みかんのつぶつぶ
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11月という月は、これからもずっと喪に服す時期となるのであろう。私がこの世から消えてしまっても、子ども達へ、そして孫達へ・・・? 子ども達がそれぞれ生涯のパートナーとなる人と出会い、心の旅を落ち着かせてくれることを私はとても望んでいる。まだまだ先のことか、それともすぐのことになるのかそれはわからないが。 そして、父親のことを、自分の視点から素直な言葉で語れるようになって欲しい。そんな気持ちを話してみたくなる人との出会いが、あるといいね。
息子が小さい頃、そう、まだ幼稚園に通う頃は幼児語だった。先生のことも「てんてい」電車は「でんちゃ」しゅんくんは「ちゅんくん」おかあさんは「おかあたん」 当時担任だった先生が、「幼児語が可愛くて可愛くて!先生達のあいだで評判なんですよぉー」なんてこともはばからず言われたり。実家のご近所では、絵本から出てきた男の子みたいねえ、とか。 愛想はそんなによくないけれど、泣くでもなく騒ぐでもなく、どこへ連れて歩いても大人しく落ちついた幼児だった。私の実家では初孫だということと、私の妹二人もいて、それはそれはみんなの世話を受けたもので。 私の父は、娘3人しか育てたことがないから男の子の扱いがわからないと言っていた。そんな私の父は、孫にベタベタしない性質で、きちんといつも孫に「個人」として接していた。そう、孫から見れば怖いおじいちゃんだったんだ。 私は実家へ行くと、それなりに気を遣う。そんな雰囲気が子ども達にも伝わるのだろう、同じく気を遣う。おじいちゃんのあとをついて回りたいが、気を遣う。何か気の利いたことでも言わないと、と思ったのか息子は、ある日盆栽に水遣りをしている父に、 「おじいちゃん、この松は樹齢何年?」 と、いうような質問をしたという。小学校低学年だったか。 松の盆栽が好きな父は、庭一杯に並べている。水遣りをしながら盆栽や草花と対話し、一日の締めくくりとしているようだった。 きっと黙々と水遣りをして、そんな父の背中に投げかけた質問だったのだろう。 居間に入ってきた父がニヤニヤしながらそんな息子の質問を報告する。独特の毒舌を交えながら。「ったく理屈っぽいなあ。父親そっくりだ」 いや、父は一本とられた口惜しさでいっぱいだったのだ。ふふふ。だって、質問に聞こえないふりをして答えなかったというのだから。親父、都合のいいときだけ耳の遠いふりかい(恕
とまあ、こんなことを思い出したりしながら故人を偲ぶ季節があるっていうのも、悪くないさ。
彼が空に旅立ってから、我家の夜に明かりの消えることがなくなった。 部屋を暗くすることができなくなったのだ。息子の部屋も、そして娘の部屋からもドアの隙間から灯りがもれているのを見るのは、とても辛いんだ。うっかりして消さないのではない、毎晩のことだから。明るくて眠れない、のではなくて、暗くして眠れないのである。
息子の部屋のテレビにはガムテープが巻かれている。ぐるぐると。受験勉強に集中するための自分への戒めなのだろう。追い詰められてしまうのは避けたいが、これも息子が選択した道なのだ。
車椅子に乗る父親の姿。自宅を認識できないでいる父親の言動。子ども達には、ショックが大きすぎた。ショックで触れることが怖かったのだろう、そうしているうちに二度と会えないところへ旅立った父親。 あの日常と、夫である彼の状態に麻痺をしていた私は気づくことができないでいた。
神は、私の知らないところで息子へ試練を与えていた。
悲しい。 悲しい。 だけど、明日を生きるために息子は苦しんでいるのだろう。
今日は、娘の十六歳の誕生日。 ちっちゃく生まれて大きく育った娘。 父親似でお父さん大好きな娘。
どうして神さまは、あなたからお父さんを奪ってしまったのだろうね。 きっと、これから出遭うよ、お父さんみたいな人と。見逃さないでね。
危惧していたことが起こった。私は混乱しているらしい。だからどうでもいいことに怒りを発しているのだろうと自己分析。
慣れるということは麻痺するということ。 危険な防衛本能だ。
うちの娘の一発芸、北朝鮮律動運動。これからの宴会シーズンにいいなあ、うらやましい。
そこはかとなく生きている。可もなく不可もなくってこういうことなのかなって、これまで生きてきたなかで初めて味わう感覚。満たされているのか欠けているのかも見分けがつかないってことでもある。
