩かなければ人生は一歩もすすめない。
父が倒れてそろそろ7年になろうとしている。 8歳の息子はお爺ちゃんが歩いたり走ったりできた頃があったなんて知らないので、赤ちゃんだった頃の自分を抱いて笑っている爺ちゃんの写真を見るたびに驚いたり関心したりする。
介護保険のことにもすっかり詳しくなってしまった私。 いろんなことがあったけど 夫の助けもあってほんとうに私はいろんなことがクリアできたように思う。
ここに引っ越したときは坂道があるのでどうかなと思ったけれど 父もすっかりセニアカーでの公園通いを楽しみにしたり、リハビリは病院の車が迎えに来てくれたり(これはありがたいことこの上ない!)、介護保険制度は迷走しつつも、なんとかうまく利用して快適に過ごせるようになったし、おまけに今は小さな町なので役場との距離がすごく近く感じられてありがたいのも喜び。
ふと振り返ってみて ああ、あの頃は大変だったよなーと思える今が一番幸せなのかもしれない。
少なくとも今は あの頃の私よりはるかに知識も経験も豊富だから、これから何があっても大丈夫。 何より頼りになる夫だっているし!!!
父は今日もセニアカーに乗って公園にお出かけ。 友達と話して歩行訓練して帰ってくる。 明日は病院のリハビリ。 送迎の人が元気な声で迎えに来てくれる。
64歳で倒れた父、現在71歳。 相変わらず左半身麻痺だがいたって健康、いたって口達者。相変わらず酒好き。 「酒は百薬の長」が口癖。
いい時代だ。 ねえ。
2001年02月20日(火) |
覚え書き的実父闘病記。(記:2007.11) |
2001年2月19日、午前6時半 家の電話が鳴り響く。
母の声 「パパが××病院に運ばれたから。意識がないみたい」
当時父は五人の従業員を雇って仕出し業を営む、小さな会社の代表であり料理長、64歳。 この日もいつも通り午前五時過ぎに起床し、会社へと自家用車で向かった。
自宅から会社までは車で20分。 父はこの車を運転している途中、まず左手に異変を感じたという。 ハンドルを握っている左手が、突然力を失ったように下に落ちたそうだ。 何か変だと思いつつも、このときはまだ意識障害はなく 右手だけで運転を続け、会社の駐車場に車を止めた。
しかし、降りるときには左足も動かなくなっていることに気付き、体を引きずるようにして自力で車を降り、事務所ドアの鍵をあけて自分の机の場所までたどりつくと、まだ自宅にいるはずの母に電話をかけた。
電話に出た母は、父の口調が既に「ろれつがまわっていない」状態だったことに驚き、すぐに救急車を呼ぶように言って電話を切り、身支度をしてタクシーを呼んだ。
だが、母へ電話をかけた父は、そのまま意識を失って机に突っ伏してしまっていた。
それからしばらくして、出入りの業者が品物を持って事務所を訪れた。 机に突っ伏している父に驚き、声をかけるが明らかに様子がおかしいと感じ、事務所の電話で119番にかけて救急車を呼んでくれた。
ほどなく救急車が到着し、ほとんど意識のない状態だった父は最寄りの総合病院に搬送される。 父が運ばれた直後にタクシーで会社に到着した母は、救急車を呼んでくれた業者の方から病院を聞き、事務所から私に電話してきたのだった。
とるものもとりあえず、私と夫と子供で慌てて病院にかけつけると、父は処置室のようなところにいた。声をかけるとわずかに目をあけ「左手がうごかん」と言ったように聞こえた。何かずっと話しているのだが、よく聞こえない。既に麻痺が進んで呂律(ろれつ)がまわっていないのだ。
脳梗塞か、脳内出血だと感じた。
しばらくして検査結果がでた。 右頭蓋内で脳血管が破れて出血をおこしているという。 担当医から、止血剤などの薬を使用して様子を見ると説明された。
正直、これを聞いてこの時は不安になった。 冷静なつもりだったが、のみ込むのに時間がかかったのだ。 すぐに緊急手術などしてドラマチックに助けてはくれないのだろうか。 そういう考えが脳裏をめぐる。
