解放区

2013年01月31日(木) 体罰について/原付死亡?

体罰問題が世間を賑わしている。桜宮高校の件については橋下氏を完全に支持する。女子柔道の件については何か裏がありそうな気がする。

また過去の思い出話になってしまい恐縮だが、てめえは中学生のときは柔道部に属していた。全くの弱小校だったが練習は厳しく、毎日死ぬ思いで練習していた。てめえはよい子だったので体罰された記憶はないが、仮にされていたとしても練習のしんどさの方が上回っていただろう。

このときの柔道部の顧問は数学の教師だった。見た目は貫録もあり街を歩く姿はまるで○○○だった。指導も非常に厳しかった。

ある日の練習で、てめえの同学年で主将候補の奴がいた。普段はまじめに練習している奴だったのだが、ある日明らかに、てめえが見ても手を抜いている時があった。顧問が注意しても反抗期だったのか改善せず、ついに顧問の雷が落ちた。

顧問は彼を呼びつけ、直立不動の状態で一発頬を殴った。「ええか、今日わしに殴られたってお父さんに言え! わかったな!」と言って、彼は道場を去った。

あとにはてめえら中学生のみが残されたわけだが、しばらくしんとした静けさのみが残った。眼の前で「体罰」があったわけだが少しの後味の悪さもなかった。むしろ顧問の「愛」を感じた。もちろん親からの抗議はなかった。

報道によると桜宮高校の教師は30-40発も殴ったそうだ。殴る方にも気合がいるだろうが、それでも殴られたほうが死ぬまで殴る必要はまったくない。通常の人間の脳みそを持っていれば、指導していた生徒が自死すればてめえも辞任して、その後の人生を彼の魂が安らかになるような人生を送ると思われるが、これまた報道によると辞任すらしていないと思われる。

てめえが中学生の時に感じた顧問の愛をまったく感じない。

こんな奴や周りの連中、それを支持する連中はいちど潰してしまった方が良い。少なくとも教師を続ける意味はない。



通勤用に使っていた原付だが、本日職場間の移動中に「ぱーん!」と大きな爆発音を立てて動かなくなってしまった。もはや寿命かもしれん。とほほ。



2013年01月30日(水) 赤い麗人

http://www.dailymotion.com/video/xx2nkj_yyyy-3_shortfilms?search_algo=2#.UQp3aR3tT0M

普段こういったテレビドラマは見ることがないのだが、友里さんのところで知って思わず見てしまった。詳細は友里さんのところに書いてあるが、良くもここまで実在の人物を揶揄出来たものだと感動したぞ。



2013年01月28日(月) 小学校の時の同級生。

週明け出勤したら、てめえの机の上に無造作に一枚のはがきが置いてあった。週明けのクソ忙しい朝なのでとりあえず差出人だけ確認して仕事に向かおうとはがきを手に取ったら、とても懐かしい名前が記されていた。小学校の時の友人であった。

どうでもいいクソ田舎のどこにでもあるような公立小学校だった。まあ小学生並みに楽しい日々だった。お受験で抜ける奴もおらず、みな同じ中学校に進学した。

彼とは小学3年から6年まで同じクラスだったと記憶している。ウマがあったのかよく一緒に遊んだ。よくお互いの家に泊まりに行った。彼はとても発育が良く、小学6年の時点で180cmくらいあったのではないか。運動神経も抜群で、小学校の間はずっとサッカー少年だった。体が大きかったためかサッカーも抜群に上手だった。お母さんもママさんバレーで活躍されており、さほど歳の変わらないお姉さんも同じく大きかった。残念ながら何度泊りに行ってもお父さんとお会いすることはなかったが、今思うと「隠れ母子家庭」だったのだろうと思う。

彼とは音楽の趣味が良く合った。お互い洋楽特にビートルズが好きで、彼はそれ以外にスティービィーワンダーが好きだった。中学校の時か高校に行ってからかは忘れたが、一緒にライブに行くこともあった。好きな女の子の話を延々と聞いたこともあった。