息子と少し会話。第一志望が落ちたらどうするか聞いてみた。浪人するらしい。でも滑り止めの私立は受験するって。なぜだっ!とは、聞かなかった。考えがあってのことだろうし、受験費用がどうのこうのなんて無粋なことは言うつもりはないし、息子に考えて欲しくもないから。ただ、疲れないのかね、と思うんだ。ただそれだけ。
上から見てるんだろうね、みんなのこと。 なんとかつつがなくやってるよ、心配しないで。 それぞれ自分のことは自分で処理できるようになったからさ。
昨日今日と曇り空で。今日は時折小雨がぱらつく秋深き日。父の命日。2年前もこんなお天気だったような気がする。あまり覚えていないが、息をひきとった父の頭上にある窓から見上げた空には、雲が重なる合間から少し朝陽がこぼれていた。
父の死と祖母の事故死と、そして彼の病と死。この2年の間に身近なひとが消えてゆく様を、受けとめながらどこかで区切りをつけようとしながら前へ進もうとしてきた。どこか他人事のようにしながらいる自分をそばに置きつつ・・・
この二日間、発作のようにただひたすら眠る。 人と会いたくない虫が顔を出す。 世間に背中を向けることで現実逃避、どこまでも自分を落とす作業に入る。
お父さん、そちらは快適ですか。 彼やおばあちゃんと会えましたか。 仲良くやっててください。 寂しくないように。
脳腫瘍のページにいらしてくださる方が、彼が行くはずだったホスピスのある総合病院にお勤めの方だった。ホスピスへの入院予定リストにお友達の名前をみつけ、脳腫瘍の闘病記を検索されて私のページに辿り着いたとゲストブックにメッセージを残してくださって。 ありきたりだが、運命の糸、出会う時期だという何かの力を感じた。
一周忌も過ぎ、私のなかでも微妙な区切りがつき始めていることは確かだ。「過去」という「場面」になろうとしているあの日々、彼の姿、私の想い。 ホスピスでのお話しを聞くことで、「今」を見つめる。
午前5時半。 東に朝陽が立ち上り、西には月が浮かぶ。 危ういバランスに鳥肌が立つ。 街灯がまだ消えない冷えた朝方は、懐かしい感覚と共に恐ろしいほどの速さで記憶が巻き戻されてしまう。そうしてまた不安に陥る自分を見つめなおし、この先への見通しをあれこれ考えたりもするのだ。
脳は眠らない。
父が逝って二年。彼が生きていた11月16日という日付けも二年前。去年の今日は、彼は煙になり空へ溶け込んで行った日だったんだ、とか。そんなことを考えながらタクシーの窓から空を見上げて寺へ向かう道瑞には、疲れた様子のススキが揺れている。途中、あまりにも開かない踏切りに苛立ちを覚え、人と会うことが億劫になる癖が顔を出し始めて焦る。このまま帰ってしまいたい衝動にかられるんだなあ。 寺へ着くと入口に妹二人と叔母が私を待っていた様子で。どうやら一番最後に到着する長女という状態。はたと、去年の一周忌にはどうやって寺まで行ったのかさっぱり記憶にないと気づく。あの朝、病室から自宅へ戻り、電車で行ったのかタクシーを呼んだのか・・・とにかくとても冷えた日であったということしか記憶にないのだ。瀕死の夫を病室に残し出席する父の一周忌というシチュエーションは、とてつもなく不幸じゃないのか?とか今更思ったりする。二年続けて喪中のため、賀状も書かずの年末年始。 などなどをぽろぽろと走り書きのように思い巡った一日だった。
三回忌が終わると次は七回忌。4年後、今日集まった誰かが欠けても嫌だなあと思うんだ。みんな元気でいてください。
穏やかな陽射しに包まれた法要でした。
これまでみなさまから温かい言葉を数々頂戴いたしましたこと、あらためてここに御礼申し上げます。まだまだ何かと想うこと多い日々ではありますが、少しづつ、歩みを進めております。健康で病気など知らずに育った私に、こうして何気なく生きていることがどれだけ明るく幸せなことなのかということを教えてくれたのが、脳腫瘍という病気でした。
残された私達が生きて生き抜いてゆくことが、彼への供養だと想う今日という日でした。
2001年11月13日(火)
彼が家に帰ってきました。
午後1時42分 最後の一息を吸いこんで 永遠の眠りにつきました。
やっと、 家に帰ってくることができました。
いま、 静かに横たわっています。
やっと自由な身体になった彼は いま、 どこへ歩いていっているのでしょう。
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ ほんたうにおまへはたつたひとりでいけるのか わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ 泣いてわたくしにさう言ってくれ