医師が話を続けていた。
「お父さんは血圧が高かったようですが、これまで降圧剤などは飲まれていなかったのですか?」
・・・知らなかった。降圧剤は服用してはいないはず。
毎日早朝から夕方まで多忙で、人にまかせることができず とにかく1日中料理のことと会社のことを考えているような父だった。 楽しみは晩酌と旨い肴と時代劇と相撲。 塩分は控えたほうがいいと母に窘められても 味も素っ気もない料理なんか食えるかと、とりつくしまもなかった。
後に母に聞くと 血圧が高めだということは気付いていたようだったが 俺は健康だけが取り柄、酒は百薬の長とうそぶいて病院には行かなかったそうだ。
もっと私が注意しておくべきだったと後悔の念がよぎる。
医師の説明が続く。
脳内出血の場合、まず出血を止めるのが先だそうだ。 そして父は血圧が高かったので、血圧を下げる薬もあわせて投与されることになる。
よくよく考えれば当然な話である。 脳圧が高い状態でいきなり開頭手術というほうがとんでもないことこの上ない。
父はICUに運ばれた。 完全に意識は無くなっていた。
とにかくここは医師を信頼して任せるしか他無く、それよりも私は会社にいる母に報告しなければならない上に、会社ではこの日に受注が入っている仕出しの用意に、司令塔を失った従業員一同がてんてこ舞いしているわけで。
その日から私は息子を兄貴の家に預け、母と兄と私は会社に入って受注を受けている近日分の可能な仕事を従業員さんたちとこなしていきつつ、不可能と思われる受注をキャンセルする電話を相手先に入れ、次から次に入ってくる注文をことごとく断り、夜に父を見舞いにいくという慌ただしい日々を過ごした。
父が倒れた翌々日、医師から兄の携帯に電話が入る。 手術を考えているのでその説明をしたいとのこと。
仕事を終えて夜、全員で病院へ向かう。 現状は ・父の脳内出血が止血剤を使用しても止まらない。 ・CTをとったところ血腫が増大して脳を圧迫している。 ・意識の回復がほとんどみられない。 ・点滴のみでの治療を続けて意識の回復が遅れると、リハビリに入る時期が遅れる。
そのため脳を圧迫している大きくなってしまった血腫を取り除き、脳圧を下げる必要があるわけだが、その手術方法としては
・頭蓋骨を大きく開いて行う開頭術 ・頭蓋に小さな穴をあけて行う手術(定位脳的血腫除去術) があり(平成13年当時)、患者の負担としては後者のほうが負担も軽く回復も早くて済むがリスクが大きい(血栓除去の確実性に欠ける、突発的なトラブルに対処できない)という説明を受けた。
当然の如く開頭術を希望することにした。 もちろんこれがノーリスクというわけではないのは百も承知だが、一か八かなら確実に除去できる方法が良いと考えたからだ。
翌22日午後より手術が行われることになった。
術名:開頭血腫除去術
正午すぎに手術室に入り、終わったのは夕刻。
術後、取り出した血腫を見せてもらった。 私の拳くらいあった。
その後、意識が徐々に戻ったが、本人は現状が理解できない様子。 後日、この頃の記憶を聞いたがほとんど残っておらず 「夢の中にいたようなかんじ」と言った。
その後は少しずつベッドの上でのリハビリも開始されたが、本人は意識がハッキリしてくるにつれて完全に左半身が麻痺した現実を知り、また寝たきり状態のため紙おむつを使用していることなども恥ずかしかった模様。これぐらい自分でできるだろうと無理に動き、ベッドから転落して看護婦さんを驚かせたこともあった様子。
入院から1ヶ月が過ぎ、傷が癒えてくるにつれてこの病院でのリハビリも本格的になってきた頃、担当医からリハビリ専門病院への転院を進められる。
