Sun Set Days
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旅を続けてもう四ヶ月になるけれど、僕らはよく喧嘩をする。厳密に言うのなら、よく喧嘩をするようになった。 喧嘩の原因は様々だ。僕が紗枝の問いかけにちゃんと答えないことであったり、子供扱いするということだったり、無難な答えでその場を取り繕おうとすることだったりする。つまりはまあ、きちんと向かい合わないことについて僕はよく怒られている。 僕らは旅の性質上、かなり長い時間一緒にいる。一緒にいないのは、まずは夜(僕らは恋人同士ではないのでホテルの部屋を別々にとっている。これは読者からの質問でも多いものらしい)、それから僕が風景写真を撮っている間くらいだ。もちろん、たまには紗枝が散歩と称してしばらく帰ってこないこともあるから、そういう時間も一人の時間に入れてもいいだろう。けれども、撮影のない日の大半を占める移動時間には、僕らは同じ車の中にいるから一緒に過ごしている。 二人の人間が、それも基本的には他人がそれほど長い時間一緒にいると、どうしたって無理は出てくる。どちらかの虫の居所が悪いときはあるし、会話が磁石の同じ属性を持っているかのように反発しあう時だってある。調子がいいときもあれば、体調の優れない日だってある。正直な話、美しい写真のように、僕らの時間が淀みなく流れているわけではないのだ(白状すると、「ちょっと車を停めて!」と言われ、「一時間その辺を歩いて頭を冷やしてくるから!」と紗枝が車を飛び出してどんどん進んで行って、本当に一時間帰ってこなかったこともある。一時間後草原から戻ってくる紗枝の姿は、本当に勇ましかった)。 それでも、僕は紗枝との時間を大切に思っている。ときどき、口論の後二時間近く車の中で無言になり、紗枝は寝たふりをしてしまうときなどもあるのだけれど、それでも僕はこの旅をかけがえのないものだと思っている。 止まない雨がないように、終わらない夜がないように、修復されない喧嘩も、直らない歯車もないように思う。ポイントはきっと、反応的にならないことなのだ。反応的になると、どうしても目の前の感情の動きに集中してしまう。けれども、僕らがなんのために一緒に旅をしているのかを思い出すと、不思議とニュートラルな気持ちになることができるのだ。 「ちゃんと話して。無難に収めようとしないで」 紗枝はよくそんなふうに言う。十歳も若い紗枝にそう言われると、なんだか不思議な感じがする。「年齢は関係ないわ。ちゃんと向かい合って話すだけなのよ」そんなふうにも言う。 紗枝はいつも車の中で押し黙る。それは言うべきことがないからではなく、正しい言葉を探すためだ。紗枝は自分の思いを伝えるための正しい重さを持つ言葉を探して、苦しそうに押し黙る。そして、ようやくその言葉が見つかると、慎重に言葉を重ねる。僕は感心すると同時に、心配してしまう。そんなふうだと、向かい合う人は大変だろうなと。 「幸い、時間はたっぷりあるもの」紗枝は言う。「だって今日だってもう何時間も車に乗っているのよ。言葉を探すくらいの時間はあるわ」 「まあ、確かに」と僕は答える。 時間はまだたっぷりある。 そう信じている。
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お知らせ
各章の最後に、紗枝と隆志のそれぞれの1人称の短い文章が挿入されるのです。
歩道橋の中ほどに立って、眼下を通り過ぎていく車を眺めていた。遠くの信号が変わるたびに固まって流れてくる様々な色の自動車は、遠い未来の機械の魚たちのように見える。オレンジ色の傘は朝から降り続いている細かな雨を受けて、耳を澄ますと雨の音と車の音が混じりあって不思議な余韻を残していく。 瑠璃は秋用の薄手のコートを着て、オレンジ色の傘を持ったまま、もう長い時間同じ場所にいた。別にこれといって何かをしているわけではない。言うなればただの散歩だった。 ウィークデイなので修一は会社で働いている。瑠璃は修一の働いている会社のビルを思い浮かべる。修一はオフィス家具を作るメーカーに勤めていて、効率のよいワークスタイルを確立するための快適なオフィス空間づくりをプロデュースしているらしい。本当はね、と修一は秘密を打ち明けるように囁く。働いている社員たちのモチベーションが高ければ効率はあがるんだけどさ。 瑠璃は修一の言葉を思い出して一人で微笑んでしまう。瑠璃は修一の持つ穏やかさが好きだった。もちろん機嫌の悪いときもあったが、それでも修一は大きな森のようにすべてを包み込んでくれる。修一に出会えたことは、この広い東京で奇跡のようなものだ、とさえ思う。 子供の頃から、本当に大切な人に出会いたいとずっと願ってきた。そう思える人と出会えるまでは、心も身体も許さないと決めていた。女友達はその考え方を笑い、自分自身おかしいのかしらと思うこともあった。けれども自分は器用な方じゃないのだ。瑠璃はそう思って、自分の決めたことを守り続けた。 修一とはじめてセックスをしたときのことを忘れられない。修一との間には思い出すことのできるエピソードがたくさんあって、瑠璃はそのひとつひとつ思い出しては穏やかな幸福に浸る。そして、それらの思い出が、これからも起こりえるのだという可能性に胸が締め付けられそうになる。 瑠璃はだからいつも泣きそうになる。自分の感情がどうしてもうまく制御することができなくなる。ありとあらゆる感情がいま自分の周りで起こり続けている奇跡にすがりつきたくなってしまうのだ。 感情の透明で大きなコップを、感情の水が満たす。その水は簡単に溢れてしまう。選択肢、と瑠璃は思う。もしあのとき、修一がグループ展を開いていた小さな画廊を訪れることがなかったら、夫人が天使猫の絵を見ていた修一を紹介してくれなかったら、オレンジ色の傘を貸さなかったら、たくさんのもしの上にいまの現実が成り立っている。すべてはまるで夢みたいだ。夢が醒めたら私はいまも美大生で、遅い時間まで一人で孤独にキャンバスに向かっているだけなのかもしれない。だからそのときから、瑠璃の持つ傘はすべてオレンジ色なのだ。「オレンジが好きなんだな」と修一は言う。「うん」と瑠璃は答える。オレンジは修一との運命の色だからと、本気で信じているのだ。 それはある種のおまじないだった。 瑠璃は遠くに広がる新宿御苑の暗い森を見つめる。街中の音を吸収しようとでもしているような灰色の雲が、暗い森のすぐ上までおりてきている。 これは紛れもない現実だと自分に言い聞かせる。わけもなく嬉しくなったり哀しくなったりしたときには、一人で散歩に出る。特に世界が雨に打たれる午後には、あらゆる感情を冷やす効果が備わっていると信じているから、それにすがって散歩に出る。 きっと、と瑠璃は思う。幸福と不幸とは深いところで繋がっていて、たとえば愛する人がいる幸福はその人を失ってしまうかもしれない不幸を内包している。だからある種の影のように幸福と不幸とは寄り添いあい、ときどきわけもなく不安になったりするのだ。でもそれはわけもなく幸せな気持ちになることとそれほど違いのあることではなくて、水の上に映る影のように、ゆらゆらといつまでも揺れ続けている。 公園まで足を伸ばしてみよう。瑠璃はそう思って、ゆっくりと歩き出すのだった。
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これは、星野夫妻のエピソード「Spica」の一部。 まるで世界に二人だけしかいないかのような静けさと穏やかさに包まれているこの夫婦の日常は、暖かな乳白色の膜に包まれてでもいるかのように淡々としている。
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お知らせ
瑠璃って名前はきれいな名前だと思うのです。
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