日々是迷々之記
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2006年02月28日(火) 二月最後の日

キャセロールにバターを落とし、たまねぎ、人参、鶏肉を炒め、ことこと煮込んでクリームシチューを作った。付け合わせはたまごサラダと、ブロッコリーとチーズのペンネ。かちゃかちゃとドアの開く音がして家人が帰ってきた。おや、今日はシチュー?と言った。

…こんな書き出しだとシチューのコマーシャルみたいでおしりがかゆくなってくる。シチューはいい。わたしはシチューうどんが好きで、一杯目はシチューとして食べて、二杯目はゆでうどんにシチューをかけて食べる。和洋折衷、LOVE小麦粉。

しかし、今日はこれが食べられないのである。明日は朝から腹部エコーと胃カメラの検査がある。今晩9時以降は絶食。まあワインは飲んでいるが。

今日は朝から職場に別れの挨拶をしに行き、近所の総合病院に行った。ものすごいテンションが低く、昨日は結局一睡も出来ずに天井の木目をじーっと見ていた。お腹は空かないし、酒もたくさんは飲めない。病院に行って体温を測ったらエラーが出た。ちゃんと挟んでくださいね!と看護士さんに怒られてまた測ったら、34.1度。もう、ちゃんと挟まないとだめです!と言われて測ったら、やっぱ34.1度。

あら、体温低いのね、しんどくないですか?と聞かれた。そりゃあんた、しんどいから来てるんだけども。3時間くらい待って、診察をしてもらうと「顔色が悪い!」と言われた。お腹を触診してもらうとどこもかしこも痛い。血液検査とレントゲン。そっちは異常がなかった。

では、明日は腹部エコーに胃カメラです。ということになった。胃カメラかあと気が重くなる。以前骨折して入院していたときにやったが、喉が細いのかなかなか入らず胃の中に入れた後もゴキュゴキュ動かされて疲労困憊。その後一日寝込んだ記憶がある。

仕事もいやだけど、病気もいやだなぁ。とまあいつ死んでもいいわいと思ってる割には苦痛は嫌なんである。


2006年02月27日(月) バイクその後。そして恒例の

金曜日は朝からオイル交換をしようと思っていた。が、オイルをそそぐジャグが見あたらない。多分、家人がこないだオイル交換をしたときにどっかにしまったのだろう。相変わらずのマイペース野郎だ。ということで夕方バイク屋さんへ行ってきた。

するとオイルがちょびっとしか出なかった。600ccなはずなのだが大さじ1杯くらい。ガビーン!整備不良じゃん。でも前交換してから1000キロも乗ってないのになあと思った。ちょっと奮発してちょっと高いオイルを入れて貰った。すると今度はオイルが全部入らなかった。ドレインプラグを開けると白濁した嫌な色のオイルがどぼぼと出た。

何かが詰まっていて最初出なかったようだ。しかしオイルが白濁しているというのは水が入っているということであまりよくない。ああ、カブよすまんねぇとちょっと詫びた。機械はしゃべらないからこっちがちゃんと気をくばってあげなくてはいけない。

土日は新潟へスキー。土曜日は晴天で楽しく滑れたが日曜日は朝から雨。私はモチベーションを失い、待合室でずっと寝ていた。対して家人は雨の中びしょぬれになりながらガンガン滑っていた。「そんなに雪、悪くないで。」と言っていたがそういう問題ではなく、雨の中滑るのが嫌なのだ。雨でも滑ろうというモチベーションは一体どこからくるのだろうか。

そして今日月曜日は胃が痛かった。原因のほとんどは週末の飲み過ぎ食べ過ぎのせいだが、これから日常がはじまることも原因の一端だ。今日こそは親の病院に行かなくては。むちゃくちゃ気が重い。

案の定、「あんた何その帽子。」と私のニットキャップを指さして言った。半分死にかけているわりにケチをつけるのは一人前だなあと思った。「さぶいねん。」と私は一言。じゃあ、お金を払って帰るからと言うと、テレビカードを買ってきてという。テレビカードは4日有効で1000円。販売機が1000円札しか受け付けないので手持ちの2000円分だけ買って枕元に置いてきた。「あんた鶴見区に土地を200坪買ったんだってねぇ。」と言われた。どっからそんな話が出てくるのだ。買ってないよ。と一言言った。

