この異常なまでの人恋しさは、精神が対話を求めているからではない。 間違いなく、精神が孤独に耐えられないが故に慰めとして異性を求めているのだと考える。
さて、今までのパターンでいけば、この寂しさに負けて周囲を巻き込み、関係の修復が不可能になって、そこから去るという結末になるだろう。現在、あの子に向かっている感情は間違いなく、そのパターンを踏襲している。
過去の自分を越えるにはどうするべきだろうか。
解決策はいくつかある。 まず、自らの浅はかさを知った上で、一人で感情を吐き出して処理をする。身近な誰かを想像しながらオナニーに耽り、とりあえず吐き出してやりすごす。
あるいは、それを悪として、抑え込んでひたすらに耐える。
そして、第三の方法として新しい出会いを求める事も出来る。仕事や住居などの環境を変える事が出来ない現状、新たな人間関係を求める事が唯一の環境を変える方法だろう。そして、おそらく常識的にはそれがもっとも健全なのではないかと思っている。
そう思っている。が、僕がそれを求めるかどうかは、いまだわからない。
対話の重要性を説きながら、他者に対して苛立ちを覚えるのは矛盾しているのだろうか。苛立ちは他者へ向かうとき、怒りとなって攻撃として相手に伝わってしまう。
それでは争いしか生まれない。苛立ちと怒りをもって彼に対するとき、対話による和解へと至る道は閉ざされてしまう。
常識的な見解で言えば、理解を示さない他者との対話の方法を探るのが正解だとう。だが、今の僕にそれを実行できるだけの力があるとは思えないし、それは指導者の仕事ではないかと思う。
では、僕は何をするべきだろうか。 批評の果てに指導者の登場を煽動するべきだろうか。 それは果たして全体主義へと至る道と何が違うのだろうか。
対話のテーブルにつこうとしない他者に対して、粛清を試みたシャアや鉄仮面と、それでも対話を試みた刹那と。人類がいまだ答えを出せない問題に大して、次に目指すべき姿とは何なのだろうか。
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