♡大人になれない子供♡ |
2004年01月28日(水) |
私にはお兄ちゃんがいる。4つ年上で、大学からは横浜へ移住してしまったので、私が中学3年生の時からずっと離れ離れで生活している。そのため、私の中におけるお兄ちゃんのイメージは今だに当時のままでストップしている。何かと難しい思想を抱いていたお兄ちゃんは、ちょっと変わっていて異端的な独特性を持っていた。例えるならば、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』という小説の主人公のような感受性の強い少年であった。
お兄ちゃんは中学までは優等生で誰からも好かれるような従順で素直な少年であった。しかし、思春期に入り、ペットとして可愛がっていたセキセイインコの死をきっかけに、お兄ちゃんの中で大きな異変が生じたようだ。それ以来、愛敬のある笑顔は一切見られなくなり、食事以外は自分の部屋に閉じこもりっ放しで話しかけるのも怖くて両親でさえできないほどであった。そう、お兄ちゃんにはいつも気を遣ってばかりだった。
私はよくお兄ちゃんが学校へ行っている間にこっそりと部屋の中へ入り込み、本棚や机の上などを物色していた。お兄ちゃんが描いていた日記や小説、デッサンや油絵などはどれも芸術性を帯びていて、私には理解不能で難しい要素もあったが、私はありのままのお兄ちゃんを知る事に喜びを感じていた。「お兄ちゃんと結婚したい」と幼い頃から想い続けていた私にとって、お兄ちゃんは今でも尊敬すべき唯一の人間なのだ。
ある日、お兄ちゃんは家出をした。高校の夏休みの補習期間に「行ってきます」と言ってそのまま帰ってこなかったのだ。部屋の机の上には置き手紙が残されていて、その内容は学校に対する反発や自由への憧憬が綴られていた。お兄ちゃんは一体何が原因でそんなにも一人で苦悩していたのだろう…今となっては同じ屋根の下で生活していながら理解してあげる事ができなかった事に対して悔しさでいっぱいである。その晩、千葉の親戚の家から「お兄ちゃんがやって来た」という電話があった。家族みんながほっとした。
おじいちゃんっ子だったお兄ちゃんは、おじいちゃんになら理解してもらえると思ったのだろう。小さい頃からしょっちゅう遊びに行っていた千葉の親戚の家は、お兄ちゃんにとって生まれ故郷よりも大切な場所だったと思う。お兄ちゃんは電話で「もう戻らない」と言い張った。しばらくお母さんの説得は続いたが、突然「もう帰ってこなくてもいい!!うちの子じゃありません!!」という声が大きく響いた。私はショックで大泣きをした。その後、おそらくおじいちゃんに叱られたのだろう、お兄ちゃんは泣きながらお母さんに謝罪をし、再び我が家に帰ってきた。
お兄ちゃんの家出や不可解な行動はそれだけではなかった。よっぽど現実逃避をしたかったのだろう。当時の私にはお兄ちゃんの辛さを理解できるほどの能力がなかった。お兄ちゃんは私の目にはいつも輝いて映っていたから…バカな妹に対して天才な兄という対照がいつも存在していたのだ。お兄ちゃんは全力を尽くし、東京の一流大学に合格して周囲を唖然とさせた。当時の担任の先生は「晴天の霹靂」だと言っていた。家族や親戚はみんなさすがはお兄ちゃんだと感心していたが、大学へ入学してからも相変わらずお兄ちゃんはお兄ちゃんだった。
そんなお兄ちゃんの20歳のバースデーに、私は生まれて初めてのお手紙らしきお手紙をお兄ちゃんに宛てた。その中で私は「このままだと大人になれない子供になっちゃうよ」と書いたのを覚えている。今思えば、16歳の妹が兄によくもそんな偉そうな事が言えたものだとあきれてしまうが、当時はかなり本気だった。私は私なりにお兄ちゃんを理解しようとしていたつもりで、それまではお兄ちゃんに対して意見する事はなかったが、お兄ちゃんの成人を祝うそのお手紙を通して一番に伝えたかった言葉はそれだった。
お兄ちゃんは現在横浜の病院で経理を務めている。お兄ちゃんが病院で働く事を決心した一つのきっかけは、どうやら私が発病した事にあるようだ。今のお兄ちゃんはすっかり一人前の大人と成り果て、一昨年に最愛のおじいちゃんが亡くなってからも動じる事はなかった。以前は一切実家へ帰って来る事はなかったが、今年のお正月には珍しくひょっこりと台風のようにやって来た。いかにもお兄ちゃんらしい親孝行だったと思う。過去の苦悩を過去の思い出として封じる事ができたんだろうなぁ…。
ふとこのような思い出がよみがえってきたのは、今の私自身が「大人になれない子供」ではないのかと思ってしまったからである。私は今まさに、抗って、抗って、大人への道をさまよっている。いつまでも同じところにはいられない。新しい居場所を探さなくちゃ…流れ行く時間に取り残されないように。そして、一度狂ってしまった歯車を再生し、新たな時代を生き抜いていくために。
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