彼は中学に入りサッカーをやめ、野球少年になった。てめえの学校の野球部自体はしょうもない野球部だったが、スカウトされたのか自分で希望したのか、高校は野球名門校に進学した。1年後輩には誰でも知っているメジャーリーガーが在籍した野球部だった。残念なことに甲子園には行けなかったが、彼は小さな田舎町の同級生の誇りだった。

ちなみに彼と一緒に小学校のころサッカーをしていた連中は、その後もサッカーを続け、高校サッカーで国立競技場の決勝戦まで進出することになる。彼がサッカーを続けていればもしかしたらと、と妄想する。

野球に限界を感じたのか、彼は大学に入ると別のスポーツに転向し、大学卒業後に花開き日本一になった。てめえはもちろんテレビで観ていた。

彼と最後に会ったのは、彼が大学に進学したその年だったような記憶がある。てめえは高校を卒業してプラスチック工場で働く一労働者で、彼は大学生だった。しょうもない話で盛り上がったのしか覚えていない。


手紙はとてもきれいな字で、内容もとても丁重だった。昔のようにタメ口でいいのに、過ぎ去った日々を感じることになってしまった。

内容は、小学校卒業以来初めての同窓会を去年末にしたこと、みんながてめえの話で盛り上がったこと。来年は参加してほしいことなどだった。てめえの話で盛り上がったのは社交辞令だろうが、今年は万難を排してでも参加しようと思った。



2013年01月27日(日) 久しぶりにのんびり。

先週は出張(ちょっと違うが)だったため振り替えた仕事などがあり、また出張前後もタイトなスケジュールだったため珍しくずっと仕事している状態だったため、この日は久し振りの完全オフ。存分に寝て充電完了。

こっちに帰ってきてからは冬の寒さにうんざりしていた。去年は防寒カーテンやなんやかんやと工夫してみたが全く寒さを防げず、「着る毛布」を室内着にしても寒さが肌に染み込み、これは二重窓や本格的なリフォームが必要かとうんざりしていたが、ガスファンヒーターの導入で意外と家じゅうがポッカポカになった。残念なことにガス代がとんでもないことになっているが正直仕方ないな。ほんまに命削る寒さやった。ガス最強。



2013年01月24日(木) ある内科医師の道程

1年目

学校で学んだことがほとんど役に立たず、看護婦さんからも馬鹿にされる日々が続く。患者さんを診察しても鑑別疾患も浮かばず、「風邪」や「インフルエンザ」や「胃腸炎」などのありふれた疾患の患者を診るとホッとする。良くわからない場合はすぐに上司に丸投げ。

2年目

ありふれた疾患はだいたい診れるようになり、少し珍しい疾患にも興味が出始める。外来をはじめて、入院患者とはまた異なる問題を知る。癌の末期や治療の甲斐なく亡くなられる方もちらほら出てくる。

3年目

一通りの疾患は経験し、逆に風邪やインフルエンザや胃腸炎などに食傷気味になる。さらにマニアックな世界を知るべく専門的な勉強を開始する。大きな手技もだいたい一人でできるようになる。

4年目

研修医の中では上級になり、1−2年目研修医の指導は一通りできるようになる。夜間当直も一人でこなせるようになる。内科認定医の試験を受ける。

5年目

まだ一人前ではないが、ほぼ一人で業務は回せるようになる。そろそろ表だって文句を言う看護婦さんがいなくなる。

6年目

外来・当直・病棟の業務に支障はなく、業務がルーチンになりはじめる。会議や医学書の翻訳など臨床以外の仕事が入り始める。また、新たな刺激を求めて大学院に進学する者もこの前後に多い。

これ以降は、一般病院であれば中堅どころとしてばりばり働くことになり、選んだ専門分野の専門医を目指す。大学院に進学した場合はアルバイトをこなしながら数年研究三昧の日々を送る。