理由としては ・総合病院のリハビリだけでは今後の生活に必要なだけの訓練が受けられないこと ・専門病院では細かなケアが受けられ、本人の状態や今後の生活の目標などに応じた訓練をしてもらえること
等の説明を受けた。
しかし、リハビリ専門の大きな病院は近くになく 西区のはずれか、柳川市までいかないとなかった(当時)
距離的にも柳川まで私たちが通うのは大変なため、西区のリハビリ病院への転院手続きをお願いすることに。
お世話になった病院を退院する頃には、父も口先だけは軽口をたたけるまでに回復していたが、左半身の機能は何一つ回復しておらず、自力でベッドから起きあがることすら不可能だった。
そして転院の日を迎えた3月27日。 リハビリ専門病院から迎えの車が入院先の病院にやってきた。車椅子ごとリフトで乗り込める車。 ほんの1ヶ月半前までは、早朝の寒さも吹き飛ばす元気さで毎日仕事に励んでいた父。実家で家族全員揃って孫に囲まれ、賑やかな正月を迎えて酒を楽しんでいた父が、今はひとりで起きあがることもできず、看護婦さんたちに身支度を整えてもらい、抱えられて車椅子に乗り移る。 何一つ自分でできなくなった体をいたわり続け、親身になってサポートしてくれた看護婦さんたちに何度も御礼をいい続けていた。
「リハビリ頑張ってね!きっと良くなるから!」 看護婦さんたちが何度も繰り返した。
父は何度も頷いていたが 正直私は 今後、父が自力で何かできるようなるとは この時点では想像してもみなかった。
・・・・。
車で走ること40分。 到着したリハビリ病院は綺麗で明るい建物で、部屋も広々としていた。 廊下も幅があって手すりが両サイドに全てついている。そこを車椅子の人や杖をついた人、歩行器(両腕でもたれて押して歩くようなもの)などで歩く人、手すりをつかってゆっくりと歩く人たちが大勢いた。
年齢も様々だった。
はっきりいって これまで私がまったく知らない世界。
リハビリルームを見学したとき 私の脳裏に入院先の病院の看護婦さんが何度も繰り返した言葉が甦る。
「リハビリ頑張ってね!きっと良くなるから!」
私はその意味が ここへ来て初めてわかったような気がした。
希望が見えた感じがしてありがたかった。
この転院によって父は、みるみるうちに日常生活のおおよそのことが右手だけでできるようになり、杖1本で歩けるまでに回復していくことになる。
※続く
実父急病につき、 しばらくネット休業します。
※病名:高血圧性脳出血
昨日とはうってかわって、 なんかポカポカ陽気だったんで、 車で広い公園にいった。
大旦那は連日の勤労で疲れてんので、 公園に隣接する施設の中にあるサウナにいってもらいました。 ・・・歳だから大切にしましょう。
ここは初めてきた公園。 ウワサで聞いて、 以前から行きたいナーとおもってたとこ。 長い滑り台とかがあったりして、 土曜日ってこともあってか家族連れで大にぎわいでびっくり。
でも、ほとんどが大きい子供ばかりで、 彼のペースで遊ばせるには、 周囲に迷惑かかりまくりー状態。
こりゃ、人の波がひくまで、 散歩してよーぜ、息子よ。
それでもそーとー坂とかあって、 彼には難所ばかり。 結構運動になっていーかんじ♪
よしよし、今度は平日こようねっ。
しばらくしてサウナから出た大旦那登場。 人の波もひきはじめたころだったんで、 安全なスペースも確保でき、 親子三人で公園であそんだりして。
でも、 周囲をみてて思ったけど、 土曜の昼間にお父さんって大変やね!!
公園におったおとーさんたち、 みんな一緒になって遊んでやりよったよ。 子供もおとーさんと鬼ごっこしたり、 「みてみてーーー」って、 自分がしよーことを見てもらって、 すっげー喜んでた。
そーいやあたしも子供の頃、 忙しい中でもたまに公園で遊んでもらいよったなぁ〜。 滑り台こわがっとったら、 一緒にすべってくれたりしよったなぁ。
たいへんやね、大旦那! これからその要求はますます増えてくるぞ?
