先日、大阪を訪れていたさい、後輩のWさんと話した。 そういえば、彼女とまともに話をしたことってほとんどないなと思う。 で、そのさい、この人はなんだかKさんに似てるな、と思った。 で、「WさんってKさんに似てるね」みたいなことを言ってみた。 もちろん、後輩たちはKさんのことを知らないので「そうなんですか?」的な反応だったけれど。 思ったことをそのまま言ってみるテストだったのですよ。 それはともかく、僕が言う場合、「Kさんに似ている」=「最大の賛辞」ですから。 個人的に。
まぁ、べつにそれだけなんですが。 他意はないです。 ある場合はちゃんと大袈裟に書きますんで。 まぁ、なんとなく思い出に浸って、こういう娘っていいなぁと思っただけです。
突発企画、第2弾。 好きなセリフ集。
「人気者の条件って知ってる?」 「その場で本音を言わないことよ」 ―逆の経験はあるような気がします 「本当のことを言う奴は疎まれる」
「無能の人ごっこ」 ―ちょっとやってみたい…
「このままでは御手洗の人生の汚点が集まりすぎて汚線になる」
「お互い女には脳の中身で勃つようだね」
まぁ、ぜんぶ日本橋ヨヲコの漫画からなんですが。
2005年06月17日(金) |
感動できることはいいことだ。 |
感動できなら、60過ぎのじいさんになっても青春だ。 人間、感動できなくなったら生きてる意味がない。 みたいなことを兄が言いました。 何か深夜の番組で紹介されていた詩人のおっさんに感化されたようです。
日頃はアメ車を転がしている車屋もどきの兄ちゃんが、なかなか渋いことを言ってくれます。
で、今日、生まれて初めて一人でドライブしました。 仕事が不規則なので平日の昼間。 車にお気に入りのCDを積んで、郊外のパソコンショップや電気屋さん巡り。 ついでに古本屋を巡ったり。 なんか、普通にドライブだな。 と思ったのです。 それがちょっと新鮮で。
この歳になってもこんな新鮮な体験が出来るのだなあ、と感動しました。 感動する、ということには通常よりも敏感だと自負しておりますわたくしですが、まだまだ新鮮な気持ちで体験できることがあるというのはうれしい。
新鮮と言えば、最近やっと乗り始めたTS200Rですが、これのパワーの出方も新鮮だ。 ぐぐ、ぐぁわん!! みたいな? そういえば、前に一度だけ乗ったRM80がこんなパワーの出方をしていたな、と。 かなり鋭角なパワー曲線。 前に乗っていた黄色のストマジ200はそんなでもないような気がしていたのですが。 2stにご無沙汰だったせいか、かなり強烈に新鮮です。 最近はこれで河原を爆走するのがお気に入り。 林道デビューにも興味がわいてきた今日この頃です。 林道アタックしたいなぁ。 でも、たぶんセローとかと一緒にいったら、あっと言う間にミラーから消えてしまうような気がする。 モトクロッサーではないけれど、さすがにエンデューロ。 オフロードを速く走るように出来ているようです。 少しがんばってアクセルを開けると河原でも100km/h出そうなのが怖いです。
去年の電撃小説大賞の受賞者が軒並み30歳前後だった。
30歳前後って、僕ら(エヴァ直撃世代)より一つ上の世代なんですよね。 エヴァよりガンダムに近い世代。 ということは、作り手が完全にエヴァ世代になるのはもう少しあとになるのかと。
ということは、あと5年もすればまた新しいものが出てくるんでしょうね、と自分も当事者ながら他人事のように言ってみる。
好きな漫画のセリフシリーズ。
「いかにもこうゆう屈折した子供が言い出しそうなことなので、私は驚きません」 ―ああ、そういう子供になりたい。
「4ページ6コマ目、説明多すぎ表情でカバー 16ページ3,4コマ目は省略できるはず。 読者はあんたのファンじゃないのよ。 がんばって読んでくれるなんて思わないことね。」 ―その通りでございます。
「…20万じゃ、全然足りない。 すぐに次の描こう」 「読者が読めないマンガなんぞ、いくら作ってもしょうがない。 とっととビジネスの話をしよう。」 ―その本気さが好きです。
「てゆーかあんたもう戻れないでしょ、 こんなの描いちゃったらさあ。」
「描かなきゃ、描かなきゃ忘れる」
「多少絵が変わったところで、私のマンガは変わんないよ。」 ―それが本当の個性だと思います。
「環境も才能だ」
「見せられないもんなんか描いちゃダメだよ。」 「自ら読み手を選ぶとは、思い上がりも甚だしい。」
「怒りの風化は作家の宿命か? スキルが上がるほど、情熱さえコントロールできてしまうのは、 すべてが相対的に見えるからか? もはや神の域だな。」
「言われたことしかできねんなら、こんな商売やめちまえよ! 俺が見てえのはその先だ、その先ィ!! 気が利くってのはなあ、想像力なんだよ! 想像力!! わかるか!? 愛だよ!愛! こなしてんじゃねーぞ、このデブが!」
