急に思いついたのだが、僕が最も欲しいものは無償の愛だと気付いた。 で、無償の愛とはいったいなんじゃろな?
長く説明するのが面倒なので、簡潔に記してみたいと思います。
無償の愛とは・・・、 相手の意思、行為に基づかない一方的な愛。 と、僕は定義しておきます。
基本的に恋愛は制度であり、売買や労働と等価値だと考えます。 自己に向けられた好意の対価として、好意を返す。 自己内部に発生した意思に基づく恋愛は、必ずこの形をとります。 誰かを好きになり、それを伝え、相手からも好意を伝えられる。 逆に、誰かから好意を向けられ、それに対して好意を返したとしても同じ事です。 それは好意を先払いするか、後払いするかの違いだけです。 お互いに好意を交換するに値する対価を、何らかの形で支払っています。
つまり、無償の愛を実現するためには、好意を伝えてはならないし、好意を向けられても返答してはならない。 完全に一方的でなければならないのです。
では、なぜ僕はそんなものを求めるのでしょうか? それは、無償の愛は「存在」そのものを認める行為だからだと考えます。 自己の活動によって発生する何か(それは愛情であったり、愛情を表現する物や行動であったり)を必要とせず、その人の「存在」自体がすでに愛を与えるに値すると認めることになる。 つまり、通常の恋愛は相手の存在そのものではなく、相手との好意の交換によって生じる何かに価値が発生してしまう。 相手との感情の交流であったり、触れ合いであったり。 それらは相手との行為であり、相手の存在そのものではない。 しかし、無償の愛はそれを必要としない。 相手の存在そのものが愛の対象であり、行為や意思の交流は必要ない。
唐突に話は切り替わるが、そう考えると僕は本気でKさんが好きだったようだ。
それはともかく、無償の愛を向けられるということは、”無条件”で存在を認められることだ。 つまり、僕はそれを求めている。 僕の行為に付随する付加価値ではなく、僕が僕として在る、ただそれだけで認められる。愛される。 僕はそれを望んでいる。
2004年06月20日(日) |
歩行者理論は間違っている。 |
始めに断っておくが、歩行者理論とは僕の造語です。 歩行者理論とは、程度が軽ければ犯罪を犯罪でないと認識する理論のことです。 つまり、猛スピードで交差点を信号無視する車は極悪で、大通りで横断歩道のない場所を当然のように横断する歩行者はあまり悪くない。 あまり悪くないのでお咎めなし。 歩行者や自転車は交通規則を少々無視しても”あまり”危険ではない。自動車などの車両が交通規則を無視すると”かなり”危険。だから、車両は交通規則を守らなければならないが、歩行者や自転車は気にしなくてもよい。 確かに自動車が歩行者ばりに信号無視をすれば、危険なことこの上ないです。歩行者が道路を横断するくらい、皆やってることだし、別にいいじゃないかと言うのもわかります。しかし、規則に違反してることも事実です。 そんな些細なことに目くじらを立てるなよ、と言われそうですが、「些細なこと」を免罪符にすることを僕は弾劾したい。
なぜ、「些細なこと」を免罪符にすることを僕が嫌うのかというと、それは質の問題を量の問題にすりかえ、自らの罪を贖おうとしているように感じるからです。 つまり、程度(量)に天と地ほどの差があったとしても、悪いことは悪い。殺人も万引きも立派な犯罪なのです。 もちろん、だからと言って殺人と万引きに同じ罰を科せとは言いません。量刑には程度の差が出ます。しかし、”刑が与えられる”という質の面では同質であるべきだと考えます。 つまり、全てを完璧にして些細な間違いも許すなと言いたいわけではなく、どんなに程度の違いがあったとしても、本質的には同じことが世の中にはたくさんあり、そして、自分も同じような(=同質な)ことをしているにも関らず、自分は程度が低いから関係ない、と免罪するのは間違っているのではないかと訴えたいだけです。
2004年06月07日(月) |
コミュニケーションの可能性。 |
前回でコミュニケーションは根源的に不完全だとという趣旨のことを書いてみた。 でも、ちょっと考えたら「もしかしたら出来るかも?」と思ったことがあったので、今回はそれを書いてみる。