喜んで自分に向かって走ってくる息子みて、 「俺にこんな日がくるとはおもわんやった。ありがとう」 って言われたけど、 あたしも同じこと言いたいよ。 結婚して家庭もって主婦して育児するなんて、 あたしは他の誰にもそんな感情持てずに生きてきた。
あたしは、 好きな人ができても、 結婚して主婦やるなんて、 冗談じゃないっておもってたような人間。
だからあたしもありがとうっていいたい。
愛させてくれてありがとうって。
2001年02月16日(金) |
なんか寒いんですけど。 |
すっげー寒いんで、 外に出られません。
電話ばっかしてました。
はよ暖かくならんやろかねー?
暖かくなったらどこいくーって話ばっかして、 まるで冬眠中のムシのよーやねー。
春になったら久々に、 能古島にでもいったろかと思います。
どんなところかって?
井上陽水に聞いてくんしゃい
一歳半健診があった。 保健所のやつ。
同じ月に生まれた子たちが大勢あつまってたんで、 いかに自分の子がデカイかというのがよくわかって笑ってしまった。 両親ともデカいんやからとーぜんたい。 スクスクとでかくなっていって欲しいもんだ。
実はここで言葉についてひっかかったけど、 保健所の言うことなのでほったらかしている。 しょーじきいって保健所の健診は、 教科書通りでないとすぐ「おかしい」よばわりする。
うちは英会話教えよーけん、 ワンワンだのブーブーだのって言葉を、 教えたことがない。 かわりにアップルを「アプー」というし、 ウィッチーを「ッチー」という。
しかし保健所はあたしの話を聞いてない。 「ワンワン」と言わないのは「おかしい」と、首をひねる。 おいおい、人の話きけよー・・・。
彼らはどーも「教えなくてもこの歳になるとワンワンというものだ」と思いこんでいる様子。
教えんやったら言わんめーもんって!!タコ!
なんつーか、こーゆー人たちが、 母親を不安に陥れようっちゃろーねと、 つくづく思った。
あたしが「教えてないからです」っていいよーことさえ理解できんよーな人ってことは、 そーとー想像力に欠けた人間ちがうか? 杓子定規でしかモノがはかれんのやろー。
自分の子にケチつけられることが、 こんなにもムカつくこととは思わんやった。
で、あたしがワンワンって言葉を教えるかって?
いやだよーだ!
うちにはうちのやり方があるんで、 それを通させていただきまっさ。
覚えたければ本人が勝手に覚えるくさ。 でもあたしから与えたいものは、 曲げたくないけんね。
人と同じじゃなけりゃ不安なんて意識は、 あたしは必要最低限度で結構っす。
チョコ。 それは買うモノ。
そう、あたしは菓子作りができない。 過去、三回ほどトライして、 ことごとく悲惨な結果を招いたので、 もう二度としないのだ。するもんかってんだ。
つーことで今年は、 息子も食べられるように、 無添加の素材にこだわるというのがウリの、 神戸のケーキ屋から届けてもらった。
Mind Factoryという店の、 ハート型のショコラケーキである。
着替えに帰ってきた大旦那に渡したら、 食べやすいといって息子と二人パクパクたべてくれて、 あたしもご相伴にあずかったら、 けっこーおいしかった。
そーいや友達が来秋、神戸に引っ越すかもしれんといいよった。 ダンナの転勤だそーだ。
神戸か。 このケーキ屋の近くに家借りて欲しいもんだ。
よしっ☆ バレンタインの任務完了!!
ホワイトデーにこうご期待!