これがいつまで続くのだろう。今65歳。あと20年生きてもおかしくない。生きている限り毎月こうやって足を運ぶことになるだろう。生活保護は却下された。

「夢をかなえよう〜♪」という歌詞の歌が待合室のテレビで延々と流れていたが、夢なんて見てもあんまり意味がないんじゃないかと思う。なんぼ月収1000万円、平和な家庭に外車に持ち家だろうが、親が倒れたら一気に負担が来る。つきあいのなかった親族がやってきて面倒の見方が悪いとののしられる。病院におむつは運ばないといけないわ、介護保険料は支払わなければならないわ、人を一人養うというのはとても重いことだ。正直父親が亡くなっていてくれているのでちょっとほっとしている。両方とも同じように倒れて入院していたらどっちも見なければならないからだ。

正直ブラックジャックのドクター・キリコ(安楽死専門の医者)が本当にいればいいと思う。いつか治ってまた自分で働いてという見込みがあるのなら別に入院していても構わないが、正直テレビを見ながら最後を待つだけと言う場合、なんかムダな気がする。

まあこんなことを考えているから「あんたは地獄に堕ちる!」などと母親の妹さんに言われるわけだが。私はもともといい人でも何でもないので天国か地獄かどっちかならまあ地獄の方に行くと思ってはいるのだが。

将来あの人は死んでしまうわけだが、その後の展開も容易に予想が付く。まず顔も見たこともなかったおじさん、おばさんたちが現れて、遺産の話になり(母親は祖母が死んだときに総取りしたらしい。)、何もないというと罵倒されるだろう。そして誰も悲しまない葬式をし、どっかに私が墓を買ってそこに遺骨を納めることになるだろう。そこで再び「あんたは情がない。」とかそういう話になって、ちょっと鬱が入ることだろう。

「まだ起こっていないことで悩むことはない。」というのは家人がよく言う言葉だ。確かにその通りでその場でどうにかしてもたいがいのことはどうにかなるようだ。

33年も生きてきたのに生き方がよくわからない。人生って一体。


2006年02月23日(木) さらば仕事、そしてバイクの日々が来る

朝5時に起きて8時半に派遣会社に電話した。気持ち的にもう仕事はできないとのことを伝えると、そうでしょうね、という感じで受けとめてもらった。もともと向かない仕事を勧めてしまって悪いなあと思っていたようだ。最終日に挨拶に行くのもついてきてくれるらしい。

仕事のことが一段落して私は眠った。夢は見ない。幸せな睡眠。再び目が覚めたのは夕方3時だった。「ああ、もうデータ入力はしなくていいのだな。」と思うと安心する。お茶を飲んでひといきついた。

さて、買い物に行くかと思いつつ、カブの整備を先にしないといけないなあと思った。実は2週間前、家人が自分のバイクを整備していてバッテリーのビスをなくしてしまい、カブから外していったのである。私はなんつー自分勝手やと思いつつ、別のバイクでバイク屋さんに行き、ビスをもらってきたのである。

家人は少しは悪いと思っているらしく、俺が付けておくから、と言いつつ平日は帰るのが遅いし、週末はバイクで出かけてしまう。ということで可哀想なカブはバッテリーのカプラーを外されたままさびしく駐輪されていたのだった。

よっこらせと買い物の道具とヘルメット、そしてもらったビスを持ってカブのところへ行く。カブは5年目だが、バッテリーは買ったときのまま。一度も開けたことはない。10円玉でカバーを外して10ミリのスパナでバッテリーケースのカバーを外してカプラーを接続。そして元通りにカバーをかぶせてキックを蹴る。7回目くらいでやっとエンジンがかかる。元々バッテリーが弱っているのでこんなもんか。なんとなくすまないねぇという気持ちで断機をする。