完全なコミュニケーションが可能となる手段、それは「消費行動」かもしれない。消費の中でも最も完全なコミュニケーションに近いと思われるのは自己目的化したメディアの消費である。 メディアの消費が自己目的化するというのは、いかなる事態か。プリクラやメールにもその傾向はあるが、主にインターネットと関連のあるメディアにその傾向が濃く出ているように思う。(単なる感想だけど。) そのメディアを使うこと自体が目的である。これがメディアの自己目的化である。友達との記念となる物を残したいからプリクラを取る、なんて考えている学生はほとんどいないだろう。プリクラはプリクラを撮るという行為自体が楽しみであり、プリクラというメディアを利用すること自体が目的化している側面がある。 あるいはインターネットでのチャットやHP開設。おおざっぱに言えば「○○がやってみたい。」という動機で始められる消費行動がそれにあたる。その「○○」の部分にインターネットやゲームなどのメディアを当てはめると、それはつまり自己目的化したメディアの消費と言えるのではないだろうか。 つまり、メディアを通じて「伝えたいこと」を伝えたいのではなく、メディアを利用すること自体が目的である場合がある。ただ、使ってみたいと思っただけ。ただ、使うことが楽しいので使っている。それら、「使うこと」が目的のメディア利用が、僕は完全なコミュニケーションに最も近い行為ではないかと思っている。
前回の話で感じたのは、もしコミュニケーションから「伝えたいこと」を抜けばコード化の手順を省ける、という事実だ。「伝えたいこと」が初めからないのなら、メディアに合わせたメッセージの変換は必要ない。 メディアの規則を理解し、蓄積された前例を範例として新たに構築する作業をすればよい。それは新たなメッセージの構築であり、元からあったメッセージの変換ではない。つまり、最初にメッセージが成立する場が「私」ではなく、初めから「メディア」上にあることになるのだ。 そうなると、メディア上で生まれたメッセージは完璧にメディアの規則に従っているはずである。メディアの規則に従っていない部分があるとすれば、それはイレギュラーであり、メッセージの製作者のコミュニケーション能力が疑われることとなる。 自己目的化したメディアの消費においてのコミュニケーション能力とは、「伝えたいこと」を巧みにメディアの特性に合わせて変換することではなく、いかに正確にメディアの規則を把握し、それに従うか、という能力になる。 話がやや脱線したが、自己目的化したメディアの消費において、メディア上で初めて発生するメッセージは、理論的には、メディアの規則に完璧に沿った方向へ向かうはずだ。 となれば、完全に固定されたコード化と解読の規則を持ったメディアがあれば、完全なコミュニケーションが可能になるかもしれない。
完全に固定されたコード化と解読の規則を持ったメディア、とは身体の存在を無視しているので永久機関のからくりを探すようなものかもしれない。 なので、それは措いておいて、最初に提出した結論、「消費行動」の話に戻る。なぜ僕が「消費行動」に完全なコミュニケーションの可能性を見出すかと言えば、そこには「○○を使いたい」という目的と「○○を使った」という結果がともなうからだ。動詞は「買う」でも「食べる」でも「行く」でも、なんでもいい。それこそ、メディアの規則に沿った動詞を入れればよい。 そして、人と人は「○○を使いたい」という目的ではなく、「○○を使った」という結果の水準で繋がることが出来るのではないだろうか。 通常のコミュニケーションで言えば目的は「伝えたいこと」と対応する。一方、結果は「メディアに載ったメッセージ」に対応する。消費を通じた完全なコミュニケーションとは「○○を消費した」という純然たる事実が伝わることによって可能となる、と僕は考えてみた。 「僕はROをやった。」 「私もROやった。」 この二人はROをやったという事実で、完全な一致を得ることが出来る。
もちろん、その事実を認識するために言語や視覚などの身体的メディアが必要で、そこには常に誤読の可能性が付きまとうのではないかという問題もある。 思いつきの荒削りすぎる考えだ。けれど、コミュニケーションの変容や日本人の「内面」の変化を考えるとき、これらの考えはあるいは有効な視座を与えてくれるかもしれない。と思ってみたりする。