11月12日(月)
午後。 呼吸はずっと浅く肩を大きく揺らしながらの状態。 急に喘ぎ出す。 それまで閉じていた目を見開き、顔を大きく歪ませて 口をパクパク激しく動かしながらのたうつ。 このような状態が何度か続き、 その都度ナースコールを押して痰を吸引してもらっていた。
こんなに苦しんでしまうのか。 どうにもしてあげられなくて。 呼吸をもっと楽にしてあげられる方法は術は 看護婦さん達にはないのだろうかと疑問に思った。
午後5時。 また痙攣を起こしはじめた。 痰を吸引してもらおうとナースコールを押す。 まだこないのかといぶかしげな気持ちになった時 その看護婦が入ってきた。 無言で彼に近寄り、おもむろに吸引をはじめた。 あまり痰は出てこない。 そのうち痙攣が治まったので、呼吸は楽になったのだろうと思った。 その時だった。
「モニターには変化はないんですけどね」
その看護婦は、担当の交代をする時間で支度がまだできていないのだろうか、 看護衣のヒモを結びながらこう吐き捨てた。
私は察知した。 モニターの変化はないのだから、むやみやたらとナースコールを押して呼んでくれるなと言いたいのだと。 もしもこの言葉で、私を安心させようとする想いがあったとしても その態度ではこちらには伝わらない。
「じゃあ、どうしてこんな状態になるの?これは痙攣なのか、それとも呼吸が苦しくて喘いでいるのか、わからないから」
私は、怒りを抑えて看護婦へ訴えた。 無言で看護婦は病室から去っていった。
彼の人差し指には、酸素の供給量を示す器械がはめてあり、 その数値が98くらいであれば正常に酸素は体内に取り入れられているということで…
どうしてこんな状態になってまでも 彼はこんな扱いを受けなければならないのか! 悲しくなった。 そして後悔が山のように私を押し潰してきた。 こんなところに置いておいた私が悪いと。
そして、また激しい痙攣らしきものが始まった。 ナースコールを押すことがためらわれ。 酸素を示す数値は98から下がっていない。 しばらく声をかけながら様子を見ていた。 痙攣は、繰り返しおきてきた。 だんだん強くなってきた。 いっこうに治まる様子がないので、ナースコールを押した。
先ほどとは別の看護婦さんが入ってきた。 痙攣なのか呼吸が苦しいのかわからない、と伝えると 担当の看護婦に聞いてみるからと出ていってしまった。
それっきり、看護婦の姿は現われなかった。
待てど暮らせど現われない。 そのうちまた痙攣が・・・ 私は一気になんともいえない怒りと不安の感情で 泣き叫びながら彼の名を呼んでいた。
廊下にまで響いた私の声を聞きつけて 担当の看護婦が先生を呼んで病室へ入ってきた。
その姿を見て、私の怒りが頂点に達した。
「どうして来てくれないの?こんなに苦しんでいるのに! これは痙攣なのか呼吸が苦しくて喘いでいるのかわからないじゃないの! だから呼んでいるのに!どうして!」
泣き叫ぶ私に驚いた医師が、彼のその様子を目に写しながら 「奥さん落ち着いてください、痙攣です、これは痙攣ですから」 と声をかけてきた。 その声で冷静になってまわりを見ると、 ナースステーションから看護婦全員が飛び出して 部屋に集まってきていたのだった。
11月11日(日)
午後3時に病院へ到着。 脳外科病棟のナースステーションの前に心電図のモニターが出ていた。 私は、瞬時に彼の容態が変化しているのだろうと察知した。 病室へ入り、彼に声をかけても反応はなし。 よく眠っている・・・にしても目も開けない? そのうち看護婦さんが入ってきて血圧を計りだした。 声をかけても反応はなし。 午前中、血圧が200を超えたので薬を使って下げたという。 でも、また血圧が上昇してきている。 更に声をかけて反応を確認してみても応答なし。
これは、眠っているのではなくて意識がないのではないの?と 新人である看護婦さんに声をかけてみた。
判断に迷っている様子がみえみえだった。 不安になった。
もう少し様子をみて、血圧が上昇するようだったら先生に連絡をするという返事だった。
いくら呼びかけても目も開けない。 こんなことって、普通じゃないじゃないか。 様子を見てる場合じゃないのでは? 言葉を飲みこんだ。
どうして連絡をくれなかったのだろう。 血圧が上がるってことが、 彼の状態ではどんなに危険なことなのか わかっていないのでは?