火曜日は英会話教室。 この教室は大型ショッピングセンターの中にある。
隣には小学館の幼児教室がある。 半年後にはここにも入れるつもりだ。
それを決定づけるできごとが起きた。 入り口で教室が開くのを待っている母子がいるなかで、 息子好みのかわいらしい子がいたのだ。 英会話教室を飛び出し、 彼はその女の子について幼児教室へ入ろうとしていた。
わかったよ、半年たったら入学できるから、 それまでこの恋はお預けさ、ベイベー。 こっちの教室は二歳からなんだよ。
さて、 レッスンも終わり、今日はなんだか「予感」がしていた。 そう、火曜日はここのシッピングセンターの会員だけ福引きがあるのだ。
最初はスカだった。 先週はボックスティッシュがあたった。
そろそろ商品券がきてもいい頃やん?
買い物をすませ、 列に並んで回してみた。 「カランカラ〜ン!!」と鐘の音♪ 二等の商品券だった。 でも500円。 でもうれしいぞ。
次は一等、2000円目指してがんばるゾ!
うーん、なんてささやかな母の人生。
今日はあいたたた、でした。 鎮痛剤のお世話になりました。 なので大旦那がめっちゃ親切でした。
子供連れて買い物にも行ってくれました。 あらあら親切でうれしいよぅ・・。
でも買ってきたものが注文と違う上に、 非常に予算オーバーでした。
いやいや文句はいいません。 食事も作ってくれたし、 いたれりつくせりでした。
人間、たまに具合が悪いと、 こーやってとても親切にされてうれしいです。 早く回復して元にもどろうとファイトがわきます。
でも、ほんの一瞬、 おもわず明日も痛いと言えば楽かしらん? なーんてことも思ったけど、 おかん、それほどアクマじゃござんせん。
鬼夜叉だけどね。(どっちがいいんだろう?)
やっぱ女って丈夫にできてんだなーと、 夜にはだいぶ回復してた自分に笑いました。
人間がよく働くには、 故障したときにヒシと感じられる家族愛が大事なんだなと、 しみじみ思った鬼夜叉でした。
さ、 明日の朝ご飯は何にしよっかな!
大旦那が帰ってきた。 土産を手に帰ってきた。
開けてみた。
ほほーん?
パーキングエリアで売ってる、 串付きのホカホカ天ぷらではあ〜りませんか!
そう、 鬼夜叉夫婦はたいてい高速道路を使うと、 こうした売店のあるパーキングエリアに立ちより、 必ずといっていいほど、コレを買うのだ。
ん、この味は基山やね!
違いのわかる鬼夜叉。ダバダ〜。 (本当は串に書いてある)
基山PAはうどんもおいしいので好きだ。 でも一味唐辛子に注意。
基山ビギナーは、 これをなにげに逆さまにしてパッと入れようとして、 意に反してドサッと落ちてくる一味に驚き、 うどんを真っ赤に染めてしまう。
そっと斜めにして入れよう。 なにしろこの入れ物には、 ドレッシングが入ってたオレンジ色のキャップの、口のデカいヤツが使われているのだから。
そう、あたしも遠い過去に経験済みv
兄貴の家で目覚め、 身支度をして息子に朝食を食べさせ、 母に息子を頼み、 出かけようとした。
それをみて姪っ子が聞いてきた。 「どこいくの?」
「美容院いってくると」
姪っ子は驚愕した。 「病院!?」
よしよし、そーこなくっちゃ。 基本よ、基本!!
で、予約していた美容院へ行った。
クセ毛の矯正と、 ついでにカットも頼んだ。
ばっさりやっておくんなさい。
いわゆる肩胛骨のあたりまであった髪を、 肩で切りそろえてみた。 なんか若いぞ、おかん!?
クセ毛の矯正(ハビットってヤツ)は時間がかかる。 えんえん、椅子に座って洗い流してを繰り返し、 午前十一時から始まった施術がようやく終了したのは、 午後四時に限りなく近かった。
しかし出来映えには満足だわよv いつもありがとーね♪マネージャー!
で、帰りのタクシーを拾った。 行き先を告げるとおじさんはどの道をとおるか聞いてきた。 しばらく行ってからタクシーのメーターを倒してないことに気がついたようだった。
「いやー、お客さんがあまりキレイだから、うっかり忘れちゃって!」
・・・いいおじさんだ。釣りはいらないよ。
ん?それが「テ」なのか??