2013年01月23日(水) 症例検討:20代女性

20代女性。

子どものころからのびのびと食べたいものを食べて育ち、結果まるまると育った。保育園卒園前に、担任の先生から「肥満教室」に通うように言われる。小学4年生のときに学内相撲大会で優勝。

小さいころから喘息あり。吸入薬で治療してきた。それ以外は内科的既往歴なし。体の重みに耐えきれずに足首の骨を骨折したことあり。血圧正常、採血異常なし。酒はたまに飲むくらいで喫煙しない。食事は食べたいものを食べる。

昨年8月に、家庭の事情から兄と同居することとなった。兄の作る食事を食べたいだけ食べ続けた結果、2ヶ月で20kg減量。喘息発作もなくなり、現在薬はすべて中止している。

同居時に持って来た服はぶかぶかで着れなくなり、買い直すこととなった。


人間の健康は、食事内容で決まるものだと考えていたが、これほどまでの例は珍しいですね。さて検討を始めていきましょう。

1.朝食は中止。野菜ジュースを軽く飲む程度に変更した。
2.昼食は弁当。炭水化物を中心に、お米+適当なおかず。
3.夜は魚・豆腐主体。量に制限はなし。炭水化物は摂らない。
4.喘息対策として、ω3系の油脂を摂食的にメニューに入れた。逆に、ω6系はできるだけ摂らないように。
5.「酸化した油」は摂らないように、揚げ物は中止。炒め物もできるだけ減らして、煮物と蒸し物が中心。
6.タンパク質は魚と豆類で摂る。鶏と豚肉も使うが、煮るか蒸すかで使用。
7.加工食品は使用しない。野菜もできるだけ皮をむかない「ホールプラント」で使用。

運動量は特に変化なし。夕食も制限なし。これで減量にも成功し、喘息もなくなりました。めでたしめでたし。

ポイントは「加熱した油を取らないこと」「人間の自然なリズムを知ること」「できるだけ不自然なことはしないこと」ですね。では解説していきましょう。

1.ほとんどの人間は夕食をしっかり食べると思いますが、ここで得たカロリーはどこで消費するのでしょうか。夜の生活で消費? そんなに毎日頑張っているのですか? 夕食で得たエネルギーはほとんど消費されることなく、体の隅々に蓄えられるのです。たいていの方は夕食の後はゴロゴロして寝るでしょう。コレステロールなどの合成も夜中に活発に行われます。したがって、起床事は胃の中は空っぽですが体中の細胞はエネルギーに満ち溢れています。この状態で新たなエネルギーを注ぎ込む必要はありません。余分なエネルギーになり、さらにため込まれるだけです。したがって朝食は不必要です。

2.午前中労働をすると、夕食分からため込まれていたエネルギーが消費されます。中でもガソリンに相当する炭水化物が必要になりますので、昼食は炭水化物中心に食事を摂ります。ここで得たエネルギーは午後の労働に必要です。

3.夜は労働の必要はありませんので、ガソリンは要りません。炭水化物は吸収に当たり、完全に糖類に分解されてから吸収されますので、米を食べるときは常に「同量の糖分を食べている」と意識された方がよいでしょう。したがってたんぱく質中心のメニューとなります。たんぱく質もいろんなたんぱく質がありますが、できれば脂肪酸の関係からは魚及び豆類が最もよいでしょう。

4.喘息とは気管支の慢性炎症を来している病態です。炎症を起こす物質は、アラキドン酸由来です。ω6系の不飽和脂肪酸はアラキドン酸の原材料になりますので、できれば避けましょう。逆にω3をたくさん取ることで喘息の予防になります。

5−7.だんだんめんどくさくなってきました。またの機会にさせてください。


兄はストレスのきわめて多い職場で食事時間も不規則で、食べれるときにさっさと加工食品や弁当を食べるという生活をした結果、高尿酸血症・高脂血症・血圧もやや高め、血糖値も上昇しましたが、上記のような食事に変えた結果すべて改善しました。

