みかんのつぶつぶ
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2001年05月16日(水)

どうしても限界に感じてしまう(泣)
ギリギリなんだよなぁ…なんて思われながら
看病されてたら、いやだよねぇ…

落ちてるなぁ・・・
落っこちてもいられないしなぁ・・・

疲れちゃったが口癖の、ものぐさな私
負担が大きいなぁ・・・

でもなぁ・・・

動かなくちゃ
より良い方向を教えてくれる人達に
おんぶに抱っことお世話になりながら(笑)


本日、放射線科診察日。
痛みもなくなり、左足に力が蘇えりつつあり
効果があったと先生が喜んでいた。

まぁ、本人にしてみれば、・・・(-_-;)ってところなんだけど( ̄∇ ̄;)
左手、動かないし・・・ってね。

神経が蘇えるまで、時間がかかるものもあるからね…と先生のお言葉でしたが。


脳外科の主治医に、治験について問い合わせてみた。
残念ながら問い合わせた内容のものは行われていないとのこと。
ここでは免疫療法しか実施されていないという。
一回につき10万かかるんだよ〜〜だって(笑)
変な先生だ・・・

でも、色んな治療法を試してみたいならば
いくらでも紹介状は書くし
話しを聞きに行ってもいいし、
いまはインターネットでもあらゆる情報が
手に入る時代だから
奥さんが、そういう情報を持って、それを選択したいと思うのであれば
それはそれで、僕はいいと思うよ・・・って。

言葉どおりに受けとめようと思う。


2001年05月15日(火)

患者のわがままに、いつまでも付き合っていられないと割り切るか。
患者を取巻く家族には、生活がある。
入院生活と日常生活…
どちらにも関わらなければならない責任が
とても重くのしかかる。

自分を見失わないように、気をつけなければ。

マイペースマイペース・・・(T_T)


2001年05月14日(月)

日記を読み返すとわかる…
ついこの間、いや、その前日までは
お風呂が楽しみで、毎日私の介助だけで入浴できていたのに
もう、看護婦さんにお願いしないと入れなくなった。

介助の必要な患者さんの入浴時間は
基本的には午前中。
お昼に着いたのでは、私は間に合わない。

複雑な気持ちだ。

看護婦さんには、毎日入浴したいとお願いするわけにもいかないし…

だんだんと、私だけの手におえない状態になってしまって…

看護婦さんも戸惑っている。

「治療(抗癌剤)の後、どうしてかガクッと悪くなってしまいますよねぇ…」

そして
この後の治療をどうするかですよね…と言っていた。

・・・・・・

何気ないことが幸せ・・・
当たり前が幸せ・・・
彼は、幸せじゃあないよね・・・


2001年05月13日(日)

車椅子に座る彼の坊主頭が可愛くて
押しながら、ペチペチ叩いてしまう(^^ゞ
後頭部にチュッとして、キスマーク付けてみたり(笑)


夕暮れの喫煙所。
「もう帰れ」
という言葉は、強がりとあきらめが混ざった響き。

連れて帰りたい、
連れて帰って欲しい…

「風が冷たいね・・・」

帰り道、人の波に飲み込まれて歩く私。
この人々のなかに
彼の姿を写す…
この
さわやかな季節、
夕陽を浴びて家路を急ぎ
しっかり前を向いて歩くであろう彼の姿を…

想いを乗せて、電車に乗る


2001年05月12日(土)

ウォークマンで石原裕次郎を聴いている。
だけど、朝から裕次郎さんは、ちと暗いらしく(笑)
他の曲を持ってこいと指示された私。
しかし、忘れてしまったのだった。
失敗・・・
娘と一緒に、駅まで戻って病院から買いに出されたし(-_-;)

今日は、落ちつきのない彼に振り回されて
寝つきの悪い疲れ方をしています(泣)


2001年05月11日(金)

あっという間の金曜日。
昨日の記憶も定かではない自分がいる。

必死に走っている。

思考能力に乏しさを感じるね…
うかつなことを口走ってしまいそうだ。

そんななかでも、良心は忘れないでいこう。

息切れして横たわれることが
どんなに幸せなことか…
そうすることが許されない状況になって
甘ったれた人生を歩んでこられた幸せを
切なくいとおしく感じる。

おかげさま。


2001年05月10日(木)