そんな想いを抱きながら病室にいた。
宿直の先生が病室へやってきた。 血圧の上昇は頭蓋内圧亢進によるもので…と わかりきった説明だった。 では圧力を下げる処置はしてもらえないのかと聞くと 彼の衰弱が激しいのでそれは無理だと言われた。 はっきりしない回答に痺れを切らしてハッキリと口にしてみた。
これは危篤状態なのですか?
先生は少し押し黙ってからこう答えた。
そうですね。危篤という言葉を使えばそういう状態になります。
・・・
いったい何を言いたいのだろうか。 まるで、こうなるということは理解済みのはずでしょ、と 言われたような気がした。
黙って、静かに見守ってあげるしかないらしいということだけは 理解できた。
2001.11.9(金)
今日は野口英世さんの生誕日だと 今朝、自宅へ戻るタクシーのなかでラジオから聞こえてきた。
血圧が高い。 下が110もある。 多分、痛みがあるからではないかという。
ではなぜ痛いといわないのか?
痛みを感じることもできなくなってきている状態だから。
レベルダウン・・・ 腫瘍膨大・・・
砂時計の 残りわずかな光景が頭のなかに浮かんだ。 その砂のひとつぶひとつぶが サラサラとこぼれていってしまう様を。
旦那さんにとっては幸せなのかもね・・・
看護婦さんが声をひそめて 影に私を呼び寄せて囁いた。
2001.11.8(木)
一昨日、午後3時過ぎに病院へ向かう車中で連絡を受けた。 呼吸が苦しくなったため個室へ移そうと思う、という婦長さんからの電話だった。
酸素をつけられ、涙目になりベッドに横たわる彼の姿を見たとき、 思わず泣いてしまった。
「ほら、奥さんがびっくりしてるから、大丈夫だって云ってあげて!」 担当の看護婦さんが彼に声をかける。
「・・・だいじょうぶ」 かすれた声で彼が応える。
レントゲンの結果、誤嚥による肺炎をおこしてしまったとのこと。
固形物を飲みこみにくくなっていたために、 喉や口のなかに溜まっていたものが、気管に入ってしまいこの事態に陥ってしまったのだ。
吸引してもなかなか痰が抜けきれず、 ゼロゼロしているうちにすぐ呼吸ができなくなってしまう。 誰かが側についていなければ、呼吸不全で死んでしまいそうなのだ。
夕方、先生がやってきて説明を受けた。 気管切開をどうするか、先生との会話のなかで質問された。
「奥さんとしては、気管切開をして、まだこれからも積極的な治療を望まれますか?」
昨日は状態も安定して、嬉しいことに痰が治まると声が出るようになった。 なぜか・・・ これまでの状態は、腫瘍の影響だけではなく、 誤嚥によって食べ物がずっと気管に残っている状態による酸素不足のための意識障害であったのだろう、 それが今回取り去られたことで、呼吸が蘇えってきて意識もはっきりし、発声ができるようになったのではないかと看護婦さんからの説明だった。
・・・色々と指摘したい点はあるが、これについては後日解明することにする。
昨夜と二晩続けて病院へ泊る。
さてさて、子ども達の食事の支度をして、また出かけますか・・・
2001.11.6(火)
ひと雨ごとに 気温が下がってゆくね。 もうすぐ冬がくるよ。
31日から痛み止めの座薬は入れてないとのこと。 痛がらないのはいいけど、どうして痛くなくなったのか? 担当によってまちまちなコメントなので信用性ゼロ。 なので明日先生に確認をとろう。
一昨日、お昼をちょっと過ぎていたので看護婦さんが食事をさせてくれていた。 交代して彼の側に寄った瞬間、便の匂いがする。 あれ?浣腸でもしたのかな?…とあたりを見まわすと、 床にはパジャマとタオルが丸め込んであるビニール袋がバサッと置かれている。 ありゃりゃ、便秘なこの人がどうしてこんなに汚しているのかと不思議に思い布団をめくってみると、 なんと半ズボンをはいているではないか! どうやら汚れてしまって、パジャマのズボンが足りなくなってしまったようなのだが・・・ ベッドに敷いているバスタオルも病院のもの。めくってみるとシーツまで便で汚れている。 なぜ?いったい何があったの?
