みかんのつぶつぶ DiaryINDEX|past|will
「あ、ミカちゃん?」 この歳になって、こういう呼び方をされると、とっても純粋な私自身になれる感じがするものだ。そして、こんな呼び方をしてくれる人達っていうのは、結婚する前の私を知っている人達、そう、彼の友人達。 相変わらず不機嫌に出た自宅の電話、躊躇しながらその友人は、こういう風に私を呼んで確認したのだった。 訃報だった。彼が青春時代を過ごした白馬で仕事をご一緒していた先輩が亡くなったという知らせ。今月の始めに検査入院してから退院することなく今日、空へ旅立ってしまったという。 スキー場のロッジを運営していた。様々な大学のスキー部員が居候をしながら働いていた。私も三ヶ月間ほど、彼等と寝食を共にし、スキーを教えてもらった。いや、お守りをしてもらっていたと言った方がいいかも知れないかな。だって、みんなはもう大学3年、4年にもなる二十歳過ぎで、私はまだ19になったばかりの小娘だったのだから。その学生達の先輩達もまた、仕事の合間にスキーを楽しみながら居候をしに来たりと、幅広い分野の人々が集まる場所だった。 がんセンターへ入院している頃、それぞれが連絡を取り合い、遠方からも彼に逢いに来てくれた友人達。あの時はまだ、しっかりと会話ができる状態だったから、延々と会話は尽きることなく、同窓会のようになった貴重な貴重な時間だった。 みんなが帰る後姿を見送りながら、死ぬ前に逢えて良かった、と、本音だったのかどうか未だに私にはわからないが、彼がポツリと言葉を落としていたのを憶えている。 まだまだ働き盛りの年齢。心残りもたくさんあるでしょう。 白馬の雪景色、夏の八方尾根、秋のコスモス街道・・・ どうぞ安らかにお眠りください。 いつかまた、そう、いつかきっと、お会いできる日までお別れです。
生きているのが辛いと言った彼。 うわ言のように囁くように弱々しい声で言った彼のその言葉。 しっかりと受けとめることができなかった。 現実に、そのひとに、生きているのが辛いと言われたら、咄嗟に何か気の利いた言葉で反応することのできるひと、いるのだろうか? 脳腫瘍という病気がそうさせているという逃げがあった。 腫瘍がそういうことを言わせているのだろうという都合のいい解釈。 まったくもって勝手な解釈をして、思いやることなんてしていなかったのではないか? 思い出すのが辛いんだ。 でも、思い出すんだね。 生きているから。 娘の泣く声を思い出す。 どんなにか悲しかっただろうかと、今更ながらに心が痛む。 この日々のなかで、きっと思い出すこともあるだろう。 お父さんの笑顔を思い出して欲しいと、密かにそっとそっと祈る。
細々と様態が変化してきてしまった秋の風吹く日々で、病院内を散策することも悲しい切ない時間となってきていたのだった。それまでは会話をしながら文句をいいながら過ごした喫煙所では、ただじっと、日に当たるという行為となってしまい、喫煙するという彼の時間は、必要がなくなってきていた。 全く元気がない様子の彼を車椅子に乗せ歩く日々。 私のなかに広がる不安と焦燥、後悔。 富士山を見せてあげようと思って、行ったことのない5階の食堂へ行って見た。 夕焼け射し込む窓辺へ車椅子を近づけて、富士山が見えるよと声をかける。 見えただろうか、彼に。 車椅子に座ったままでは、見えなかったかも知れない。 黄金色の夕陽が彼の顔を照らし、まぶしそうに目を細めていた。 生きていた。 一緒に。
2001年9月の闘病記をこちらへ転記。かなり鬱。
ひどい耳鳴りを子守唄がわりに寝た次の朝、耳に閉塞感。 この2,3年、耳鳴りとのお付き合いに慣れ親しんでいる日々とはいえ、右耳に続き左耳にも同じ現象が起きたので耳鼻科へやっと受診するという無精者。 鼓膜も外耳も中耳も異常なし。要するに内耳、内因的なものが原因だという結果。 安定剤とビタミン剤、おまけに更年期の症状を緩和する薬を処方されて帰宅。 耳に集まる神経が病んでいるということですか(汗 ストレスを溜めないようにね、という先生の言葉は虚しい響き。 生きていること自体がストレス、仕事へ就くということ自体が緊張、そしておまけの職場での嫌味攻撃は、知らず知らずのうちに身体へ影響を及ぼすほどになっていた。 Sさんの嫌味、聞き流さないで返してみようかな。とか。イヒヒ。 あ・・・胃が痛くなってきた(泣