実はカブを手放そうかなと思ったことがあった。VTR250を買って、そっちばっかり乗っていた時期だ。元々カブはかなりブレーキがしょぼいので荷物を積んだときなどはブレーキングにかなり気を遣う。危ないからもう乗らんときや、というのが家人の意見だ。まあそれも正しい。確かにカブのブレーキはしょぼくて、何度もリアがずるずると流れた経験がある。しかし私は、そのたんびにカブってしょぼいなと思うよりは、カブにはカブの走らせ方があるのだなあと思ってきた。急ブレーキは御法度なのだ。

しかし、灯油、5リッターのペットボトル入り焼酎などを買うときはカブでないとだめだ。一度歩いて灯油を買いに行ったことがあるが、帰りに手が死にそうになった。

買い物に行って、カゴ満載のたべものを買った。もちろん焼酎5リッターも鎮座している。ついでにホームセンターに行って、オイル交換用の廃油を入れる箱を買った。明日は会社に行かなくていいのでプチ整備日なのだ。

家に帰って手を見た。昨日の晩、クリームで手をマッサージして、マニキュアまで塗ったというのにもうガビガビになっている。いやはや。塗り直しは苦手なので剥がして終わりだろう。バイク乗りの女子はどうやってその美を保っているのだろう。

明日オイル交換とタイヤの空気圧チェックをしたら、月曜日はどっかに走りに行こう。距離は長いほどいいような気がする。あったかいほうへ。


2006年02月21日(火) こわれもの

今日も5時前に呆然と目が覚めた。

・耳の裏のリンパ腺が腫れて熱ぼったい
・背骨の両脇が傷む
・お腹下し歴10日
・不眠気味(一時半に寝て五時前に目が開く)
・食欲不振(コーヒー一杯で胃がもういいよ、と言う)

これは何なんだろう。何かに対する体のサイン。そう考えると月末を待たずして仕事からは手を引いた方がいいのかもしれない。

「逃げちゃだめだ。」なのか「私がいなくても替わりはいるもの。」なのか、いやはや。

仕事に備えて「エスタロンモカ」錠剤を買ってきた。経験上、これを一時間おきにコーヒーと飲むと意識がはっきりしてくる。まあこれは正しい飲み方ではないのだが。カフェインの作用だ。しかし、心の奥の方はぼんやりしているのだが。機械みたいな仕事をするには必須だ。

でも、ここまでしなきゃいけない仕事ってやはり私には合ってないのかもしれない。

ループだ。思考がぐるぐる。


2006年02月20日(月) 私の替わりはいるもの

某アニメからの引用。それは現実だ。

今やっている仕事を月末で辞めることにした。私が体調を崩すほど取り組んでも、望んだ成果物が得られないとのこと。数年前なら自己のふがいなさに「何でだぁー!!」と奮起していただろーが、今回はほっとした。

本来この課の英文レポーティング業務に応募したのだったが、年度末ということでタイムカードの整理という急ぎの仕事があるので、最初にそれをやってから英文の仕事に移る約束だった。しかしまあタイムカードの整理とはぶっちゃけエクセルにタイムカードの刻印時間を入力するだけで、やりがいもなんもない。しかも押し忘れ、二重押しなどが多く、(人によっては半年くらい押してなかったりする)そんなデータを入力して統計上のどんな意味があるんだろと思ったり。

しかも地獄のような入力環境だ。いまさらPen3のウィンドウズ98マシン。だるまのような湾曲したモニタ。目が疲れて就業二日目にはコンタクトレンズが入らず、めがねで出勤したくらいだ。

そんな中でもわたしは自分が選んだ仕事で誰かに押しつけられたわけじゃないからと黙々とためいきをつきつつも仕事を続けていた。そこにだめ押し。他社からの派遣の女性から仕事が遅いとのクレームが室長に伝わり、室長は私のとなりに座っている。疲れた目を休めるため下を向き目を押さえる私。「そんな姿勢で仕事できるんですか?」と強く言われた。寝ていると思われたようだった。デルの薄型ワイヤレスノートを使ってる管理職に私の気持ちはわかんないだろう。