日本人には「内面」や「ほんとうの私」なんてものは初めからなかった。と言うのを僕はけっこう信じてる。あるいは、日本には強烈に「自己」を植えつけるシステムがないのかもしれない。(それらは戦後教育の成果かもしれないけれど、僕にはよくわからない。) だから、「内面」を必要としない、ただ使うだけの行為にここまで順応できるのだ。それはバブルを盛り上げた一要因ではないかとも密かに思ったりする。 内面がなく勤勉。だから、新しいメディアの規則をすぐに学習し、応用し、発展させる。 だって、確固たる内面があったら新しいメディアが登場するたびに、その確固たる内面を新しいメディアに載せるための変換の訓練をしないとならない。それだとちょっと対応が遅い。迅速な発展のためには、順応速度を鈍らせる確固たる内面は不必要なのだ。
話がずれて、最後はだいぶ乱暴になってしまったけれど、とりあえず今日はこんなことを考えてみた。
2004年06月06日(日) |
完全なディスコミュニケーション |
あまり日記に書くことが浮かばない時に更新は滞ります。 気分で書いているので、書く気分にならないときは書かない。 ま、更新の要請があたったので、てきとーな言葉で茶を濁しておきます。
メディアを通さないコミュニケーションは存在しない。それは言葉であったりメールであったり表情や場の空気。作家であれば作品。あらゆるコミュニケーションにおいてメッセージはメディアを通さなければ他者に届かない。(広義の)メディアを利用せずに可能なコミュニケーションがあれば教えて欲しいくらいだ。 メディアには限界がある。それは全てを伝えられない、という限界だ。全てのメディアにはコード化と解読という手順がある。例えば、何か伝えたい「内容」があったとして、話して伝えるならその「内容」を言葉に変換する必要がある。これがコード化。メールならメールの文面を作る。作品を作る。これら「メッセージ」の作成は全てコード化と言える。 そして、それら「メッセージ」を受け取った側は、そのコード化された「メッセージ」を解読し、意味を判断する。
現実的に全てを完璧に伝えるメディアは存在しない。特に哲学の領域で問題とされる「他者の痛み」を伝えるメディアはない。自分が身体に感じた感覚を他者に正確に伝えることは不可能である。 「だいたいこれくらいの痛さだよ。」と伝えることは出来るが、それは自分が感じた痛みが、他者の身体にそのまま再現されたわけではない。この点において、あらゆるメディアは発信者が持っている「メッセージ」を必ず不完全な形で他者に届ける。
実はコード化とはメッセージの創造ではないかと思っている。たとえ「伝えたいこと」が歴然とあったとしても、それを何かしらのメディアに載るように加工した瞬間、それは元の「伝えたいこと」と完全なイコールではなくなる。それは「メディアに載ったメッセージ」という新たな別個の存在に変化している。 そして、「伝えたいこと」ではなく、その「メディアに載ったメッセージ」が他者に届けられ、他者は彼が持っている規則で「メディアに載ったメッセージ」を解読し、「送り手からのメッセージ」として受け取る。 この手続きを省略したコミュニケーションは有り得ない。あったら教えてほしい。
そうなると、コミュニケーションとは常に完全なるディスコミュニケーションであるという結論に達する。 コミュニケーションが「伝えたいこと」を伝達する行為だとすると、必ず「伝えたいこと」は伝わらない。なぜなら、メディアに載った瞬間、それは「メディアに載ったメッセージ」に変容するからだ。もちろん、残滓は多分に残されているはずだが、それが既に「伝えたいこと」と同一ではないことも事実だ。 つまり「伝えたいこと」は、それを伝えようとする主体から離脱することは不可能であると言える。「伝えたいこと」が「私」から決して離れられない以上、それは決して他者には届かない。 よって、コミュニケーションを「意思疎通」と邦訳する場合でも、私のなかに発生する「意思」はメディアを通した瞬間に「メディアに載ったメッセージ」に変容するので、他者と意思を疎通することは根源的に不可能である。 つまり、凡庸な独我論のようだが、自己と他者が別個の人間である限り、コミュニケーションは常にディスコミュニケーションなのだ。これは形而上学的な話ではなく、現実的な水準での話だ。 それこそ、ニュータイプのような人間が出現しない限り、コミュニケーションは有り得ない。
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