姪っ子の四歳の誕生日なので、 兄貴の家に行った。
大旦那が急な用事で再度出張なんで、 ついでに泊まることにした。
息子は久々の訪問ではじめはちょっと警戒していたが、 しばらくすると慣れてしまい、 兄貴の二人の子供たちと遊び始めた。
いやいや、 それにしても三人いるとにぎやかだこと。 あっという間に夜中の一時を過ぎていた。 びっくりしてとっとと寝ることにしたが、 布団にはいってからもまた遊びの時間が続く。
来月三歳になる甥っ子が、 おばあちゃんと一緒に寝るといい、 あたしと息子と母が寝ていた部屋へやってきた。 そして数の絵本を開いて声を出して読みはじめた。 「1、2、3、4、5!」 するとそれを聞いたうちの子が大爆笑。 それをみて甥っ子がまた、 「1、2・・」と繰り返す、 またも息子が大爆笑する。
真夜中の一時、延々それが続いた。 ついにはあたしまでなんだか可笑しくなって、 笑ってしまった。
ホンキで彼らは面白がっている。 何度もこれを繰り返している。
うーん、そういわれれば面白いようなそうでないような。
子供の笑いのツボは、なんだか異次元だったりする。
大旦那がご出張だったこの数日、 すっかり夜更かし三昧でした。
でも明日からまた早起きおかん。 がんばるっす!
明日は兄貴の長女の四歳の誕生日なので、 バースデープレゼントを買いにいくついでに、 息子のおもちゃも買いました。
何を思い立ったのかって?
ジャングルジムが欲しかったのっす。
知育に走るあまり、 どーも手先は器用だが、 滑り台などが苦手なのだ。
いわゆるビビリである。
しかし逆さ吊り逆海老落としもどきは好きだったりするのは不思議だが。
なのでデカイのを買ってみた。 でも重たいのでまだ車のトランクにある。 明日、大旦那に運んでもらおうっと。(不精者おかん)
息子よ、明日からジャングルジムで特訓だ!!
それはさておき、 今日はちょっとだけ衝撃的なことがあった。 なんか異様な風体の兄ちゃんたちが、 うたばんで歌ってるのを、 偶然チャンネルを変えているときに見つけたのだ。
何に驚いたって、全て。 そのうたいっぷりと、 歌詞と、曲にである。
途中から見たのでタイトルはいまもって不明だが、 どーしても目が離せなかった。
名前もあとから知ってこれまたあきれた。
マルコシアスバンプを初めて聞いたときも、 異様な衝撃に感動したが、 これは違う。 その異様さに爆笑しているのだ。
嘉門達夫以外に、 曲を聴いてここまで笑ったアーティストはそうそういない。
きゃつらは侮れない。 あたしはもしかすると、 数日後には、 こやつらのCDを買うことになるのだろうか・・・??
セ・・・セックスマシンガンズ・・・
んー、なかった? 「自分でバンバンやってなさいっ!」なんつーコマーシャル。
焼きそばやったと思うけど。
連日のムカつき事はいまだに続きよーけど、 笑っちゃうことに相手はあまり警戒心がない様子。 もぉバレバレになってるからもぉ何も言わないけどねー。 怒るというより、 ご苦労様とだけ伝えときます♪
さてと。
それにしても博多はずーっと雨でウザいです。 洗濯物がほんっとに乾かないので、 ついに明日は乾燥機を出します。 布団乾燥機が衣類乾燥機になるヤツっす。
ん、 でもウザいとばかりいえない博多の雨。 何しろ福岡って所は慢性的な水不足で、 ヘタに好天続きだと、 夏場になってすぐ断水になっちまいます。
断水は夜からなんで、飲屋街のトイレは大きなポリバケツに水入れて、 ひしゃくで水すくって流さないかんやったりしました。
なんかそれもおもしろかったけどねー。
この数年はそういえば渇水にまで追い込まれたことはなく、 平穏な福岡やったりして幸せなもんです。
水ってありがたいねー・・・ と、思わないとこの連日の雨は、 やはり、やり過ごせません。ええ。
雨女は誰だ!!