ここまでくると後は疑心暗鬼のスパイラルだ。室長はわたしのことを注視し、別の派遣会社の女性はこのプロジェクトの後、社員になるとかならないとかでテンションが高い。そしておのずと私を見る目が厳しい。私はいやな監視下でくだらないデータ入力を黙々と続けた。

しかし体は悲鳴を上げた。熱が出て咳が止まらない。一週間もお腹をこわしたまま。口内炎ができまくり、口角が切れて血が出る。そして、今朝睡眠薬を飲んだのに3時間程度しか眠れず病院に行って来た。先生は一時的なものだから、薬は増やしてくれなかったが、あなたにその仕事は向いていないですよ、きっと、と言ってくれた。

安心した。誰かにやめていいと言って欲しかったんだなあと思う。中学生じゃないんだからと思うが、私はそのへんの管理がヘタだ。いつも期待に応えようとして自滅する。その先に待っているのはねぎらいではなく、罵倒叱責であるのがこの世の中だとわかっているくせに。

今日は早く寝よう。できるだけ長く。


2006年02月19日(日) わるい夢

眠っていたら「さあ、払って頂きますよ。」と言って請求書を持ったおっさんがドアを乱暴に開き、妹や母親の制止を振り切り部屋の奥までやってきた。

という夢を見てわたしはもう二度と眠れないような気がした。枕元の時計を見るとまだ5時前だ。

別にこんなリアル借金取りが来たことはない。小学生の頃、月末に飲み屋の人が父親がツケでこんだけ飲んでるんだけど、と請求書を持ってきたりしていたが。

しかし、「いきなり変な人がくる」というのはよくあった。祖母が呼んだ新興宗教のお坊さんが来たり、大阪市の教育委員会が来たこともあった。我が家は私だけが苗字が違っていたので、高校受験の時に府立高校を志願していた私が越境入学をしようとして住民票を移したのではないかという疑いを持たれ、夕食時にいきなり変なおっさんが来たのだ。母親は私が娘であることを必死こいて説明していた。

こういうとき子供は無力だと感じた。ナンボ自分だけ苗字が違うことが嫌でも自分からアクションを起こすことはできない。親権者は家庭裁判所が決めることで、子供自身の希望など入る場所がないのだ。

うちの場合は私も妹も父親が親権者になったが、親戚の家に預けっぱなしになって、結果的に母親が引き取ることになった。が、しかし、父親は親権を放棄する気はなかったようで裁判になり、結果的に妹だけが母親が親権者に変わった。私は父親の苗字のまま母親と妹と暮らしていたのだ。

その後、何度か苗字を変えて欲しいと言った記憶があるが、裁判をしないと変えられないし、父親はあんたを手放しはしないよ、と母親は言った。あんたはあの男によく似ているから…。と言うのであった。足のつめ、物の考え方、本ばかり読むところ、怒ると無口になるところ、そのへんが似ていて今思えば母親を苛立たせていたのだと思う。

記憶というのはやっかいなものだと思う。いつもずっと残って自分の意志で消すことができない。頭の中がハードディスクになっていて、想い出はひとつひとつのファイルになっていればどんだけ楽だろう。都合の悪いファイルはさっさと消去していけば能天気なまま生きて行けそうだ。

昨日はバイク屋で友人のお父さんとお会いした。マフラーを交換するためバイクを預けていた友人が、お父さんにクルマで送ってもらって店まで来ていたのだ。十年来の友人なのでフツーなら挨拶でも、と思うのだが、私はちゃんとできなかった。ああ、この子もちゃんと家族がおるんやなと思うととても遠いような気がした。いや、親なんか誰でもいるんだけど、実際に横にいるという絵は私をびびらせるのに十分だった。

親子とか家族とかいうものはこうやって私のなかで重い課題として残っていくのだろう。多分愛なんか本当は存在してなくて、みんな自分のことしか考えてないと思っていたが、実は世の中は愛とか思いやりとかが存在していて、たまたま私の回りだけそういうものが希薄だっただけではないかと感じる。