ここ連日の晴天とは裏腹に、心のなかに広がる暗雲と葛藤する日々。重たい重たい気持ちを引きずりながらの通勤では、電車の中で涙ぐむほど。吹く風の匂いが変化したことへ敏感に反応して、あれこれと記憶が飛び出してくる。脳の役割を十分に果たしているということか・・・。 こういう想いを胸に秘め、私はこれからもこの先もずっとずっと生きて生きて行くのだなと、地下鉄の窓に映る自分の顔を見つめながら考える。自分は幸せなのだと思い込もうとすること自体がバランスを崩している証拠さ、などなどと自己分析。 全てが惰性。生きている意味など無い。生きていることが意味のあること。 残して逝く悲しみ。 キミは、いつも辛かっただろうね。 辛すぎて、言葉にできなかったね。
ああ、またこの季節なんだなあと想う瞬間。富士山が夕暮れの雲をしたがえている姿。 9月は、命尽きる叫びに聞こえる蝉の声と、静かに静かに響き渡る虫の声と。 ひっそりとした町のなかを走るバスで帰る夜道は、とってもとっても寂しくて悲しくて、疲れ果てていた私。 命の炎がゆらゆらと、小さく小さくなってしまっていることを、ただただ他人事のように傍観するしかなく、明日はきっと元気になると、毎日毎日の帰り道に、痺れた神経でただぼんやりと祈るようなそんな時期だった。
がんセンターの玄関横に咲いていた。坊主頭をひねりながら車椅子を押す私に彼が問いかけてきた。 「これはなんていう花?」 花の名前をたずねたキミのいる青空から見つけることができただろうか。 家のそばにも、同じ花が咲いていたんだよ。 これはね、昼顔。
夕暮れ時は、寂しいね。 帰る場所があるひとはいいね。 帰れることのできるひとはいいね。 いいよね。 ね。 夕焼けを見ると、いつもいつもそう想うんだよ。 夕日が染みて染みて、 だからこんなにも心が痛むのか。 痛むそばから感じる血の滲み。 生きるって切ないなあ。 切ないほど愛しいってことなのかなあ。 ねえ、 ねえ、 ね・・・
百年経てば、みんな死んでるんだから。 早いか遅いか、その死に接するか否か。 いつも乗るバスの車内広告には、父の葬儀をお願いした葬儀屋さんの広告があって。その広告には、玄関前でお迎えする霊柩車が写っている。生々しくも、その玄関で父は、ご近所の方々と永久の別れをし、棺を運ぶ人々のなかには彼の姿もまだあり、鎌倉の海岸線を通って火葬場へと向かったのだ・・・とか。思い出すのね。耳に残るは、お別れのクラクション。悲しい悲しい出発の合図。 あのとき、そこにいた誰が、一年後の彼の死を想っただろう。
花を花瓶に挿すと、やっぱり病室の匂いを思い出してしまう。 まるでその風景が唯一の思い出でもあるかのように。 そこにいる人々がどんなに苦しそうな顔をしていても、 そこに訪れる人々がどんなに悲しい想いを抱えていても、 そ知らぬ顔した花がそこにある。 でも、 だからこそ、その命あふれる美しい姿を見て、 病と闘う人々は一瞬の夢へと入る。 この私が挿した花で喜んでくれるのならば、 毎日毎日かかさず花を抱えてあなたの元へ行くでしょう。 たとえ綺麗だと声をかけてもらえなくても、 そっと傍らで咲き散ることの幸せを噛み締めるでしょう。 私のかわりにこの花を。 寂しくないようにこの花を。 明日また、必ず来るという証にこの花を。 そんな気持ちがあったなあ。 メッセージ、ありがとうございます。 うれしいね。幾つになってもうれしい。
みかん
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