毎週木曜日は、ボランティアの方達がいらしてくださる。
介護が必要な患者さんの洗濯をしたり
貸出し図書を持って病室を回ったり
ミニコンサートを開催したり。

そんなわけで、午前中は前回お世話になったボランティアさんにお願いして
私はゆっくり午後に病院へ。

今日は、看護記念日ということで
大きな音楽会も催された。

音楽会の最後には
ピアノとフルートの伴奏で「川の流れのように」を大合唱。

美空ひばりさんは、肝臓ガンだったっけ・・・

最後に気にかかったことがあった。

「みなさん癒されたことと思います・・・」

司会者の言葉にピクッとした。
その言いまわしは、やめようよ…って感じ。
見ればわかるでしょ、辛いのよ。
癒してあげるのは、当たり前なのよ。
「癒してあげる」って、簡単に言葉にしないでよ。

・・・ねじれてるかなぁ、こんな気持ち

自然体で付き合っていこうよ。
ただでさえ、悲しい運命を飲みこんで
更に厳しい治療に耐えているのだから・・・

なんだか。
なんだかね。


昨日から、復活した(笑)
元気だし。
食欲は、あんまり無いけれど。
世話がやけるのが、玉にキズだし^^;
尿の管も、昨日抜いてもらえた。
お腹も落ちついているのだけど、便秘になると困るなぁ。
左足は、少しは力が出てきたかな?

「こんな簡単なことができない・・・」

動かない左腕に、こっそり呟いていたっけ。
下を向いて、ボソッとね(T_T)


う〜〜ん・・・疲れました


2001年05月08日(火)

どうしてこんなに苦しめるのだろう。

少しづつ少しづつ・・・

身体が利かなくなってゆく様を
本人に思い知らせるように・・・

精神も現実から離れている。


今日は、朝からバッチリお目覚めモードで
朝食にでた納豆も、美味しくいただけたようだ。

「うん、朝ご飯は看護婦さんと一緒に食べた」

付き添ってもらわなければならない状態を
一番不本意に感じている筈だ。
それをなんとか前向きに、方向転換した考えで保ちたいと思っているのだろう。

「暇だから、一服しに行こうか」

簡単に身動きできれば、何てことはないこと。
だが、左足は力尽きて立っていることは出来ず、
点滴の管と尿の管に繋がれた身体を動かすことは、容易な作業ではない。

この状態を受け入れて、慣れてくるまでに
しばらく私の辛抱の日々が始まるのだ。

整腸剤の作用で、軟便が止まらない。
体勢を変えただけでも出てきてしまう。
オムツを履いてはいるが、始末に追われてしまう。

オムツをつけられ、尿に管を入れられ、車椅子での移動。
この状態を切なく感じてしまったら、
どうにもならなくなってしまう。

経過を把握し受け容れることしか
いまの私には、できない。
きっと治る…そうは思わない。
生きている。
ただそれだけだ。
もう目をそらすことは許されない。

いつ死んでもおかしくありませんよ・・・

・・・・・・・・・・
じゃあ、もっと楽にしてあげて下さい。
身体を全部動かすことができるようにしてあげて下さい。
食べ物も美味しく食べられるようにしてあげて下さい。
お願いします。


2001年05月07日(月)

主治医からの説明によると
寝てしまうのは、薬による副作用である。
通常脳疾患患者には、麻薬を使用することはあまりないという。
コンチンが10mg増えただけでも、大きな作用を起こしてしまうのだ。

抗癌剤は、残念ながら脊髄の腫瘍には効果がなかった。
しかし、小脳にある腫瘍には効果のあとが見えた。

腫瘍は複雑なのだ。

また、一刻の猶予もない事態だと
念を押された。

痛みをとるために、放射線治療に移行する。
夕方、放射線科へ診察に行った。

脊髄全照射を避け、腫瘍のみに照射する方針だ。
照射していない部分に新たな腫瘍が出てくる可能性は高いのだが
あまりにもリスクが高すぎるという。

頭部に照射した状況を、前医の放射線科と相談し
できれば明日から開始する。

ギリギリの線。
頭部照射の際にも頚椎にかかっている。
そこを重複してしまわないように確認するのだ。

マーキングをしてもらい、病室に戻る。

点滴には、ステロイドを再び大量投与。
増えたコンチンも、一定してきたらしく
夕食の時間からやっと、元気になってきた。

泌尿器科からは、感染を防ぐための抗生物質が処方された。
前立腺に炎症があるため。

白血球も著しく減少しており
明日にも、個室に移るようになるであろう。

左足も、とうとう力が入らなくなり
立ちあがることが、できなくなった。

新たな闘いが
また始まるのだ。


2001年05月06日(日)

今朝も電話がかかってこないから、きっと眠っているのだろうと思っていた。
病室につくと、案の定眠っている姿にガッカリしたとたんに、ギョッとした。
尿の管が布団から出ているのだ。

茫然と立ち尽くす私にそっと
看護婦さんが声をかけてきた。
どうやら尿の出が悪くなってしまい、膀胱の形がわかるほど溜まっても出てこなくって
朝9時に急遽入れたということらしい。