しかしまぁ、何であんまり好かれなかったのだろう。親は本能として子を守ろうとするもんだが、父親は子供と遊んだりするのは得意だったけれど、育てることからは逃げていった。母親はしょうがないから引き取って、繰り言をため息とともに漏らしつつ、私を育てた。私はそれが分かっていたから気を遣って望まれる子であろうとした。しかし、私は自我を持ってしまい望まれるようにはできなくなってしまった。

今となってはどうするのが一番よかったのかわからない。結果として誰も幸せではないのだから、きっと間違った方向性であったのだろう。こんだけ精一杯気を遣っても「親不孝で地獄に堕ちる」(母親の妹さんの言葉)らしいので生きるのは大変だ。

人生があと何年あるのか知らないが、何となくもうおなか一杯なような、実は何も食べていないような不思議な気持ちだ。


2006年02月18日(土) 哀愁の左えっち

今日、バイク屋の帰りにある信号で停車した。信号が赤だったので。それ自体は普通なのだが、ふと傍らにある看板を見てはっとした。

「左Hお断り。」

そこは右手に特殊な用途のホテル、左手に特殊な映画が3本立で上映している映画館。そこでお断りなんである、「左えっち」が。

これはどういうことなのだろうか。そもそも「左えっち」とは何なのだろう。私は軽く混乱してしまった。後ろのクルマに軽くホーンを鳴らされて我に返り、信号が青になったことに気が付いたくらいだ。

家に帰るまでずっとそのことを考えていた。左えっち、左えっち、それは物なのだろうか、状況なのだろうか。状況だったらそれはあまりよくない方向だ。えっちが左なのだから。いや、これは「左えっち」という物体が存在すると考えるべきだ。Hで始まる単語をいろいろ考えた。ホテル、ホモ牛乳、ホルモン焼、どうもある方向性を持ってしまう。ああいかん。

また信号で止まった。そして再びはっとした。そこのパチンコ屋の駐車場の誘導路の入り口に看板があったのだ。「ハイルーフ、左ハンドル車はご遠慮ください。」おおお!「左えっち」とは「左ハンドル」のことなのだ!

「そんなん、省略せんと書けよなぁ。」と思いっきり他人のせいにして、私は家路を急いだのであった。


2006年02月14日(火) フォーマルという鬼門

人生にはいくつかの鬼門があり、先日そのひとつである指輪についていろいろと考えてみたわけだ。すると各方面からご意見感想を頂き、とりあえずどうにかなりそうである。今回は次の鬼門、スーツについて書いてみようと思う。

私はスーツを持っていない。じゃあ面接とかどうしてんの?と訊かれるが、スーツに準じた格好で、と言われることがほとんどなので、黒のパンツとジャケットとかで適当にごまかしている。そして次にじゃあ冠婚葬祭は?と訊かれるが、実は私は結婚式に出席したことがない。あるといえばあるのだが、外国でしかもカジュアルなやつだったので、ジーンズと紺色のジャケットで十分だったのだ。葬式にしてもしかり。身の回りで誰も亡くなってないのでお葬式も経験がない。子供の時にじいちゃんが亡くなったくらいか。

しかしまあ、このたび結婚式に招かれた。それ自体は喜ばしいことなのだが、着る物がない。面接用でたらめスーツでごまかそうかと思ったが、その結婚する当人に申し訳ない。しかも荘厳なかんじがする寺社仏閣でとりおこなわれるのだ。

冗談で「ジーンズに黒のジャケットでええよなあ。アップルの社長、スティーブジョブズもそういう格好でステージに上がってるし。」と当人にメールしたところ、(^^;)←こんな感じのレスだった。いや、あの冗談さ、はははは!とメールしておいたが、軽くヒヤアセがでた。

一緒に出席する家人は世間的にはまともなおっさんなので、スーツも礼服も持っている。私が、貸衣装でドレスでも借りようっかなーと言うと、うぷぷぷ!ドレスやて!はまるサイズないで!と笑われた。まあそうだろうな。この体型で叶姉妹みたいな格好ができるわけがない。マジで筒じゃないか。