え?やっぱあたし?
2001年02月06日(火) |
きょーは気晴らしっっ |
連日ムカついとったんで、 きょーは気晴らしに友達んとこいってきた。 ウダウダしゃべって、テイクアウトのランチ食って、 子供たち連れて公園で遊んで、 しゃべるだけしゃべったらスッキリした。
美容院も予約できそーやし、 仕事の準備もうまくいきよーし、 快調なんで、まぁヨシとしとこう。
でもってどっかのバカがあたしに送り続けよーねずみ講だの迷惑メールは、 ヤツらが把握しとーらしいアタシのアドレスを、 消去、またはあるところへの転送にしたから、まあ解決するやろーと思う。
ウサギとネコとメカは生きているということだけ、 ここに書かせてもらいます。 カメは2匹とも休止です。
そーいや息子の英会話の先生が、 女の先生から、若い二枚目の外人のにーちゃんに変わりました。
紹介して欲しい人は手を挙げるように。
2001年02月05日(月) |
そーかそーか。喧嘩売っとんのやな。 |
たいがいにしとけよ、コラ。 とゆーことでムカついてます。そーとー。
人のアドレス使ってまで何を姑息ないやがらせを?
なんつーか、バカは相手にできんってかんじです。 知られてるアドレスから考えると、 だいたいわかってきたけどね。 喧嘩売るんなら正面切って売ってほしいもんですな。
ネットって匿名なもんだから結局こんなことも起こるってんでけったくそわるい。
ちゅーことで公開したアドレス全部変えます。
メールはしばらくhotmailしか使いませんのでご了承ください。 関係ない人にまで迷惑かけて申し訳ないです。
明日には解決させます。スッキリとね。
バカは相手にできん。 あーゲロうざ。
2001年02月04日(日) |
・・・・・・ムカついてます。 |
今日はいい日やったはず。 大旦那の具合は今朝にはすっかりよくなってて、 外は雨だけど家で別大毎日マラソンみたりして、 西田もいいタイムで優勝できて、 午後から買い物に出かけて、 息子も機嫌よくて、
ほんとにいい日だったはず。
それが一通のねずみ講メールで不快になった。
実はあたしが最初にネットの世界に首つっこんだ頃、 多くの人が出入りいる掲示板に、 安直にも一つしかもたないアドレスを平気でえんえんと公開してしまい、 チェーンメールやねずみ講メール、 その他もろもろのムカつくメールが届いたことがあった。
この一件であたしはアドレスを変えることを余儀なくされ、 自分の無知さ加減を反省したもんだった。
それから最低限の防御策はとってきたが、 それができるようになって次第に不快なメールは届かなくなっていた。
ところが今日のねずみ講メールである。
しかしこの相手はアドレスとフルネームを明記してきている。 ちょっと不可解だった。 これまでのとは何かが違う気がした。
なので、このアドレス宛に問い合わせてみた。 もちろんホットメールで。 すると相手は全く身に覚えがないと驚いていた。 彼のその言葉は嘘には思えなかった。 なぜなら、その人が明記したアドレスは、 プロバイダーのものだったから。
いろいろ情報のやりとりをし、 あたしに届いたメールも送った。 ものすごく驚いていた。そこに書かれた口座番号は、まぎれもなくその人のものだったから。 やがてあたし以外の人からも、 「警察に届けるぞ」とか、「新聞社に送るぞ」などといった怒りのメールが次々に届いているという。
ものすごく動揺しているようだった。 警察に届けるように言った。 明日いちばんに口座を解約するとその人は言った。 アドレスもプロバイダーも変えるそうだ。
そして私たちはメールのやりとりを終わらせた。
・・・悲しすぎるね。こんなこと。
あたしんとこにねずみ講メールが届いたアドレスは、 ほとんどネット通販の連絡先用にしか使ってないものやったのに、よ。
あたしはこういうことを平気でするヤツが貧しく思えてならん。 しかも今回はそれだけじゃない。 明らかに悪意を持って一人の人間を陥れてる。
・・・頭にきとー真っ最中でした。はい。
節分っす。 うちは毎年豆まきで部屋中豆だらけになります。 今年は息子も参戦して、 鬼のおかんはあいたたた・・・のハズでした。
ところが夕方、 外出から戻った大旦那が鼻水ズールズルで、 ユンケル片手に帰ってきてこりゃ大変。
どーも今朝から風邪っぽいと思ったけど、 鼻風邪になるとはおもいもせなんだ。
ん?なんで風邪にユンケルなんだ? ええ、我が家では葛根湯とユンケルってのが、 風邪薬なんっすよ!