夜は、尿意があって尿瓶をあてても出なくって
それで1晩中苦しみ、ほとんど寝ていないという。

ああ・・・・・
とうとう一番嫌がっていた事態になってしまったのかと
がっくりだ。

「死ぬ前には、身を軽くして逝くんだって」

母の言葉を思い出した。
父が亡くなってから、そんなことを話していたなぁと。

3日の日に浣腸をしてもらい、お腹が軽くなって良かったと喜びお風呂に入り、
それからだ・・・眠りに入ってしまったのは。


疲れたんだね。
言葉には出さないけど
どうしても動かない左腕に、
絶望を感じていたよね。

仕事に戻りたいよね。
仕事が気になるよね。
忘れられたくなくて、
焦っていたよね。


頭の中が真っ白になるという経験。
初めてだ。


2001年05月05日(土)

昨日に引き続き、ただひたすら眠る。
食事にも手をつけない…というか
起きていられないのだ。
 
服用の鎮痛薬も効き目がなくなったので
座薬にかわった。

左腕がしびれて痛いという。

最悪の状態だ。


2001年05月04日(金)

なんだか昨日から、眠っている時間が多くなった。
全身倦怠感。
痛み。
朝食の時間が、とっても辛いらしくて電話がかかってきた。

「あ、俺だ。すごくキツイんだ、早く来てくれ」

煙草を吸いに行けなくてキツイのかと思っていたら、
身体はだるいし痛いしでマイッテいた。

朝晩のコンチン以外にも痛み止めを飲まなければいられなくなってきている。
とうとう、一日4錠では効き目が弱くなってきてしまったのだ。

抗癌剤が効いていないのか・・・

ステロイドの量を減らした影響も大きいかも知れないと、看護婦さんが心配していた。
とたんに元気がなくなってしまったからだ。

ステロイドは元気が出て、食欲もわくけれど
テンションが高くなって、普通ではなくなるのよね。
いまの状態は、元気はないけれど
落ちついた雰囲気で、やっと自分を取り戻してくれた感じなのだけれど・・・

これが、本来の状態なのだ。
この危機的状態が・・・

みんな不安顔だ。
本人が、一番不安な気持ちだろう。

なぜこんなにも、だるくて眠いのか・・・と。

去年、父が亡くなる2週間前も、病室でただひたすら眠くって、
寝てはダメだと自分に言い聞かせていた。
必死になっていた。
夏に入院した時に、同じ肝臓ガンの患者さんが
看護婦さんに、○○さん起きてーって
よく声をかけられていたのを知っていたから。
その○○さんは、余命3ヶ月と宣告されていたのも知っていたから。

自分もこんなに寝てしまうのは…って不安でいっぱいだったのだ。


そんな姿を見ていたから、
私もなんとなく、覚悟をしてしまう。
こんなに眠ってしまうのは、癌細胞に負けているのだと。

死んじゃうのかな。
お父さんみたいに。

彼も、そんな想いがよぎっているのだろう。
父を亡くした私達姉妹と、血の繋がらない母との関係を案じることを言う。

「みんな仲良くやりなよ。家族なんだから。
つまらない意地張って揉めるのは良くないよ。
長女のお前が、お父さんの代わりにならなくちゃダメだよ」

普段は何も、口を出さないのに。
知らぬ顔でいるのに。
無関心な態度なのに。

「お互い、思いやりを持って行かなくちゃ」



早く元気になって
お説教してよ・・・


2001年05月02日(水)

昨日は、息子が学校帰りに病室へ来た。
私は、一足先に帰ったあとだった。
どうやら、夕食後の一服にまでつき合わせたらしい(笑)いや、息子いわく、「いさせられた」だそうだ。

息子に車椅子を押してもらって、たいそうご満悦だったらしく
看護婦さんや、同室のOさんにまで

「立派な息子さんがいらっしゃって…」

と、感心された。

しかもOさんたら、お宅は立派な息子さんが『二人もいらして…』だって(汗)
あのぉ・・・一人は娘なんすけど・・・( ̄∇ ̄;)


彼の様子が、どうも変だ。
何が、という訳ではないが、どこか様子がおかしい。


2001年05月01日(火)

世の中は狭いものだな・・・
がんセンターへ来てから、4人の知り合いにバッタリ出くわした。
普段は絶対顔を合わせることはないだろうと思う人に。
しかも、こんな特別な場所で。
病は、万人に共通することなのだと、妙な感心をしてしまう…

今日は、MRI撮影室の前で、見覚えのある巨体が(笑)
ゴルフの先生だった。
知らぬ顔していたのだが、あちらも気がついてしまい、挨拶した。

びっくりだ。
どっと疲れた。
会いたくないよね…ここではね・・・(T_T)


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