このへんのことを友人に相談してみた。友人一同、スーツと礼服は絶対必要なので今からでも遅くない、作れ、とのことだった。あ、やっぱり…というかんじだ。でも、なんか躊躇してしまう。というのは私はあの裏地というものが好きではないのだ。なめらかな甲虫といったあの肌触り。あれがフトモモに触れたりするとさぶいぼが出てしまう。あとパンストってのも好きじゃない。足の裏がねたねたしてくるのが不快だ。ついでにパンプスも避けたい。だんびろ甲高なので幅に合わせると靴がでかくなり、パンプスで甲の部分が十分に覆われず、足の指の付け根が露出してしまうのだ。

しかし女のフォーマルというのは何と脆弱なことよと思ってしまう。あんな靴じゃ走ることはままならず、歩くのすらしんどいし、スーツは動きにくく、ドレスは肩やらチチやらいろんなものを露出して冷えて体に悪そうだ。

それにそんな格好だと財布やケータイをどうやって持てばいいのか分からない。私は普段、財布はジーンズの尻ポケットに入れっぱなしなのだ。スーツは物をしまえるように出来てないので不便ではないのだろうか。

この手の問題は考え出すときりがない。服をちゃんとすれば次は靴、次はバッグ、そして化粧にヘアメイク。どれもこれも苦手な物ばかりが芋蔓式に出てくる。しかも今回ばかりはちゃんとしないと結婚する当人に申し訳ない。

そのリミットは4月15日。私はドレスというものを借りるのか、スーツを作るのか、はたまたパンプスやストッキング、ハンドバッグというものを手に入れるのか?いやはや、その翌週の四国キャンプツーリングのことなど考えている場合ではない。

ピンチですよ!


2006年02月05日(日) 指輪と勇気

昨日の日記を書いた後、私はやはりこんなことではいけないと思い立ち、小雪の降る中、巨大ショッピングモールに赴いた。

目的は宝石屋、もといジュエリーショップである。私はここで勇気を出して正しいサイズを測り、手の造形にマッチした正しい指輪を選んでみようと思ったのである。(あくまで選ぶだけである。財布の中は3000円しか入ってないし。)

まず入店し、カウンターを目視する。20代前半とおぼしきカップルがムフンと指輪を選んでいる。エビちゃんを百叩きにしたような今風の女子はたくさんの指輪を臆することなくとっかえひっかえ指にはめ、芸能人オーラを取っ払った妻夫木くんのような彼氏にどれがいいか訊いている。これが結婚を考えつつある若いカップルの姿のようだ。

指輪と値札を見比べ、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、と心の中でつぶやきながら、どしゃー!36万円。パワーブック買えるし、などと一人脳内ツッコミをやっていたら、どのようなものをお探しですか?とお店の人が来た。

これがよく行くソ○マップなどとは違うのは、店員さんがメガネをかけていないことだ。パソコン系ショップの店員さんてメガネの人多いような気がする。さて、そのジュエリーショップの店員さんは、KABA.ちゃんを若返らせたような好青年だった。威圧感もなく話しやすい。私は正直にサイズを測りたい、どんなデザインが自分の指に合うかわからないと伝えた。膝のうらにたらりと汗をかいたような気がする。

そのKABA.ちゃんはこれまたKABA.ちゃんスマイルで、サイズを測るための指輪の束のようなものを取り出して「こちらでいかがですか。」とはめてくれた。15号、これは指の真ん中で止まった。17号、ふぬん!と鼻に力をこめてはめてはずす感じ、一応入る。18号、するっと入るが手を振ったら飛んでいく可能性もあるなと思った。

よく考えたら21号だったときはデブ全盛期の時だ。回転寿司を20皿くらい食べていたころだ。今は10皿がほどよい。多少は痩せたようだ。

サイズが分かったので、次はデザイン。私は細い物だと指肉に埋もれてしまいそうなので、太い物がいいのかと思っていた。が、しかし、それは逆で、指が短くて、根っこが太いタイプだと、細くて動きのあるデザインがいいらしい。爪が丸くて小さいので、石は小さめがいいとのこと。ふむふむ、専門家の意見というのは参考になる。選んでくれた指輪はそれ単品で見たら、なんか特徴がなくて凡庸だったが、指にはめると一気にわたしの労働者風の手が、女子の手に変わる。