あとは熱燗熱燗〜〜!! それで五時前から晩酌開始。 なぜかあたしもつき合い酒。 ユンケルと一緒に何故か刺身も買ってきとったりする準備万端大旦那。
小一時間ほど飲んで彼は早々に布団に潜り、 「豆まきの時間になったら起こして」という。
豆まきの時間って一体何時だ??
で、我が家では午後10時が豆まきの時間と相成り、 赤鼻になった大旦那が豆をまき散らしながら、 夫婦で「鬼は〜〜そとぉぉっっ」と叫ぶの図。
息子、わけわからず豆追いかける。
無事豆まき終了。 任務を終えた大旦那また布団に潜る。 息子、豆がじゃまくさそう。 おかん、充電式クリーナーで豆掃除。
そーして節分の夜は更けていった。
あたしの気分的には、 「風邪は外〜」なんだけどね。
まあ、 これで我が家の風邪も退散してくれることでしょう。
鬼は一家に一人でじゅーぶん(あたし)
久々に区役所にいった。 婚姻届以来じゃーん?
離婚届けでないことは確かっす。 でも隣で離婚届関連の書類を書いてる人がおったのには驚いた。
「なんで俺がこんな・・・ブツブツ」 彼は書いている間中愚痴っていた。
日本国中で数分に一組別れてるってゆーんだから、 こういう人と遭遇するのもまた珍しくない光景なのかもしれない。( ̄~ ̄;)
あたし? あたしは印鑑登録しにいっただけたい! ヘンな想像しちゃダメダメ〜
そーいや役所の雰囲気が変わっていたのに気がついた。 銀行のように番号札をとって待つようになってる。 ふーん、もぉ行列せんでいいったい。 やるじゃん?役所!
でもって窓口のおばちゃんが、ちょっと勝ち誇ったようにチラシを差しだしながら言った。 「日曜でも天神のイムズで証明書類をとれるようになりましたよ」
へえー。 やればできるじゃん、役所!
支払いのところのおばちゃんは、 とても愛想がよくて子供にも話しかけてくれる。書類を入れる袋までとってくれた。
なんかイメチェンしてんじゃん!役所!!
とても気分良く区役所を出た。 近くのコンビニに入った。 コンビニの店員まで、みなフレンドリーで親切である。 どーしたんだ、役所の近所!!
ニコニコ親切運動でもやってんのか???
コンビニを出てすぐタクシーを拾った。 タクシーの運転手さんに、「近いんですけど」と声をかけた。 「どーぞどーぞ!!よろこんで!!」と、運転手さん。
・・・どーしたんだ、役所の近所を走るタクシーまでも・・・
運転手さんに行き先を告げると、 息子をほめてくれる上に、あたしをいたわってくれる。
みんなして一体どーしたんだぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!! なにかあったのかーーーーーーーっ!!!
ワンメーターだったが、 おもわず「お釣りは結構です〜」と言って降りてしまった。
あまりの役所とその周辺のみなさんの親切ぶりに心温まる午前中だった。
・・・熱いですね!役所!!
さ、競艇見ようっと。
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