洞察力を鍛え上げること。 才能のない者が、それでも何かを成し得ようとするなら、それは必須の能力だと思う。
現状を把握する。 自分の能力を把握する。 そして、致命的な部分を見逃さない。 それを見逃せば、後に自分が致命的な窮地に立つような事。 それを見逃さない能力。 あるいは、それを逃せば二度と手に入らない機会。 それを見逃さない能力。 それが洞察力。
いちおー、自分なりにそれを磨いてきたつもりだった。 致命を見極め、小事は最小限の労力で切り抜ける。 好機を見極め、大事は最大限の能力を、最大限生かせる形で発揮する。 そうやってきた鍛えてきたつもりだったのに、致命的エラーを犯した。
さすがに堪えた。 こんなのは難なくクリアーできる小事だと思っていたのに。 あっけなくつまづいた。まだ、こけてはいないけれど。 いや、つまづかないようにそれなりの努力はしたはずだけれど。 動向を見誤った。 致命的な部分に気付かなかった。 他の誰もが簡単にクリアー出来てしまうところを、難なくつまずいた。 障害も何も無かったのに、簡単につまづいてしまった。 これは洞察力が足りなかったからだ。
それがショックだったのだと。 今までそれなりに鍛えてきたはずだった洞察力は、あまりにも簡単に自分をつまづかせた。 誰でも難なく通過できるところでつまづいた。 それがショックだったのだろう。
2004年02月06日(金) |
スタート地点の違い。 |
自分が望む境地に達するには努力が必要である。 それは根本的に内発的で、かつ内部に向けられる努力である。 だから、言い訳をしても意味がない。 失敗の原因が自分の内部にある事を、その原因を自分の内部にある要因で解決できる事を自分が知っているのだから。 だから、言い訳をしても意味がない。 それは目標から遠ざかる事だ。
だけど、それに対して外部からの評価は伴わない。 スタート地点が違うからだ。 最初から最後まで、全て自分の力で歩きたいと願った。 最初から最後まで、全て自分の責任で歩こうと誓った。 そのスタート地点はあまりにも孤独で、何もない。 だから、評価のしようがない。 そこからスタートした者は、何も持っていない。 だから、何を評価して良いのか分からない。
自らの理想に向けて歩くこと、その道のりは他の者には見えない。 だから、自らの理想に向けて歩くものは、その志において評価されない。 彼の者が評価され得るのは、彼の者が他者に役立つ才能を持っている場合。 その才能が相対的に優れている場合。 つまり、才能を持っている者は、それを発揮するだけで評価が下る。 スタート地点がすでに異なる。 才能を、先人の知恵を、あらゆる外的要因を踏み台に飛翔する者達。かれらは正当に評価を受ける資格を持っている。 おそらく、彼は築く者たちなのだろう。
しかし、その踏み台を解体する者達がいる。 今の自分を形成している全ての要因を、それを自明として受け入れなれない者達。 彼の者達は、あらゆる事を問わねばならない。 あらゆる事を疑い、解き明かし、解き明かしてなお考え続けなければ進めない。 その歩みはあまりにも遅く、誰も付いて行く事など出来ない。 疑い、解体し続ける者の歩みは遅く、その偉業は形を成す前に風化する。 それでもなお、賽の河原のように、積み続ける事が出来れば。 その歩みを決して止めない意思があれば、彼の者達にも希望はあると言うのに。
卒論提出、いちおー終わりました。 聞くところによると、卒業OKな人には書き直しの宿題が出るらしい。
それは置いといて、今日は紙の話です。 卒論やらゲームやらでこの頃は白紙の紙を愛用するようになりました。後は力をかけずにスラスラと書けるボールペン。細くてインクが濃いのが良い。 アイデアを練ってそれを形にするのに、まず紙に断片的な言葉を流れ図の様に書いてます。これが論理的思考と論理的文章への入り口かと。
横線が入っているルーズリーフにも違和感を覚えるようになりました。だって、あれは横線が思考の邪魔をするので。真っ白な紙に、頭で組み立てた論理をそのまま書き写していく。そのために他人が設定した横線は邪魔なのです。
あと、サイズはB5が今のところベスト。 A4だと広すぎて思考が散らばってしまう。僕の文字の大きさだとB5用紙一杯に広がるくらいが、文章を書くのにちょうど良いまとまりなのです。紙が四角いのも良い。思考が四角く、論理的に明解になるので。
あらゆる仕事は道具に影響されます。 F1ドライバーだって良いマシンがないと良いタイムは出せない。 ある道具を使って仕事をするなら、その道具を使って仕事をするのだから、その道具で出来ない事は、どうやっても出来ない。 道具の特性を知って、道具を使いこなすことは、可能性を見極めるという事です。 なので、僕は小説よりもゲームに可能性を見出してみたりするわけで。
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