入ってきた看護婦さんに問い合わせてみたところ、 昨夜から午前中にかけて大量の便が出てしまい、汚れてしまったとのこと。 下痢をしてしまっているのだった。 それはそれはお手数をおかけして…って言葉は出てこなかった。 始末をしてくれるのは有難いが、ベッドからクッションから回りは便で汚れているまま・・・ビニール袋からも匂いが・・・
そんななかで、彼は食事をさせられていたのだった。
「なんだか朝から泣いてばっかりいるんですよー」 ・・・これじゃあ泣きたくもなるだろう(T_T) 私も泣けてきたよ。(T_T)
一体どんな扱いを受けたのか、想像はつくだけに頭にくるのだ。 おまけに汚れたパジャマのズボンは、 ホントに汚れたままビニール袋に押し込んだだけだったし(-_-;) 水で流してから入れておいてくれるものではないんですか????
本当に心底嫌気がさしてきた。
今日もそうだ。 そりゃあイシノさんが世話の焼ける患者であることは理解しているが、 だからって狭い病室でキンキン声を出しながらイシノさんの世話をするのはやめて欲しい。 それでなくてもこちらはずっとイシノさんの雑音に悩まされているのだから。 看護婦さんのその声でヒステリー状態に陥るよ、病室が。
あーーーー神経に障ることが多い病院だことっ
でも。 また救命救急病棟の石山さんが来てくれた。 仕事が早く終わったからといって。
「後になって、あれで良かったのかと後悔することは看護婦でもたくさんあります。 でも、そのときには一生懸命考えたことなのだから、それでいいんですよ奥さん・・・」
ありがたい言葉だった。 救われた想いでいっぱいになった。
たくさんの方からあたたかい気持ちを頂く。病院でもHPでも。
だから、嫌なことがあっても我慢できる。 そんなことに神経を尖らせる自分を恥じよう。反省。
2001.11.3(土)
どこか 海がみえる そんなところに 一緒に 逃げていこうか
朝から泣いているという。
気がつくと 涙があふれている彼の瞳は、 悲しみに濡れている。
どうして泣くの?
そんなこと わかっている。
情けない…
もっと泣いていいんだよ。
雨がしきりに降っている夕方
寒くなったね、 家に帰ろうか・・・ なにかあったかいもの、 つくってよね・・・
叶わない想いを 胸にしまう。
彼の だいじなだいじな一日が また終わろうとしている
2001.11.2(金)
父の誕生日。 去年は豪雨のなか、 ゆみちゃんと一緒に 病院の帰り 父の待つ実家へ行ったのだった。
思えば、 あの日が あれが最後に 父と実家で過ごした時だった。
黄疸が出ていた父を 黄疸も個性にしちゃいなよね、などと いつまでも父が元気でいると甘えたことを… 悔やまれる。
小さくなってゆく父の姿に 別れを予感してしまうことを 払いのけようと必死だったのだ。
3週間後、 あっという間に逝ってしまった父を 泣いても追いかけても もう どこにもみつからない。
67歳、おめでとう。
2001.11.1(木)
今夜は満月だ。
月の満ち欠けが 人間のなにかに作用するという。 なにか。 ナニか。 満月の夜はちょっと不安になる。
私が死ぬ日は、 満月の夜か、 暑い夏の昼下がりか、 ポカポカと日向ぼっこをする真冬の正午か。
なんとなくそんな予感がする夜だ。
さて・・・ お昼は5割ほど食べることができた。 母が来ていたので、 母の声に反応は示すものの 声にならない。 何かを指差すが、どれがなにがかを理解してやれないでいる。
顎髭を剃ってみた。 鼻の下の髭はそのままにして。 このほうが、若々しいから。
アフターシェーブローションをすり込む。 だんだんと病人の匂いがしてきているから。 プールオムのかすかな香り。 少しは気分転換になるかな?
夕食は、3割ほどしか口にできず。 もう、眠くなってしまったのだ。 気持ち良さそうに眠っている。 痛みがないことだけが、救いだ。
夢をみているのだろう。 時々口元が動く。 何を話しているのかな。
眠っていれば衰弱してゆく。 だが、 覚醒すると、 現実が辛く。
誰もが病気になるわけで、 辛いのは彼だけではないのだが、 いくら何でも、 限度っていうものがあるのではないのか?
こんな風に思う私の精神は ちょっと不健康だなあと自覚する。
救命救急病棟の看護婦さんが 仕事を終えた足で、ベッドサイドまで来てくれた。 励ましの言葉を頂いた。
病気になって、 たくさんの気持ちに触れることができて、 彼は、幸せだね。
私も幸せです。
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