ただし体重は変わりません。これはアルコール摂取が多いためだと考えられます。ただし肝機能は正常です。



2013年01月16日(水) またまた自炊とか父の友人とか。

先日、突然父の友人が訪ねてきた。今の住所に転居してから初めてのことだ。年賀状の住所を頼りに来まして、と彼は言った。

もともと父がかかわっていたイベントがあり、それが長年続いていることから記念品を作ったので持ってきたとのこと。父も大層喜んでおり、てめえも楽しそうに再会を喜ぶ二人を見てなんだか久し振りにほっこりした。

それで済めば良かったのだが、話を聞きつけた別の友人がまた訪ねてこられた。大変申し訳ないがちょっといろいろあり、なんだかややこしいことになりそうだ。

思わぬ副作用もあり。この日以来、まだらではあるが父の記憶力が復活した。今まではあっという間にいろんな出来事を忘れていたのだが、まだらではあるが昨日のことも覚えている。

友人の訪問があった後、父がてめえのところに新聞を持ってきた。「映画名作大全集」みたいな全集DVDが欲しいので買ってくれと。あまりそういうことを言う人ではなかったので、珍しいことを言うものだ、まあてめえも観たい映画がたくさん入っているので買うか、と考えた。この日は他にも色々と忙しかったので、また後日注文するかと思っていたのだが、翌日もその次の日も、「DVD注文してくれたか?」とてめえの言ったことを覚えていたので驚いた。

もちろん次の日には注文した。Amazonが当日配達をしているこの時代に1-2週間かかるとのことだったが、届いたら父の記憶からきれいさっぱり消えているということは避けてほしいな。


自炊が捗っている。年末の時点で1000冊は電子化したので今は1500冊くらいだろうか。kobo touchの容量も2GBから32GBに増量しており、これらの本がすべて入る。まるで本棚そのものを持ち歩いているのと同じだ。

スキャンしたpdfの原本はPCのHDだけではなく外付けHDにもコピーして残してあるが、てめえの家が火災にでもあったらいずれもアウトなので、クラウドに入れることにした。

いろいろ検討したがamazonにクラウドを使用することにした。結果的にはこれがとても良かった。

kindle fire HDは加工したpdfをきれいに読んでくれなかったのだが、原本はきれいに表示してくれた。そもそも原本は容量が大きいのでそのままkindleに入れるつもりはなかったのだが、意外なことにクラウドに入れたファイルはkindleにタイトル表示されており、必要なものだけダウンロードして読むことができた。これは便利。

すでに本棚二つが空になった。実はもう一つ空にしているのだが、こちらはそのまま小物入れとして活用。空いた本棚は母宅に差し上げるつもり。



2013年01月02日(水) 青いターバンの少女

もともと教養のない成り上がり者なので、絵画などの美術関係の趣味はまったくなかった。学校での「美術」は「1」をとったこともあるくらい出来が悪く、高校はお情けで何とか卒業させてもらったようなものだ。著名な絵を見ても、何がよいのか全く分からずに生きてきた。


大学生のころの話。生活のために家庭教師をしていたのだが、その時の教え子の一人が、もともと美術系だったがそっちをあきらめて進学するという子がいた。たいそうできる子で、高校のクラスは理系ではなかったが最終的には医学部に進み、今は医者をしている(はず。国家試験に合格したところまでは知っているがその後は知らん)。

せっかくなので美術の何がよいのか教えてもらおうと思い、受験が終わったら美術館に連れて行ってくれ、そして美術を教えてくれとお願いしていた。

んなわけで受験も無事終了し(徐々に思いだしてきたが、てめえは受験時に学校までついていき控室で最終チェックまでする熱血先生だったわ)、美術館に連れて行ってもらった。その教え子の自宅近くに美術館があった。すっかり忘れてしまったが、著名な画家の展覧会をしていたはずだ。

さすがにいつもと立場が逆転し、てめえは熱心にレクチャーを受けたが全く忘れてしまった。「この色は素晴らしい」「この線はこの人でないと書けない」などと熱心に解説してもらったが「へぇ」程度に終わってしまった。本当に興味がないらしい。むりやり教養をつけるのは無理だと感じた。

