状況的には竹本や森田のようなのに真山のように振舞おうとしている僕は悪い人ですか?
だから天罰エンジェルラビィなわけですね。
2006年09月15日(金) |
待て、しかして希望せよ |
表題は「モンテクリスト伯」より。
最近よく思うようになったのですが、どうやら僕は年々感情が豊かになっているようです。 昔は感動できなかった箇所で感動するようになったし、とにかく日々の生活の中で感情が揺り動かされる場面がどんどん増えていきます。 作家を目指すなら普通ではいられないと思って自由という名の逃避に身を投じたわけですが、アンテナを張っているぶんだけ多くの刺激をキャッチしているのでしょうか。 あるいは経験がシンパシーの種類を増やしているのでしょうか。 自分より年下の人間を見る機会が多くて、色んな人の中に様々に過去の自分を見てシンパシーを感じます。
そして、みんなは成功を掴んで欲しいと思うのです。 後ろから来るみんなは、いまだにうろうろしているような僕は放っておいて、僕がつまずいた所を上手くクリアーして真っ直ぐに自分の道を歩いていって欲しいと願うのです。 失敗の上にしか築けないような僕の人生ですが、それでも意味があるとすれば、反面教師として参照されることも一つの方略なのではないかと思うのです。 日記の表題に他作品の引用を頻繁に用いるように、僕は創作を参照によって行います。 それは僕を構成する要素が、こんな言い回ししか出来ないくらい、失敗の上にやっとこさどうにか築かれた当たり前なものでしかないからです。 それさえも取り繕えず、普通ではない場面も多々ありますが。 要するに、この失敗とダメの見本市みたいな僕を参照してもらって、僕が犯した失敗を乗り越えてみんなには何かを掴んで欲しいなと思うわけです。
さて、少しばかり話題が転換します。 精神的ダメージの防御方略について。 僕の場合は「基本的に手に入らないと思え」です。 まず、あらゆる成功は手に入らないものと規定します。 つまり、そこをゼロ地点とするわけです。 なにもない状態をゼロ地点とするわけですから、理論的にマイナスになることは出来ません。 よって、僕が受けるダメージは「あったものを失う」のではなく、「手に入りそうだったものが遠ざかる」ということになります。 「手に入りそうだったもの」がたとえ消失したとしても、それははじめから僕の宇宙に取り込まれていたものではないので、僕の宇宙からは何も消失していないことになります。 よって、精神的ダメージの侵入を極力排除することが出来るわけです。 理論的には。
さて、さらに参照をもって論理を補強しましょう。 少女革命ウテナの中で重要なキーワードとして、「想い出」と「永遠」があります。 多くの登場人物が想い出にすがり、永遠をもとめて決闘に身を投じるわけです。 想い出にすがることがなければ決闘に敗れる必要もなかったと言えますが、逆に想い出があることによって決闘に挑むだけの何かを得られたと考えることも出来ないでしょうか? つまり、彼らが抱える想い出は自分が立ち上がるための根拠なり基盤になっているのだと考えられるわけです。 そうなると僕の防御方略は問題点を露出するわけです。 僕の方略で設定されるゼロ地点には本当に何もないわけですから、決闘に赴く少年少女たちのように拠るべき確固たる基盤がないわけです。 もちろん、ウテナでは拠るべき基盤である「想い出」の脆弱性が彼らの儚さを演出していたわけですが、それでも彼らはそれを踏み台にして高く飛ぼうと箱庭の外を目指したわけです。 では、僕はどうやって箱庭の外を目指したらいいのでしょうか。 ゼロ地点には何もないわけですから、何もかも自力で行うしかありません。 あらゆる障害に対して自らレールを敷いて、それが崩れるかどうかも確認できないままに進むしかありません。 この先どうなるのかはわかりませんが、いまのところシャングリラへと通じるレールは完成していません。 まるで賽の河原ですね。
そんな僕でも少しだけ学んだことがあります。 それは、悲観している時間は無駄だということです。 嘆く行為は必要ですが、自らを悲観して悦に入るのはいいかげん無駄だと思えるようになりました。 きっと悲劇を演じることは正しくもないし健全でもない。 そう思えるようになったのです。 無理にマイナスを演じて自分を赦すのではなく、何事もなかったかのように耐えるべきなのだと思うようになったのです。 だから、荒涼とした広大な世界を前に、地平線に葦毛の銀馬を見ながら思うのです。 「待て、しかして希望せよ」と。
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