なんかステキやなと思った。女の子がこういうもんが好きな気持ちがちょっとわかった。それを付けてる自分がかわいい気がするんだろうなあ。かわいい子ならなおさらそうなんだろう。齢33にして初めて知る世界だ。

買ってしまおうかこれを、と一つの指輪を見て思った。プラチナで出来ており、小さなダイヤモンドがつぶつぶと楕円形に固まって配置してあり、地味だが上品で成金くさくない。

しかし、26万円なんである。さすがに衝動買いできる値段ではない。今までの人生で20万円以上するものを買ったのは、数回しかない。バイク4台、クルマ1台、パソコン1台。メカものはスペックでその価値を推し量ることができるが、アクセサリーは1000円でも10万円でも言うたもの勝ちではないか。

値段に対する価値が数値化できないものは買うのが苦手である。CDや本は大好きなアーティストや作者さんに対する感謝の対価と思うことで買えるが、化粧品、ブランド物の財布、バッグ、そしてジュエリー関係はその価値がむっちゃわかりにくい。

私は、ちょっと考えてみます、と言い立ち去ろうとしたら、そのKABA.ちゃんは親切にも、「お安い買い物ではありませんからね。また気が向いたら寄って下さい。」とお店のカードに指輪の名前、サイズ、値段を書いて渡してくれた。ありがとう、最初はネタのつもりだったのが何だか申し訳なかった。

そしてその名刺型カードをしまおうと財布を開いた。ビリビリビリ!静かな店内にマジックテープの音が響く。私の財布はアウトドアショップで吊されているような1980円のマジックテープ式三つ折り財布である。こんなもん持ってるやつが26万円の指輪なんか買うわけないよなって、KABA.ちゃんは思っただろう。

本当にスミマセンでした。指輪の前に財布を買うことも必要かもしれないなあと思った。


2006年02月03日(金) 狙うおんな

会社で同僚の会話を小耳にはさんだ。何でも結婚しているのに指輪をしていない人からは「何か」を狙っているような印象を受ける、というような内容だった。

なにか「胸が大きくて金髪だとバカ。」と同レベルな話だな、と思いつつ、私も指輪をしていない。意図してしていないのではなく、ないのである。普通は婚約や結婚などの節目で指輪を購入するようだが、うちは興味のないものにはお金を出さない方針なので、そういったものは最初から買ってないのだ。

しかし、こういうことを人に話すとまるでこいつはジャワ原人かというような目で見られる。特に女性はそういう人が多い。しかし私も社会と接して当たらず触らず、日々のほほんと生きることを望んでいる。なので、形だけでも指輪をするか、と思い立ち、宇宙百貨かどっかで指輪を買ったことがある。

しかし、私の手は分厚くて手のひらが大きく、指が短くて先っぽは細いのに根っこが太い。そして爪が丸い。もみじまんじゅうに長体(いわゆる縦伸ばし)をかけたような形である。そんな指にはまる指輪があるわけでもなく、夜店で売っているようなフリーサイズのやつだった。

店の選択から買う物まで何もかもが間違った指輪選びがうまく行くわけもなく、わたしはあっさりその指輪をなくした。

しかし、私は指輪という野望をあきらめたわけではなかった。一度勇気を出して宝石を売っているカウンターできれいなおねえさんに指のサイズを測って貰ったことがある。その結果は言いたくない。桁が違う。7号の人とかがいることが信じられなかった。わたしの三分の一って、ああいうもんが三分の一ってどういう意味なんだ。要らぬ恥をかいて私はそのカウンターから足早に立ち去った。(しかしこのカウンターも別に宝石屋じゃなくてロフトの1階のアクセサリー売り場なのだ。)