そんなてめえだったが、ある日一枚の絵画に邂逅した。フェルメールの「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」だ。この出会いは衝撃だった。残念なことにどこで出会ったのかはすっかり忘れてしまった。

真っ黒な背景に浮かぶ青いターバン。この青さに心を奪われてしまった。「色」が素晴らしいということを、初めて知った。(ちなみにこの日以来、てめえのパソコンのデスクトップは青いターバンの少女である)

それから、フェルメールの絵が来日すれば万難を排して会いに行った。まるで恋に落ちた少年のようだ。

なんとか仕事の都合をつけて沖縄からはるばる会いに行った国立新美術館での「牛乳を注ぐ女」。絵を見るためだけの旅行は生まれて初めてだった。そして初めて生で観た「フェルメールブルー」に感動した。もちろん「青いターバンの少女」のコピーを購入し、額縁に入れて飾っている。

京都に帰ってきてから、娘と観に行った「レースを編む女」。人大杉で小学生の娘は絵を見ることができず、娘を両手で持ち上げたのが懐かしい。

「青いターバンの少女」は、いつかオランダまで会いに行こうと考えていたのだが、マウリッツハイス美術館の改装のために、なんと来日するということになった。これは万難を排しても会いに行かないと。

今回は東京と神戸での展覧会となった。東京まで行くのは難しいので神戸に会いに行くしかないが、以前と違って親父の件などなかなか都合が難しい。

そんなわけで、昨年は都合をつけることができずにあきらめかけていたのだが、急遽いろんな都合がつき、なんとか展覧会終了前の正月明けのこの日に会いに行くことができた。

さすがに1月2日は人がいないだろうと考えていたが、窓口からすごい人だった。入場券はネット購入していたのでてめえはすんなり入場できた。

今回はマウリッツハイス美術館の絵画がまるっと来日していたので、いろんな絵を楽しむことができた。

そしてようやく出会った。正直言葉にならなかった。てめえは長いことその部屋で佇んでいた。

またいつかオランダに会いに行こうと思う。



2013年01月01日(火) 年末年始備忘録

あけましたよ。おめでとうございます。

・大晦日に父の自家発電を見てしまった。これはトラウマ。突然部屋に入って「あっ」というものではなく、外出の予定があり何度も部屋を出入りしていたところだった。てめえも油断していたが、父の部屋でいろいろ用事を済ませて「そろそろ着替えて出ようか」と言っていったん自分の準備に戻り、「そろそろ行こうか」とノックして扉を開けたら自家発電。しかも恥じる様子もなく、秘蔵の画像を堂々と展開されながら黙々と続行されていたので、てめえは黙って扉を閉めた。一緒に出かける予定だった母が、動揺しているてめえを見て「どうしたの」と尋ねてきたので、隠すことなくありのままをお話しした。「見なくてよかったわ」と悠然と茶を啜る母。しばらくして「行こうか!」と叫んだ父の声が聞こえた。どうでもええわ。

・今年も芋棒に挑戦。大晦日の夕方に近くの店に行くと、海老芋も棒ダラもディスカウントされていたのでようやく作る気になった。去年はどうしたかよく覚えてないが、今年は番茶で棒ダラをしっかり煮たらうまくいった。今後は番茶で作る。

・今年も白みその雑煮に挑戦。本田味噌の白味噌を使って美味しくできたが、次回は普通の白味噌ではなく上等な奴を使ってみたい。今年は上等な利尻昆布を「うそっ」というくらい使ったが、昆布のみだった。それが美味しくできた理由かもしれない。

・年明け直前に除夜の鐘を突きに近所の寺に参ったが、結構人気の寺で整理券を配っていた。てめえが到着した時点で「100」番。こりゃあきりがいいや、などと喜んでいたが、整理券配っていた兄ちゃんが「もうすぐ終わりでしたよ。間に合ってよかったですね」などと言ってきた。どういういことかと聞くと、除夜の鐘だから108人までですわ、と言われた。納得。


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