「本物との差を決定的に分ける一線て、いったい何なんですか!?」 「人格だよ」
「本当に面白いものが描けた時は、 うぬぼれじゃなくわかるものよ。」 ―瞬間でしか感じたことがないです。
「無駄な個性などいらない。 君達は君達にしかなれない。 君達が描く必然がないマンガなどいらない。」
「トイレにいく時間が惜しい。 食事をするのがめんどくさい。 長時間描き続けると震えるこの手が不便だ。 夢の中でもネームを考えられないものか。 いっそ機会の体になりたい。」 ―夢の中でプロットを考えたことがあります。しかも、それを採用したことがあります。
「素晴らしい作品ほど、巧妙に必然の産物だと見せかける。 それを奇跡とも知らず当然のように消費する。」
「なぜこんな無難な作品を書いている。 これはおまえが手クセで描ける集大成じゃないか。」
「こいつの絵…、 俺が思ってたイメージそのまんまじゃねーか。 気が合うとか趣味が合うとかのレベルじゃねえ。 ここまでくりゃ、むしろ機械だ。」 ―そんな相方が欲しい。
「かわいそうになあ。 気付いちゃったんだなあ、 誰も生き急げなんて言ってくれないことに。」
「君にこれから君に必要なのは絶望と焦燥感。 何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、 それでも来るか、 君はこっち側に。」
なんだか今日はG戦場ヘブンズドアの名言集になってしまいましたが。 締めくくりも同作品から。
「上映中の私語はすべての作品への冒涜行為だ。 死ね。」
前回の日記に関して反応があったので続きをば。 話の流れが分からない人はホームページへ行って掲示板を見てください。 では、以下、どうぞ。
それ自体を研究の対象とする統計ではなく、道具としての統計は十分に有効であると僕は実感します。 それは僕が卒論で使ってみた手触りに基づく実感です。 それ以上は今の僕には説明できないのですが。
おそらく問題なのは統計の用法だと思っています。 これを用いる場合、統計的手法と用いる対象の両方を熟知している必要があります。 そこでどちらかが欠けている場合に機能不全を起こすのではないかと。 はっきり言って高校を文系で卒業した社会学系の人間が統計をまっとうに活用できるとは思えません。
ちなみに統計には確認的用法と探索的用法があります。 仮定がある場合が前者、仮定がない場合が後者です。 東浩紀はまず仮定を立てていると言えるので、彼の論理を別の角度から確認する作業があってもいいのではないかと思いますが、それは僕の興味とは離れているので放置です。
僕としては心理、統計的な手法で持って探索できないかと思っていたりします。 「データを取ってみたらこんな結果が出た」 「う〜む、これはどういうことだろう?」 と。 そのとっかかりとして、まずはゲームと言うメディア自体が持つ影響から考えてみるやり方を誰かしないのかな?と疑問に思っているわけです。
ここからは前回の補足的な話になりますが、ゲームのハードについてです。 ソフトは必ずハードに規定されますし、プレイヤーにも影響を与えます。 その点ではパソコンゲームとテレビゲームは決定的に違うのですが。 パソコンは操作に必ずキーボードとマウスを必要とします。
ゲームパッドでプレイできるゲームもありますが、パソコンの操作全体ではキーボードとマウスをどこかで必要とします。 一方、テレビゲームはパッドのみを利用します。 これは決定的な差です。 テレビゲームを寝転がってプレイすることは出来ますが、パソコンゲームを寝転がってプレイすることは出来ません。 パソコンゲームはほとんどの人がディスプレイに正対してプレイしているはずです。
これはそもそも、ユーザーがディスプレイの正面にキーボードを置かなければ使い勝手が悪い、という現在のパソコンの性質がユーザーに強制しているシステムです。 パソコンに関するあらゆる機器は有線である場合が多いため、一箇所に密集、固定する必要があります。 そうなると必然的にシステムの一部であるユーザーも物理的な空間を固定する必要があります。 僕はこれが人間の認識に何かしらの影響を与えていると考えているのですが、それをゲームと関連して研究している人はいないと思います。
例えば視点移動などの肉体的な負荷が作業効率などにどういった影響をおよぼすか、などは基礎心理学の古典的な興味の対象ですが、ことゲームに関してはそのような基礎的な研究さえないような気がするのです。 つまり、外界から物理的な刺激を与え、それが精神的に与える影響について考える、という作業です。 そういう側面からゲームにアプローチすることは無駄ではないと思っているのです。
やはり、文芸批評しかない、というのは変だと思うのですが。
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