月日は流れ、また指輪を買った。いつか日記に書いた気もするが、チタンを練り込んだ樹脂でできた肩こりの治るという噂の指輪だ。といっても見た目は輪切りにしたゴム製のガス管である。

これはとても結婚指輪には見えないわけで、まだまだ私は何かを狙っているあやしいおんなとして同僚の前をうろうろするわけである。どこかに以下のような指輪があればぜひ情報をお寄せ下さい。

・21号
・結婚指輪に見える
・なくならない
・買える値段

ちなみにサイズは家人とだいたい一緒であることが判明。軽く死んでみたい気分だ。握力が80ナンボの男と一緒のサイズって一体…。


2006年02月02日(木) 何をいまさら

前の日記に書いた仕事に就き、働きはじめて一週間。それなりに忙しく、雑念の少ない日々だった。しかし、今晩その静寂を破るがごとく電話がかかってきた。

かけてきたのは母親の妹さん。奈良県在住のTさん60歳前くらいだ。先日見舞いに行ったら、母親が哀れな顔をして、「お金がないからテレビを見れない…。」としょんぼりしていたとのこと。病院のテレビはカード式で、700円でカードを買い、それをテレビに挿入すると4日間見ることが出来るようになっている。余りにも可哀想なので3万円置いてきたとのこと。

そして、一撃。「なおちゃん、あんた、自分だけ幸せになろうとしたってあかんで。親の恩を忘れたらあかんで。」とのことだった。

「自分だけ幸せに。」なんて思ったことはないのだが、はたから見ると私はそんな人間に見えるのだろう。母親が寝たきりで入院しているのに、見舞いもろくに行かず、放置された母親はお金がなくテレビも見れない。そんな状態にしている私が傲慢に映るのだろう。

反論はしなかった。確かに私は幸せになりたいと思っている。私の回りの友人や家族など、私のことを肯定している人がみんな幸せになればいいと思っている。逆に、邪魔する人に関心はない。母親はこの場合「邪魔する人」の方に入るのが事実である。

「自分だけ幸せに。」なりたがっていたのは母親であり、そのために私や妹を持ち駒のように動かしてきた。思い通りの学校に有無を言わさず入れ、お金を徴収し、小銭を数えて小さな幸せに浸ってきたではないか。それが今帰ってきているだけではないのだろうか。親に捨てられることと、テレビを見れないことのどっちが不幸かよく考えてほしいものである。

私は母親に会うと鬱が入ること、実際に話をしても仕事を辞めて家で面倒を見てくれとか言われるだけでうっとうしいから見舞いには行かないと正直に言った。するとおばちゃんは、自分のところの息子夫婦、娘夫婦がどれだけよくしてくれて、どれだけ幸せか語るのだった。そりゃ普通の親子関係ならそれでいいのだろうが、うちは違うのだ。なんでそれを理解しないのだろう。

別にばちが当たろうが、地獄に堕ちようが、私は母親の思い通り(ダンナと離婚して、母親を引き取り、家で面倒を見つつ、仕事をする)になる気はない。大体、ダンナか母親かどっちか選ばなければいけないという状況が異常な気がする。しかし、実際はそれしかないのである。母親はダンナが気に入らず、未だに「アンタはあの男に騙されている。お母さんが言ってあげるから。」とか言っているし。妹には「大阪に帰ってきて、お母さんと一緒にスナックをやろう。」としつこく言っていた。

腹が立つから病院に行って母親とおばちゃんの目の前で灯油をかぶって焼身自殺でもしてやろうかと思ったがバカバカしーからやめた。そんなことしても今度は妹に私の任務が回るだけで、まさしく「自分の幸せだけを考えている。」状態になってしまう。

今は堰になってわるいものが回りに流れ出さないようにするのが私の仕事かなと思う。「柳に枝折れなし。」と精神科の先生が言ってくれたし。うわべだけはおばちゃんに感謝しているふりをして、適当にやりすごそうと思う。ありがとうございます、すみません、至りませんでした…。それだけ言ってればいいんだし。

私の回りの人たち、幸せになってください。


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